第11話 変わるもの、変わらないもの

 その日以来、俺は以前よりも頻繁に瀬尾と会話を交わすことになった。

 今までは気がつかなかったが、彼女はクラスの中でとある女子のグループに属しているようだった。人間が集団になれば、そこには必ずある程度の上下関係が生まれる。たとえ同じ年齢、同じクラスであったとしても、だ。

 瀬尾が属するグループはいわゆるクラス内の派閥で最大のものであるようだった。休み時間になれば、リーダーと思しき女子生徒の机の周りに集まり、雑談を始める。どうやら、彼女はその末席にいるように見えた。中心的な人物の語る話題に頷き、笑って相槌を打つ。少なくとも、俺には彼女がその雑談を心から楽しんでいるようには見えなかった。

 彼女がどんな思いであのグループの生徒たちと行動を共にしようと考えたのか俺には解らない。もしかしたら、瀬尾はあのグループの人間が本当に好きで一緒に居るのかもしれない。だが、仮にそうではないとしたら、どうして彼女がそんな選択をしたのか。それは充分に理解できることではあったけれど、理解したいことではなかった。

 俺はふと思う。

 今まで俺はクラス内のグループのことなど歯牙にもかけずに過ごしてきた。だが、ならばなぜ今になってそんなことに気がついたのだろう。


 ――瀬尾を見ていたからだ。


 気がつくと、俺はずっと瀬尾の背中を目で追っていたんだ。




「なあ、瀬尾」


 それはある日の昼下がりの出来事だった。俺が瀬尾の作品に批評をくわえた後のことだった。


「おまえはなんで文芸部に入ったんだ?」


 二人きりの部室で、向かい合って座っている瀬尾に向かって、俺はそう問いかけた。

 なぜ今更そんなことを聞いたのか、自分でもよく解らない。他の話題が思いつかず、適当に投げかけた問いとも言えたし、俺が本当に知りたかったことを満を持して問うたとも思えた。俺はそんな曖昧な考えで、その言葉を口にした。


「………………」


 俺からの問いに瀬尾は目をぱちぱちとしばたたかせる。


「なんで文芸部に入ったか、か……」


 瀬尾は机に肘をついて、ぽつりと呟いた。

 そして、力が抜けたようにだらりと机に載せた肘に顔を預ける。


「なんとなくかな」

「なんとなく……」


 俺は正直、その答えに拍子抜けした。肩すかしをくらったとも言う。


「そんなもんなのか……?」


 俺は言う。


「普通、こういうことって理由とか、それにまつわるエピソードみたいなのがあるもんじゃないか?」

「なにそれ?」

「なんかほら……。文芸部にまつわる秘密の事件を探るためとか……?」

「あはは、なにそれ? ミステリーかなんか?」


 瀬尾は笑顔を見せる。

 彼女はゆっくりと身を起こし、背伸びをしながら呟く。


「まあでも、普通、部活を選んだ理由なんて、大それたものじゃないと思うよ」

「……そういうもんか」


 俺は自分が今まで部活に所属したことがなかった。それは自分が入りたいと思う部活がなかったからだ。だから、誰かに強制されたならともかく、自発的に部活に所属したのであれば、各々に明確な目的や理由があってしかるべきではないかと、俺は考えていたのだ。


