第10話 切り捨てたはずの過去
昔から本を読むのが好きだった。
両親は共に読書家で家に雑多な種類の本が溢れていた。恋愛、SF、ファンタジー、ホラー。幼い俺が見上げても頂点が見えないほどの本棚に並べられた本は父親と母親、それぞれの趣味が混ざり合って出来たもので、俺はまるで宇宙が構成される途中みたいな混沌としたその本棚が大好きだった。
そこに置かれていた本は子供向けとは言い難く、難解な本も多かったし、およそ子供が読むべきではないとされるような醜怪で、官能的なものも混ざっていたのだけれど、両親はそれらから俺を遠ざけることはしなかった。
「面白ければいいんだよ」
父はそう言って笑い、俺に小説を与え続けた。
俺は本という栄養を摂取し続けて、成長していった。
「どんな本を読んでるの?」
幼い頃、御影さんたちに連れられ、うちの家を訪れていた彩音は俺に向かって問いかけた。
その頃の彩音はまだ俺に対しても御影さんに対しても敬語を使わない、どこにでも居る様な普通の子供だった。だから、まだ小さかった俺も何の気負いもなく言葉を交わせた。
「今はSF。ハインラインを順番に読んでる」
「はいん……?」
俺の言葉が理解できないのか呆けた表情で彩音は俺を見ていた。
「こっち」
俺は両親の書斎に案内してやることにした。口で説明するより見せてやった方が早いと思ったのだ。
書斎へと続く重い扉は、俺にとっては異世界へと通じる入口だった。
薄暗く、少しカビ臭い部屋にある一冊一冊が俺を別の世界へと導いてくれる。
「すごい……」
彩音は圧倒されているのだろう。小さく言葉をこぼす。大人の背丈よりも高い本棚がいくつも並んでいるそこは本の森とでも言うべき場所だったから、幼い彩音が圧倒されるのもある意味当然だった。
俺は本棚を前にして説明する。
「今はようやくこの辺りまでは読んだ」
その棚は全体から言えばまだ半分にも達していない。俺は子供の頃から本を読むのが人よりも早い方だったけれど、それでもこの部屋にある本を読みつくすには至らない。それだけ膨大な数の本が溢れていたのだ。
彩音は俺の言葉を聞いているのか、居ないのか。気の抜けた声でぽつりと呟いた。
「なんでそんなに本ばかり読んでいるの?」
「え?」
その問いかけは、大袈裟かもしれないけど、俺にとっては青天の霹靂だった。
何のために本を読むのか。
俺はそんなことを考えたこともなかったのだ。
なぜ、おまえは俺達を読むんだ、と山の様な本たちが表情も変えずに俺に問いかけていた。
当時の俺にとって読書とは、食事や睡眠と同じだった。何のために食べるのか、何のために寝るのか。大方の人はその理由なんて考えない。それと同じで俺は自分が本を読み続ける理由など考えたこともなかった。ただ、目の前に本がある。それだけで俺が読書をする理由としては充分だった。
彩音の言葉は喉に刺さった魚の小骨のようなものだった。それから数日、俺はそのことを考え続けたが結論は出なかった。
ある日、俺は食事のときに両親に問いかけた。
「なんでお父さんとお母さんは本を読むの?」
俺の問いかけに父親は何気ない調子で答えた。
「面白いからやな」
父親の言葉に母親も頷きながら呟く。
「そうねえ。別に特に何か理由があって読んでるんとは違うわねえ」
両親の言葉に俺は少しだけがっかりした。
こうやって悩んだ末に両親に問いかければ、何か深い含蓄を含んだ言葉を与えてくれるのではないか、という期待が俺の中にはあったのだ。
だって、大抵の小説ではそういう展開になるではないか。
俺は思った。
現実ってつまらないものなんだな、と。
俺はこの日からますます本の中の世界にのめり込んでいくようになった。
現実では学校の机に向かってつまらない授業を聞く俺も、本の中では世界を救う英雄だった。
現実ではまずい給食に顔をしかめている俺も、本の中では宇宙をかける宇宙飛行士だった。
そして、現実では女の子と話もできない俺も、本の中では愛してくれる素敵な女性がいた。
俺の世界の中心は本の中にあった。
現実はなかなか追いついてきてはくれなかった。
自分で小説を書き始めたのは、家にあった小説をすべて読み終わった日のことだった。
俺は世界のすべてを征服した様な気分になっていた。もちろん、書斎にある本なんて世界に存在する本の総数に比べれば知れたものだ。それでも、いつの頃からかこの書斎にある本すべてを読み終わったら、自分で小説を書こうと思うようになっていた。
