第14話 現実という名の物語

「文芸部の部誌です。見ていってくれませんか?」


 瀬尾は部誌の見本を持って、道行く人々に声をかけている。


「見ていくだけでもいいんです。どうかお願いします」


 必死に声をかける瀬尾の言葉に動かされ、見本の部誌をぺらぺらとめくる人も何人かいたのだけれど、ほとんどの人は買わずに去って行った。俺たちは店番を変わってから、部長や日下部先輩の行動の結果なのだろうか、何人かの人が部誌を買って行ってくれたのだけれど、それでもそれは焼け石に水だった。このペースでは完売は無理だ。

 そもそも、この売り方に限界があったのかもしれない。

 マンガやイラストならば、その技量というのは一目瞭然で解る。表紙や中に書かれたイラストが気に入れば、その場で購入するという人も出てくるだろう。

 だが、これは小説だ。

 小説は、一目見ただけでその価値を判断するのは難しい。

 よく小説の価値は書きだしで決まるなどと言われるが、では、その書きだしの価値を判断できる人間がどれくらい居るだろうか。まして、この落ち着かない文化祭という場だ。本屋での立ち読みやネットでの試し読みとは訳が違う。

 そのとき、通行人に声をかけ続けていた瀬尾はへたり込むように俺の隣のパイプ椅子に座り込んだ。


「だめだ……」


 瀬尾はそっと顔を伏せる。


「どうしたらいいんだろう……」


 俺はそんな瀬尾の様子を見ていられなくなる。俺は彼女にこんな辛い顔を見せてほしくなかった。

 じゃあ、どうすればこの部誌は売れるだろうか。

 俺は頭を働かせる。

 ふと、一つの方法が頭に浮かんだ。

 そのあまりに馬鹿らしい方法に、俺はその考えを一蹴した。

 リスクの大きさの割に、リターンが見合わない。そこまでのことをやっても途中で失敗する可能性は高いし、仮に目論見が最後までうまくいったとしても、それが部誌の売り上げにつながるという保障はない。


「……馬鹿らしい」


 俺は呟く。

 その発想は、今までの俺の人生そのものを根底から覆す考え方だった。

 そんな考えを一瞬でも考えること自体がありえないことだった。


 ――そう、ありえないことだったんだ。


 俺はこの文芸部のために、自らの身を切ることを考えていた。

 俺がこの部活に居るのは、あくまで自分の正体を隠す契約のために他ならない。そして、この部活を通じて「偽りの青春」を過ごし、取材する。ただ、それだけのために、俺は今、この場所にいた。

 もう潮時なんじゃないのか。

 俺は考える。

 このまま部誌は売り切れず、文芸部は廃部になる。

 それでもいいじゃないか。そもそも、俺は居たくてこの部活に居たわけではない。瀬尾に頼まれて仕方なくこの部活に入っただけだったのだ。瀬尾は文芸部を守るためにプロになろうとしていたのだから、その部活そのものが無くなってしまえば、瀬尾との約束も糞もない。すべてがゼロになる。

 それでいいはずだ。

 少なくとも以前の俺なら、それでいいと思っていたはずなんだ。

 だけれど、そんな結末に納得できない自分が居た。

 そんなくだらないエンディングは認められないと叫ぶ自分が居た。

 俺は文芸部になくなって欲しくなかった。


 それはなぜだ。


 「青春」の取材ができなくなるから?


 瀬尾との契約が果たせないから?


 ――違う。


 俺はただこの部活を守りたかった。


 瀬尾が居て、部長が居て、日下部先輩が居て、彩音が居る。あの部室で過ごした時間を守りたかった。すべてをなかったことにして、消えていこうとする未来を見捨てることができなかった。


 ――俺の隣に居る瀬尾に泣いてほしくなかった。


 俺にとってこの文芸部は本当に大切なものになっていたんだ。

 そんな当たり前で、ありきたりな事実を俺は認める他なかった。

 心の中に居る誰かが嘯く。


『そんな簡単に心変りするものなのか?』


 俺は黙って自分の心の声に耳を傾ける。


『利用するとか、契約だとか、散々斜に構えたことを考えておいて、こんなにもあっさりと宗旨替えする』


 嘲る様な声が響く。


『糞みたいな三文シナリオだな』


 ああ、本当だ。

 ひねくれるならひねくれるで最後までそのキャラクター性を突き通すべきだ。心変りするなら、復活に立ちあったパウロのような本当に納得できるほどの理由がなければならない。