「確かに小説とかマンガとかなら、きっちり設定を練らなくちゃいけないところなのかもしれないけどね」

「………………」


 俺は思わず、口をつぐむ。瀬尾の言葉は何故だか俺の痛い部分をついたような気がしたのだ。

 瀬尾には何の意図もないのだろう。本当に何気ない調子で呟く。


「事実は小説より奇なり、なんて言うけど、実際の事実はそんなに奇なものでもないよ」


 瀬尾は椅子に深く持たれて、天井を見上げる。


「なんとなく部活に入って、なんとなく楽しんで、なんとなく生きているよ」

「なんとなく……」


 俺はそんな瀬尾の言葉をゆっくりと飲み込む。

 現実とはそんなものなのだろうか。

 人の気持ちとはそんなものなのだろうか。

 理屈とか筋の通らない理不尽。それが小説だったら「道理が合わない」とか「矛盾している」とか、そんな言葉で批判されてしまうだろう。

 俺が瀬尾にそう言うと、瀬尾は笑って答えた。


「現実ってそういう理不尽なものなんじゃないかな」

「………………」

「理屈とかそういうものじゃなくて。みんな、結構、適当に生きているよ」


 俺は瀬尾の言葉に黙って耳を傾ける。


「だから、夏樹くんもあんまりそんな理屈ばっかりに囚われなくてもいいんじゃないかな?」


 彼女は澄んだ瞳は、確かに俺を捉えていた。




「コスプレとかどうかな?」

「……何の話ですか」


 部長が口の端を歪めて話しだしたときはろくでもないことを考えているときだということはもう知っている。

 部長は部室でそれぞれの作業を進める面々に向かって言った。


「部誌を売るための宣伝よ。やっぱり数を売る為には宣伝が必須だと思うの」

「まあ、一理ありますね」


 実際に本を出したときの売り上げの上下を決めるのは、宣伝であると言っても過言ではない。本の良しあしとは別に、一冊の本にどれだけの宣伝を行ったかというのも無視できない要素となるのだ。部誌だってそれは同じだろう。まず、手にとってもらえなければどれだけ中身が優れていても無意味だ。


「そのために売り子がコスプレしたら目立つんじゃないかなと思うのだけど、どうかな?」

「どうかな、と言われましても……」


 言いたいことは解らないでもないが、それはどこか邪道なのではないかと思う。

 俺は作業に集中する他の面々に変わって、部長の戯言に付き合ってやる。


「具体的には誰が何のコスプレをするんです?」


 俺のこの問いかけに、部長は、


「ん」


 と俺を真っ直ぐ指差すことで答えた。

 意味が解らず俺は首を傾げる。


「なんすか、その指は?」

「いや、夏樹少年がコスプレしたらいいじゃんという意の指差し」

「は……?」


 コスプレと聞いて、当然女性陣がする話をしているものだと思っていた俺は間抜けな声を漏らす。


「夏樹少年が執事服とか着たら、わりといけるんじゃないかと思うんだけど」

「はあ?!」


 俺は部長を睨む。

 何言ってんだ、この人……。


「舞ちゃんもそう思わない?」


 何故か部長は瀬尾に向かって話を振る。

 話を振られた瀬尾は何故か真剣な表情になって呟いた。


「……アリだと思います」

「ねえよ」


 瀬尾まで何を言っているんだと思う。


「夏樹の執事服……見たい」


 日下部先輩までもがこんなことを言いだす。

 黙って作業をしていた彩音までもが俺の方を見ていた。


「ほら、みんなもこう言ってるんだし。一回着てみるというのは?」


 ただの冗談と思っていたが、部長の目が案外真剣だったので、俺は思わず一歩後ずさりする。


「嫌ですよ。だいたい、執事服なんて都合よく手に入らないでしょ?」

「そりゃあ、都合よくはないけれど。アキバあたりまで行ったら簡単に手に入るわよ。生地とかこだわらなければ、そこまで高値にはならないし」

「いや、知らないですけど……。ともかく俺はコスプレなんてしませんから」


 そんなコスプレなんてしたら、悪目立ちするに決まっている。

 変に目立つような真似をするのは御免だった。

 俺が拒否の姿勢を崩さないことが解ると部長は嘆息してから言った。


「駄目かあ。じゃあ、舞ちゃん、コスプレする?」

「え?」


 瀬尾は自分に白羽の矢が立つとは思っていなかったのだろう。先程の俺と同じ様に間抜けな声を漏らす。


「舞ちゃんならメイド服とか似合うと思うんだけどなあ」

「に、似合わないですよ!」


 瀬尾は先程まで俺をいじる部長の言葉に悪乗りしていたくせに、話が自分に及びそうになるとあっさりと態度を変えた。


「ねえ、夏樹少年。舞ちゃんにメイド服って似合うと思わない?」


 この人は何を聞いてくるんだ……。

 俺は思わず呆れる。

 だが、想像というのは湧き水のようなものだ。それは一人でに溢れだしてくる。部長からの問いかけに、俺は瀬尾のメイド服姿を想像する。清楚で、大人しそうに見える瀬尾にメイド服はよく似合うような気がする。