現実はつまらない。
だったら、現実なんて見なければいい。
それでも、現実は俺の目の前にどこまでも広がっていく。
つまらない現実は変えられない。
ならば、どうする。
現実を材料に新しい世界を造ればいいんだ。
その結論に至った日から俺にとって現実は低位となった。
現実は物語という新たな世界を造るための素材となった。
学校も、家も、道も、森も、空も、風も、宇宙も、他人も。
すべては新たな世界を構築するためのパーツとなった。
俺は校舎の屋上を見て考える。
屋上を描写するときはフェンスとその高さを書くことを忘れてはいけない。
俺は青い空を見て考える。
本当に澄み渡る青い空は滅多に見られるものではないからこそ、ここぞと言う場面で描写する必要がある。
そして、俺はクラスメイトと言葉を交わし考える。
小学生の会話に論理性を求めては嘘臭くなる。奴らの会話は低俗で猥雑だ。それを忘れてはいけない。
俺は少しずつ現実を呑み込んでいった。
大した理由があって中学受験という道を選んだわけではなかった。
俺はそれなりに成績が良かったから、六年生になって少し塾に通えば充分に志望校に合格することができた。その中学校は地元から少し離れていて、うちの小学校の校区から入学することが決まったのは俺だけだった。
今にして思うと、このときの俺はなんだかんだ言っても、まだ現実に期待していたのだと思う。
誰も自分のことを知らない土地。
それがこのつまらない現実を変革する出会いを与えてくれる可能性をまだ考えていたのだ。
そんな考えが甘いものだと知るまでに時間はかからなかった。
つまらない現実はまだ続いていた。
進学校と言っても所詮は少し前まで小学生だった奴らばかりだ。彼らの間に交わされる話題は小学校で語られていたそれと大差はなく、ただ卑猥な話題がほんの少し生々しくなっただけだった。
くだらない連中だ。
俺はいつしかクラスメイトを見下すようになっていた。
奴らは、思想を統制され、党に二十四時間監視されている世界を知らない。
奴らは、高い壁に囲われ、夢を見ること以外に何もできない世界を知らない。
奴らは、愛ゆえに裏切り、憎悪しあう悲しい人々の住む世界を知らない。
俺はいつしかクラスの中で孤立した。
当時の俺はそれを「栄光ある孤立」とでも呼ぶべきものであると捉えた。それは今考えると顔から火が出るほどの愚にもつかない考え方であったのだけれど、当時の俺はそんなか細い矜持に縋る以外に寄って立つ足場を無くしてしまっていたのだった。
孤独な日々の中で俺は本を読み、小説を書き続けた。
ファンタジー、ホラー、青春小説。思いついたものは何でも書いてみた。今読み返せば目をそむけたくなる様な出来の作品ばかりであったけれど、そうした作品が当時の俺を支える原動力だった。
小説家になりたいと思ったのはいつのころだろう。
少なくとも小説を書き始めたときと小説家になりたいと思い始めたタイミングは一致しない。当時の俺にとって小説を書くことは呼吸の延長線上にあるもので、それで生きていくとか、食っていくとか、具体的なことは一切考えていなかった。
だが、中学生にもなると少しは、このくだらない現実の仕組みというものも見えてくる。
ずっと本だけ読んで暮らしていければいいが、そうはいかない。生きる糧を得るためには働かなくてはいけない。
ならば、小説を書くことを生業に出来ればいいのではないかと考えること自体は至極自然の流れであったと言えよう。
俺は自分の書いたものの中でそれなりに出来が良いと思えるものを投稿してみることにした。
印刷した原稿を郵便局員に渡す手が震えた。
これが俺の将来を決める一歩になる、と。
だが、投稿した小説が受賞することは一度もなかった。
中学に入学して一年が過ぎたある日のことだった。
「いっつも難しい本読んでるね」
その当時の俺は休み時間、学校の図書室で読書をしていることが多かった。教室に居ても誰も話す相手は居ないし、本を読むには教室の喧騒は邪魔だった。俺の脚は自然、図書室に向かった。本の山が俺を守ってくれるような気がしていた。
いつものように読書にふける俺に声をかけたのは、見知らぬ女子生徒だった。
いや、顔を見て気が付く。
確かクラスメイトだったか……?