 本当につまらない物語だと思うよ。これが小説だったなら、俺はその作者を馬鹿にし、見下していただろう。


 ――だけれど、これは現実なんだ。


 俺は小説の登場人物ではない。血と肉を持ったどこにでも居るありきたりな人間だ。


 人間は変わるんだよ。


 些細なきっかけで、つまらない出来事で、人は変わるんだ。


 俺は変わった。


 変わったということを認めなければならない。


 その変化が善きものであるのか、悪しきものであるのか。それはまだ解らない。その審判を下すのは将来の俺だ。


 だけれど、少なくとも今の俺はこの部の仲間のために何かをしたいと思っていた。ほんの数秒前の歪み切った自分が聞けば、卒倒するような考えの変わり方だ。


 でも、いいんだ。


 それがきっと生きるということなんだろう。


 そんな都合のよい考えに今だけは浸らせてくれ。


『………………』


 心の中に居た誰かはもう何も言わなかった。


 さあ、あとは俺にこれからしようとしていることを実行する資格があるのかどうかだ。


 俺はそれを問わねばならない。




「なあ、瀬尾」


 俺は隣に居る瀬尾に向かって声をかける。


「おまえは文芸部がなくなって欲しくないか……?」


 俺の言葉を聞いて、瀬尾は一瞬戸惑った表情を見せる。だが、すぐに瀬尾の瞳に火が灯る。


「当たり前だよ」


 その声には、瞳には、いつか俺が惹かれたあの輝きが宿っていた。

 このつまらない現実を、面白い物語へと変えてくれるときのの輝きだった。

 俺はそんな輝きを持った少女に問わねばならない。俺がこれからやりたいと思っていることの是非を。そして、俺にその資格があるのかを。


「瀬尾、聞いてくれ」


 俺はそう言ってから、大きく息を吐き、また息を吸う。肺がめいいっぱい膨らむまで息を吸い、俺は、それをゆっくりと吐きだす。そんな動作を何度か繰り返してから、言った。


「俺は瀬尾たちを利用しようと思っていた」


 それは俺の罪の吐露だった。

 瀬尾は何も言わず、黙って俺の言葉に耳を傾けてくれている。


「あの日、放課後の教室で瀬尾が俺を文芸部に誘ってくれた日。俺はおまえの言葉を聞いて利用できると思ったんだ」


 放課後、西日差す赤い教室に佇む瀬尾が頭を過る。


「俺はプロ作家としては二流だ。なぜなら俺の小説には『経験』が足りないから。俺は恋愛小説家でありながら本当の恋愛というものを知らなかった。現役の学生でありながらみずみずしい感性というものが足りなかった」


 俺は必死に言葉を紡ぎ続ける。


「だから、瀬尾から誘いはチャンスだと思った。瀬尾の誘いに乗って文芸部に入部すれば、俺に足りなかった学生としての経験が手に入ると思った。『偽りの青春』とでも呼ぶべきものを、俺は手に入れられると思った」


 俺はぎゅっと両の拳を握りしめる。


「俺はおまえたち文芸部を利用して小説の『取材』をしようと思っていたんだ」


 俺は瀬尾の顔を見ることが出来ず、うつむいたまま口だけを動かし続ける。


「初めはずっとそう思っていた。これはあくまで『取材』なんだって。だから、本気でおまえたちと仲良くするつもりなんてなかった。俺はこいつらを利用するだけ。そう思っていたんだ」


 一つ言葉が生まれ、また別の言葉が生まれる。生まれた言葉はまるで坂道を転がり落ちていくボールのように俺の手元から離れていく。


「でも、いつの間にか、おまえらと過ごす時間が俺にとって大切な物になっていることに、気がついたんだ。ただ、利用するだけだったはずの人間関係……。それが愛おしいと、好きだと思う様になっていたんだ」


 俺はもう自分で自分が何を言っているのか解らなくなりつつあった。それでも俺の言葉はとめどなく口から溢れ続けた。


「なあ、いいのか?」


 俺は瀬尾に問いかける。


「俺はこんな都合のよい考え方をしてしまってもいいのか?」


 この問いを投げかけるべき相手は瀬尾以外には考えられなかった。

 俺が利用し、俺が惹かれた少女。

 俺は彼女の答えに従おう。


「俺はおまえらの本当の仲間になってもいいのか……?」


 そして、俺はゆっくりと顔を上げて、隣に居る瀬尾を見たのだった。

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