 だけれど、その想像を口にするかどうかは、また別の話だ。

 俺は曖昧な表情を浮かべて、部長の言葉をやり過ごそうとする。

 そのとき、ふと、瀬尾の言葉が頭を過った。


『だから、夏樹くんもあんまりそんな理屈ばっかりに囚われなくてもいいんじゃないかな?』


「………………」


 一瞬の沈黙の後、俺は答える。


「アリだと思います」


 先程の意趣返しのつもりで俺はそう言ってやった。


「瀬尾にはよく似合いそうですよ」


 すると、瀬尾は言った。


「夏樹くん、余計なことは言わないで」


 彼女は顔を赤くして俺を睨んでいる。


「あはは」


 部長はいつも通りの笑顔で俺達を見ていた。




 ドキドキしていた。

 俺の心臓は存在を主張するようにどくんと跳ねていた。

 だけど、それだけだった。

 俺が漠然と恐れていた何かは訪れない。

 俺はいったい何を恐れていたんだ?

 今となっては、そんな風にすら考えてしまうほど、あまりにあっさりと俺はその変化を受け入れた。

 ここは文芸部なんだ。

 あの場所とは違うんだ。

 今更に、俺はそんなことを考えた。


 その日以来、俺は少しずつ自分の言葉を口にするようになっていった。




 文化祭のための準備は着々と進められていた。

 俺たちが文化祭でやろうとしていることは部誌の販売。屋台を出したり、食品を取り扱おうとしている団体に比べればやらなければならないことは少なかったけど、それでもやるべきことは色々あった。部誌の販売を宣伝するポスターや看板を書いたり、それを掲示するために生徒会に許可をもらいにいったり、当日の販売の当番のシフトを決めたり。文化祭に来た客とお金のやり取りをするには、きちんと許可をもらわねばならないということが判明し、慌てて申請をしたりもした。俺が想像していたよりも煩雑な仕事が多くあった。これは外から見ていては決して気が付かなかったことだと思った。


「彩音、そのマジック使い終わったら、次貸してくれ」


 俺は彩音に声をかける。


「……はい」


 彩音は一瞬、俺の方を見て、何か複雑そうな表情を見せて、返事をした。

 俺は隣で作業をしている日下部先輩に向けて言う。


「あ、日下部先輩。それは看板じゃなくて、ポスター用の画用紙じゃないですか?」

「あれ? あ、ほんとだ。ごめん」

「気をつけてくださいよ。ポスターには許可されてる用紙以外使用禁止なんですから」

「はいはい」


 先輩は俺の言葉に笑って答える。

 準備のためにはやることは山積みだ。

 俺はそんな日々に振りまわされ続けた。




 部活動を終え、帰宅しようとする頃には太陽は彼方へ姿を消していた。

 部活のメンバーはさすがに誰も寄り道することなく家路についていく。自然に俺と彩音が二人きりになる時間が増えていった。

 二人きりになってから会話が交わされることは稀であった。天気の話とか、宿題の話とか当たり障りのない話題を俺が探り探り提示し、彩音が小さくそれに答える。それが俺たちのここ最近の帰宅時の恒例のやり取りだった。