二年生になってクラス替えが行われ、クラスのメンバーも変わった。もしかしたら、この人はクラスメイトだったかもしれない……。
「あ、私、須川心。よろしくね」
「あ……よろしく」
俺の疑問を察したのであろう女子生徒は自ら名乗った。
それが俺と須川心との出会いだった。
「今、何読んでるん?」
俺は黙って読んでいた本の表紙を見せる。
それを見た彼女は呟く。
「外国の本だね。やっぱ、難しそうやね」
「別に。下手な翻訳本やと読みにくいこともあるけど、別に外国の本と日本の本とに差はないよ」
「そうなの? じゃあ、どんな本がオススメか教えてよ」
「だったら、これと同じ作者の――」
この日以来、俺は須川心と言葉を交わすようになっていった。
「貸してくれた本。読み終わったよ。結構難しかったけど、面白かった」
「そう。どう? 感想は」
「やっぱり、旅に出る前に妹に会いに行く場面が、私は好きかな」
「解る。あそこが一つのクライマックスやね。タイトルの意味も回収されるし」
「あ、結局、あのタイトルってどういう意味なん? 私、読んでてもいまいち解らへんかった」
「あれは――」
須川心は明らかに他のクラスメイトと違っていた。読書量は大したことはなかったけれど、知的好奇心に富み、物事の本質を読み取る聡明さを持っていた。僕が彼女に本を貸し与えるようになると、彼女はそれらをどんどん吸収していった。
彼女と過ごした日々は間違いなく俺の人生の中でかけがえのない時間だった。俺はいつの間にかいつも彼女の存在を目で追うようになっていた。須川心という少女は俺の心の奥底にそっと腰掛けた。
俺が彼女に恋心を抱くには、そう時間はかからなかった。
「須川はどんな本が好きなん?」
放課後、人気のない教室。
俺は須川心に尋ねる。
「うーん。やっぱ、恋愛小説かな」
「そうか」
「中川くんは?」
「俺は――」
彼女の好きな小説は恋愛小説。
そのことを確かめた俺は、その日から恋愛小説だけを書き続けた。
そこからは一心不乱だった。
ずっと追っていた作者の新刊が出ても見向きもせず、テスト期間に突入してもテスト勉強もせず、ひたすらに小説を書き続けた。夏休みに入り、時間が出来てからは朝から晩までパソコンに向かった。ずっと同じ姿勢で座っていたためか、肩も腰も痛みを訴えていた。それでも、俺はただただ書き続けた。
なぜ、そこまで出来たのか。
それはひとえに須川心の気を引くためだった。
俺にとって執筆は元々一つのライフワークではあった。
だが、それはやはり「趣味」の一つでしかなかった。他の中学生が部活やゲームに夢中になるのと同じだった。将来の目標に小説家になる夢を密かに抱いていたことも確かだったけれど、それは夜空に輝く星のような見上げるだけのものでしかなかったのだ。
それらが具体的な物に変わったのは、間違いなく須川心の存在のためだった。
俺は彼女のことを思いながら、キーボードを叩き続けた。
二学期が始まり、また学校が再開する。
須川心との交流は続いていた。本を貸し合い、感想を言い合う他愛もない関係であったけれど、俺の心を温めるには充分な交流であった。
ある日のことだ。
「おまえ、須川のことが好きなんか?」
掃除当番で教室に残っていたとき、一人の男子生徒が俺に声をかけた。
彼のぶしつけな言葉もそうだが、俺は彼の表情が気に食わなかった。そこに浮かんでいた表情は、隠しようもない嘲笑だった。
俺はそいつを睨みつけることで返答の代わりにした。
すると、その男はふっと表情を緩めて呟く。
「やめとけ。あれはモテるからな。おまえなんかじゃ無理やって」
そのとき、その男子生徒の顔に浮かんでいたのは憐れみだった。
俺は一層、強くその男を睨んだ。
もう、そいつは何も言わなかった。
今にして思えば、こいつはこいつなりに俺の身を案じてくれていたのかもしれない。
俺がやろうとしていることを見抜いていたわけではないだろうけど、何かを感じ取り警告してくれていたのだ。
このときの俺はまだ自分の翼が蝋で出来ていることに気がついていなかったのだ。
「やった……」
受賞の連絡が来たのは、学年が上がる直前のことだった。
突然、出版社から送られてきたメール。俺は我が目が信じられず、何度もメールを読み返す。
だが、何度読み返しても結果は変わらない。
そこには俺の書いた小説が出版されることが決まった旨が書かれていた。
今の俺なら地平線の彼方まで走っていけると思った。
こうして、俺は小説家になった。
受賞が決まったから即出版という訳にはいかない。
内容に関する打ち合わせや誤字や脱字などのチェック。あとがきの文章を考え、送られてきた表紙のデザインの確認する。やらねばならないことはいくらでもあった。
しかし、暗闇を手探りで進んでいた執筆時とは違い、今度は出版という光がはっきりと見えている。
俺はひたすらにゴールに向かって走り続けた。
「最近、なんか忙しそうだね」
三年生になっても須川心と同じクラスになれたことに俺はほっと胸をなでおろしていた。彼女と本の貸し借りはずっと続けていたのだけれど、最近は俺が本を読む暇がなかったため、彼女との交流の時間は減っていた。
「ああ。ちょっとな」
「勉強?」
「まあ、そんな感じだ」
「私ら高校受験しないのに、もう勉強に力入れてるんだ。すごいなあ」
須川心はそう言って、にへらと笑う。俺は彼女のそんな笑みが好きだった。
「もうちょっとなんだよ」
「ん?」
「あと少しで完成するんだ」
「んん? 何の話?」
「一番に君に伝えるから」
このときの俺は自分に酔っていたのだと思う。それこそ、自分が恋愛小説の主人公になった様な気でいたのかもしれない。恋愛小説が好きだという人のために恋愛小説家になり、その人に本を捧げる。いかにもベタな恋愛小説にありそうな筋書きじゃないか。
俺にとって現実はずっとくだらないものだった。
現実は新たな世界を造るための糧以上のものではありえないと思っていた。
だけれど、須川心という存在は俺の暗い現実を燦然と照らしだす太陽になっていた。
俺は創作という行為によって、このつまらない現実をも変えようとしたのだ。
それだけのことが出来ると、当時の俺は信じていた。
それがどれだけ愚かしい自惚れであるかということも解らずに。
そして、俺の小説「無限の出会いとさよならと」は出版された。
俺はその発売日に須川心を図書室に呼び出した。
「えっと……話って何かな?」
後で思い返すと、俺の呼び出しに応じて図書室に現れた須川心の表情はどこか強張っていた。だが、当時の俺にそんなことを考える余裕は一切なかった。ただ、言うべきことを言う。そうすれば、ハッピーエンドが待っていると、俺はなぜか信じて疑っていなかった。
俺は一冊の本を差し出す。
それは俺のデビュー作だった。
「えっと、これは?」
「その本は俺が書いた」
「え?」
「その作者、香川七月っていうのは俺なんだ」
「香川七月」というペンネームは自分の本名である「中川夏樹」を並べ替えて作ったものだった。本名をペンネームにすればより確実な証明になったのだろうけど、さすがに本名をペンネームにすることはためらわれた。その末の妥協案だった。
俺の言葉を聞いた須川心は目を輝かせた。
「すごい! 小説家になったんだ!」
俺は彼女のその表情を見て、確信する。
今だ、今しかない。
「須川、俺は――」
俺は須川心に告白した。
彼女は「考えさせて」と言って、その場を後にした。
その後に彼女が取った行動は俺には解らない。