 だが、その日、先に言葉を発したのは珍しくも彩音の方だった。


「夏樹さんは変わりましたね」

「え……」


 挨拶や必要にかられた場面以外で彩音の方から声をかけてくることは本当に珍しいことだったので、俺は面を食らってしまう。

 彩音は相変わらずの感情の見えない表情で前を向きながら話す。


「以前とは雰囲気が変わりました……」

「そうかな……」


 確かに、以前よりは少しだけ文芸部のメンバーと話をするようになった。だけれど、それはあくまで言葉を交わせるようになっただけだ。

 未だ残る過去のトラウマ。

 それを少しの間、忘れてみてもいいかと思えただけなのだ。

 つまり、せいぜいがマイナスが限りなくゼロに近付いたというだけのことに過ぎない。

 俺は未だにどうやって他人に心を開いたらよいのか解らない。


「……俺のどこが変わったと思う?」

「………………」


 俺の問いかけに彩音は立ち止り、俺の顔をしげしげと見る。

 磨き上げられたガラスのような瞳が俺を捉えていた。

 そして、ふいと目を逸らし、俺を置いて歩き出しながら呟いた。


「……よく解りませんけど」


 俺はそんな風に呟く彩音の背中を黙って追った。




「ちょっと変わったよね」


 瀬尾たちが席を外し、部長と俺が二人きりになったタイミングだった。


「何がですか」

「夏樹少年、初めて会ったときよりだいぶ丸くなった」

「………………」


 俺は黙って部長の顔を見る。

 部長は彼女にしては珍しい静かな笑みを浮かべていた。


「何が君を変えたんだろう」

「………………」


 俺は思う。

 本当は何も変わってはいないのだろう。

 先日、彩音にも似た様なことを言われた。

 確かに俺は以前よりも少しだけ人と関わる様になった。それを変化だというのなら、確かにそうなのだろう。

 だが、人間の性根というのは、そう変わるものではない。

 俺は相変わらず人を信用していなかったし、誰かと関わることが億劫だとも思っていた。


 なにより、俺は彼女たちを利用しているのだ。


 たまに忘れそうになっていた。

 確かにここで過ごした時間は俺にとってかけがえのない物になっていて、遠い未来この瞬間を振り返ったときに胸が痛くなるような大事な物になっていて――


 俺はいつの間にか「青春」と呼んでもいいかもしれない時間を過ごしていた。


 瀬尾が居て、部長が居て、彩音が居て、日下部先輩が居て。

 この五人で一つのことをやり遂げようとするこの時間をきっと「青春」と呼ぶのだと思い始めていた。

 もちろん、これが本当の「青春」なのかということは、実のところは解らない。

 俺はこの四人のことを何も知らない。彼女たちが何を考え、何を悩み、何を思っているのかを。

 誰とも本当の気持ちを吐露し合ったことなんてないのだから。そんな関係を仲間と呼んで、過ごす時間を「青春」と呼んでいいものなのか、本当のところは解らない。

 だけれども、彼女たちと今のこの時間をもう少し過ごしてもいいかと思える程度には、ここは俺にとってかけがえのない場所になっていた。

 もしかしたら、明日になったらこの気持ちは消えているかもしれない。

 ただの錯覚だったと吐き捨てているかもしれない。

 それでも、俺がこの時間に「青春」の可能性を感じてしまったことは否定できない事実だった。

 この人たちと一緒に居れば、俺は何か変われるんじゃないかと勘違いしてしまうくらいに。


 ――だけれど、駄目だ。


 俺はもう一度自分を戒める。

 俺はこの人たちを利用しているにすぎない。

 それはあの夕暮れに染まる教室での瀬尾との出会い以来、変わらない。

 俺は彼女の提案が契約だったからこそ、彼女の言葉に乗れたのだ。もし、彼女の誘いが無償の善意によるものであったならば、きっと俺はここには居なかっただろう。二度と人を信じたくないと思っていた自分は決してこの場所には来れなかった。

 そんな自分の醜さを忘れて、ただこの人たちの仲間であろうとすることは決して許されることではないのだ。


「……別に何も変わってませんよ」


 俺は答える。

 俺は本当に何も変わっていない。

 俺の言葉に部長は何も答えなかった。

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