ただ結果だけを言えば、俺が須川心に告白したという事実と俺の恋愛小説家という正体がクラス中に知れ渡ったということだった。
須川心への告白から数日、クラスメイトの男子は突然俺に声をかけてきた。
「おまえ、須川に告ったんやって?」
「え?」
なぜそれを知っているのか。
彼の言葉に俺の身体は石像のように固まる。
「おまえ、それはあかんわ」
また別の男子が言う。
「あいつ、彼氏おるで」
「………………」
俺は声を漏らすことすらできずに立ち尽くす。
「隣のクラスの白河。知ってるやろ」
正直、その白河という奴が誰なのかはまったく知らなかったのだけれど、それは瑣末事だった。
それよりも須川心に彼氏がいるという事実が俺の心臓を掻き毟っていた。
「い……いつから」
俺は震える声を絞り出して言った。
男子生徒は適当な調子で言った。
「ん? さあ、結構長いっぽいけど。少なくとも一年以上は続いてるんとちゃうか?」
それが本当なら須川心は彼氏が居ながら俺とあんなに親しげに本の貸し借りをしていたということか……。
いや、親しいと思っていたのは俺の方だけだった……?
ふと、以前、とあるクラスメイトから言われた言葉が頭を過る。
『やめとけ。あれはモテるからな。おまえなんかじゃ無理やって』
あれはもしかしたら、須川心に彼氏がいることを知っていたからこそ、親切心で警告してくれていたのかもしれない。
色々なことを考えたが、すべては後の祭りだった。
「つーか、それよりも、おまえ恋愛小説家なんだって?」
「あ、そっちの方が気になるわ」
「そうそう。俺、昨日ライン回ってきたから、わざわざ本屋に買いにいったんや。ほら」
そう言って一人の男子生徒が取り出したのは、間違いなく俺の本だった。
「うっそ、見せてや」
「すっげえ」
そいつらはへらへらと笑って、俺の本を回し読みし始めた。
「『彼女は濡れそぼった瞳で僕を見ていた』。濡れそぼるってなんや。どういう意味や?」
「おまえ、そんなんも解らんのか。なんか濡れてるっちゅうこっちゃ」
「濡れてるとか、えっろ」
「しょうもないねん、ボケ」
「おう、中川。このアホに言うたれや、俺の本はすごいんやぞって」
そんな風に言って、笑うのだ。
低能。愚鈍。間抜け。愚か者。馬鹿。
殺してやりたい。
俺が殺意というものを知っていると言えるのなら、この瞬間に抱いた感情のことだった。
俺は目の前の男に掴みかかっていった。
その後の記憶は曖昧だ。
保健室のベッドで横になりながら、怒りで記憶が飛ぶなんてことは本当にあるんだなと、どこか他人事みたいに考えた。
もう、何もかもどうでもいいと思った。
教師からの事情聴取の後、俺は家に帰されることになった。処分は追って連絡されるということだった。
保健室から出た俺を待ち構えていたのは、須川心だった。
須川心は泣きそうな顔で俺を見ていた。
「ごめん、こんなことになるなんて思ってなくて……」
俺はもう彼女の顔を一秒だって見ていられなかった。
俺は何も言わずに学校を飛び出した。
それから数日、俺は学校に通った。喧嘩をしたことに関する処分は後日、生徒指導会議を行ってから決めると通告され、それまでは普段通り登校する様に言われたのだ。
俺が自分の小説を馬鹿にされてキレたことを皆、知っているからわざわざ俺に近付く人間は居なかった。
だが、救いようもないほどの馬鹿とはどこにでも居るものだった。
すれ違いざまに俺の小説の一節を口ずさんだり、黒板に俺の小説の文章を書きうつしたり、挙句、俺の前でこれ見よがしに俺の本を掲げて朗読する者まで現れた。
もう限界だった。
俺は少しずつ学校を休みがちになった。
朝、目が覚めると腹が痛くなって、すぐにトイレに駆け込むのだけれど、何も出ない。ただ、俺はトイレの中に引きこもって朝の時間を過ごす。学校に行っても遅刻だという時間になってようやく俺はトイレから出る。その頃には腹痛も治まっているのだ。
両親は俺に優しく声をかけた。
どうしても行きたくないなら無理に行かなくてもいい、と。
担任からも何度も電話がかかって来て、同じ様なことを言われた。
何かの本で読んだことがある。登校拒否の子供に無理に登校刺激を与えることは逆効果でしかない。優しく見守って様子を見るのが一番なのだ、と。
俺はそんな周囲の大人の反応で、自分が不登校児なってしまったことを知った。
最初の恨みの対象は当然、俺をからかったクラスメイト達だった。
あいつらは俺の作品の崇高さを理解しない愚者であるばかりか、あろうことか俺の作品を愚弄した。それが正当な批判であるならば受けることも致し方あるまいが、奴らはただ俺の作品を理解しようともせず、嘲笑い続けた。どう考えても許されざる所業だった。
だが、しばらくすると別の考え方が芽生えた。
言いたい奴には言わせておけばいいのではないだろうか。奴らは自分が何をしているのかも解らない子羊。そんな相手に対して腹を立てることは、自分も奴らと同レベルであると言っているも同然なのではないだろうか。
俺は奴らを許しはしなかったが、無視することにした。
そう考えると、余計に許し難かったのは須川心だった。
あの女は俺の心を弄んだ。彼女は俺を理解してくれていると信じていたからこそ、余計に腹立たしかった。
彼氏が居たのなら最初からそう言ってくれればよかった。それなら、俺に声をかけて本の貸し借りをするなんて真似をしないでほしかった。
彼女は太陽だったのだ。
俺は元々人と関わることを極力避ける人間だった。自分の周囲に居る同年代の人間はくだらない馬鹿しかいない。そんな奴らに関わるなんて時間の無駄だと思っていた。だから、俺はクラスでの人間関係において、ひたすらに無知だった。
そんな俺でも須川心がクラスの中心に居ることには気が付いていた。
ずっと、目で追っていたから。
彼女はクラスの太陽だったんだ。クラス内で何かイベントが企画されるときは率先して前に立っていたし、何か揉めごとが起こったときに仲裁をするのも彼女だった。クラスにいる人間は彼女という恒星の周りをゆっくりと回っていたんだ。
俺は翼が蝋で出来ていることに気が付いていない愚かなイカロスだった。
蝋で出来た翼は太陽に近付き過ぎれば熱で溶けてしまう。翼がなくなれば飛ぶことはできない。太陽に近付き過ぎることそのものが、愚かな選択であった。
俺はそんなことにも気がついていなかったんだ。
学校に行かなくなってから一度だけ、須川心が俺の家にやってきたことがある。
その日はたまたま両親共に出かけていて、家には俺一人しかいなかった。
インターフォンの音。玄関先を映し出すカメラの画面に映っていたのは間違いなく須川心だった。
思い詰め、緊張した表情で彼女はカメラを見つめていた。
俺は受話器を取ることが出来なかった。
彼女はいつまでそこに立ち尽くしていたのだろうか。
俺はそれを確かめる気にはなれなかった。
発売から一月。出版社から連絡がある。俺の本は売り上げが振るわず、重版することはないだろうという知らせだった。
「力及ばず申し訳ありません」
メールにはそう記されていた。
売れている作品は多くの人に手にとってもらうために更に増刷する。それが重版だ。新人のデビュー作が振るわないことは珍しいことではないのだけれど、それでも俺をさらなるどん底に叩き落とすには充分な衝撃だった。
売れなかったのは、俺の力不足だ。そう謙虚に受け止める自分も確かに居たのだけれど、同時に、俺を評価しない世間に対する怒りを持つ自分も居た。
なぜ解らない。俺の作品の素晴らしさが。俺の作品の崇高さが。
それは愚にもつかない逃避行為であることは解っている。
それでも俺はそう考えることでしか自分を保てなくなっていった。
不幸中の幸いは出版社の担当が俺を完全には見捨てなかったということだった。
「我々は出来うるならもう一度香川さんと一緒に仕事をしたいと思っています」
中学生恋愛小説家という肩書きは出版社にとってもおいしいものだったのかもしれない。また、面白い作品が書ければ、俺は再び本を出すことができる。
俺の心に火が灯った。
だが、俺の想いとは裏腹に企画書は一つも通らない。
『何か香川さんにしか書けない売りみたいなものが欲しいんです。現役の学生さんだからこそ出せる青春の味みたいなものが出れば面白いと思うんですけどね。結局、香川さんの書く小説の読者に求められているものってそういうものだと思うんですよね』
現役の学生の生の心情。
そんなものはこっちが教えてほしかった。
俺はいったいどうすればよかったんだ。
どうすれば、あのクラスメイトたちみたいにつまらないことで一喜一憂する普通の馬鹿になれたんだ。
俺はもう、ただの馬鹿以下の存在だった。
秋が終わろうとする頃、御影さんは突然うちにやってきた。
「ナツくん、うちの学校に入学しない?」
御影さんの話はこうだった。御影さんが勤めている学校が今年から共学に変わり、新しい生徒を募集している。ここ京都から遠く離れた土地だけれど、俺が良ければ御影さんの家に住まわせてもいい。御影さんの夫である典孝さんは来年から単身赴任することが決まったから部屋は余っている。環境を変えてみるという意味でうちの学校を受験してみるのはどうか。
その話を聞いたとき、俺はあまり乗り気にはなれなかった。
あんな馬鹿たちに屈して転校することは負けだと思っていたし、家を離れることに不安がないと言えば嘘になったからだ。
だけれど、御影さんは辛抱強く俺を説得し続けた。
「私はナツくんに青春を知らないまま学生生活を終えてほしくない」
彼女の瞳は真剣だった。
青春……。
それは確かに今の俺が知らないものだった。
御影さんの誘いに頷けば、俺はそれを手に入れることが出来るのだろうか。
須川心の姿がちらりと頭を過る。
新しい恋を知ることができるのだろうか。
俺は悩んだ末に、御影さんの厚意に甘え、家を出ることにした。
それから俺は受験勉強を始めた。
幸いだったことは、元々通っていた中学は進学校だったために中学二年生の時点で中学のカリキュラムをおおよそ終わらせてしまっていたことだ。だから、俺が高校受験をするにあたって困ることはなかった。
こうして、俺は空星学園に入学することになった。
家具などは元々御影さんの家にあるものを使わせてもらう手筈になっていたから引っ越しの荷物は必要最低限のものだった。その荷物を乗せて、俺は父親が運転する車に揺られていた。
その車が俺がこれから住むことになる街に辿り着いた頃に父親は言った。
「おまえは、おまえがやりたいように生きればいい」
ハンドルを握り、前を見据えながら、父親は確かにそう呟いた。父が語ったそんな言葉が俺の胸の中にじわりと染み込んだ。
意外と現実も悪いものでもないのかもしれない。そう思った。
そして、俺の新しい生活が始まった。
長い瞑目の末、俺は瀬尾の隣に帰ってくる。
作家になろうと思った理由。
それを説明しようと思えば、必然、須川心の話を瀬尾にしなければいけないことになる。なぜだか、瀬尾に彼女の話をする気にはなれなかった。
だから、俺は、
「元々本が好きだったからな」
と適当にごまかした。
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