第9話 契約関係
期末テストは嵐のようにやってくる。空星は自称進学校というだけあって、定期テストもそれなりに難しい。少なくとも舐めてかかっては痛い目を見る。それは中間テストで解っていたことなので、俺はしっかりとテスト勉強をした。その甲斐もあって、どの科目も悪くはない点数を取ることができた。少なくとも平均を割っている科目はない。俺は、ほっと胸を撫で下ろした。
そして、期末テストの結果が出揃った日の放課後。瀬尾はテスト明け久々の部活動のため部室に向かう俺に声をかけてきた。
「夏樹くん、テストの調子はどう?」
「まあまあかな」
俺が適当に無難な返答をすると、
「私は微妙だった……。数学と理科基礎がね……」
「瀬尾は文系か?」
「文系と言えるかどうかはともかく、少なくとも理系ではないね」
瀬尾は苦笑いを浮かべて言った。
この会話はきっと、どこにでもあるようなありきたりな雑談なのだろう。だけれど、こんなありふれた雑談が俺には貴重だった。こんな陳腐な会話をクラスメイトと交わしたのはいつ以来だっただろうか。
俺はふと気が付く。
俺は瀬尾と話すときだけは自然体な自分で居られるということに。それは部長や日下部先輩、彩音に相対したときの態度とは明らかに違っていた。
それはなぜだろうか。
なぜ瀬尾だけが特別なのだろうか。
その答えに、俺は不意に気が付く。
――契約だからだ……。
瀬尾と俺の関係は契約だ。俺は瀬尾の小説に批評を加える。その代償として彼女は俺の正体を秘す。それが彼女との契約。
契約は絶対だ。それを破れば互いが不利益を被るのだから、おいそれと破棄することはできない。それは友情とか愛情のような不確かなものではない。
だから、俺は瀬尾に対してだけは身構えることなく、接することができる。
――裏切られる心配がないから。
それは考えてみれば至極当然のことだった。今まで気がついていなかったのが不自然なほどに当たり前のことだ。
――俺は瀬尾を利用しているんだ。
自然に俺の隣を歩く瀬尾を見ながら、そんなことを考える。
これは、取材なんだ。
俺が瀬尾に付き合うのは、あくまで取材に過ぎない。こうして得られた経験を創作に生かすために彼女を利用しているだけだ。
俺と瀬尾は友達でも仲間でもない。
『ごめん、こんなことになるなんて思ってなくて……』
遠い過去から響く声。
人を信用するのは、もうたくさんだ。
「ねえ、今度の休みって暇?」
俺がそんなことを考えていたときだった。瀬尾は不意にそんなことを言い出した。
俺は思わず彼女の顔をまじまじと見る。彼女の表情、声は普段よりも固い。まるで緊張しているみたいだ……。
「……暇だけど」
俺の休日の予定など、基本的に執筆することくらいしかない。スランプで書けない最近は、休日を無為に過ごしてばかりであった。
「じゃあ、一緒に映画、見に行かない?」
俺は彼女の言葉の意味が飲み込めず、首をかしげる。
「ええっと? 誰と?」
後で考えると自分でも何を言っているんだと思うくらい間抜けな返答だった。だが、このときの俺は至極真剣であった。
瀬尾は目を細めて俺をにらみ、小さく息を吐いてから言った。
「私と君で」
「……二人で?」
「うん。嫌?」
「嫌じゃないけど……」
俺は困惑を隠しきれない。
なぜ瀬尾は俺を誘うのか。
そして、瀬尾はひとつの映画のタイトルを口にする。
「今やってるでしょ。あれって恋愛小説が原作じゃない。だから、恋愛小説家としてはチェックしてるかなって思ったから」
「まあ、確かに原作は読んだよ」
「だから、夏樹くんと観に行ったら、色々勉強になるかなって思ったの」
いつの間にか、瀬尾から気負いのようなものは消え、自然な表情に戻っている。
「どうかな?」
「……いいよ」
「ほんと? よかった」
俺はなぜか、にこりと微笑む彼女の表情を直視できなくなって、彼女から目をそらした。
廊下の窓越しに空を見る。真っ赤な太陽は今日も変わらず、世界を照らしていた。
その日の部活は文化祭に向けての準備として必要な備品を揃えたり、印刷所へ入稿するデータを確認したりと忙しかったのだけれど、俺はずっと上の空だった。
気付けば、俺はずっと瀬尾を視線で追っていた。
「舞香ちゃんに告白でもされたの?」
文化祭の準備のため、画用紙やマジックなどの備品を買いに来たときだった。一緒についてきた日下部先輩は明日の天気について話すような調子でそんなことを言った。
「……何言ってるんですか」
この人が口を開くときは基本的にろくでもないことを考えているときだということは、そろそろ学習している。故に俺はこぼれそうになるため息をこらえながら返事をする。
「なんか、今日ずっと舞香ちゃんの方見てるよ」
「………………」
それは紛れもない事実だったので、俺は思わず黙り込む。
そりゃあ、あんなことを言われて意識しない方がおかしい。
「私が告白したときより、マジな顔をしている」
「そこらへん、蒸し返すんですか……」
「蒸し返すも何も、私、まだ諦めてないけど」
「………………」
これ以上は薮蛇だろう。俺は話を逸らすことを試みる。
「単に瀬尾に映画に誘われただけです……」
「なるほど、デートに誘われたので、意識してしまったと」
「違いますよ。まず、デートとかじゃないです……」
そこで日下部先輩は口をつぐみ、遠くを見るような顔をする。何かを考えているのだろうか。
今更ながら、瀬尾に映画に誘われたことを喋ってしまったことを後悔する。少なくともこの人には言うべきではなかったのかもしれない。
「なるほどね」
先輩はそんなことを言いながら、俺を見た。
彼女は、いったい何を考えているのだろう。日下部先輩は普段から感情が読みにくい不思議な顔をする人なのだけれど、今日の表情はいつにもまして解りにくい。
ミステリアスな微笑みの向こうにある感情。ただ単に面白がっているようにも見えるし、なぜか悲しそうにも見える。その複雑な何かを、俺は読み取ることができなかった。
「ほら、これ買って、さっさと戻りますよ」
買い物を済ませて、俺は部室に戻る。
人間の感情は本当によく解らない。
「ごめん、待った?」
約束の日。待ち合わせの駅前。瀬尾は俺の姿を見つけると小走りで近付いてきて、そう言った。
「いや、今来たとこだよ」
本当は二十分前に待ち合わせ場所についていたのだけれど、それを言う気にはなれなかった。それに約束の時間はまだ十分も後。瀬尾だって予定よりも早く待ち合わせ場所に訪れているのだ。文句を言うのは筋違いだろう。
予定の時間よりも三十分も前に待ち合わせ場所に来てしまった理由は、まあ色々だ。遅れたらまずいと思ったのが一つ。前日、眠れなかったせいか無駄に早く目が覚めてしまったということが一つ。後は、こういうときは男が先についておくべきではないかと思ったということもある。
「ふふ」
瀬尾は急に笑みを漏らして言った。
「デートっぽいやり取りだね」
いたずらに笑って彼女は俺を見る。
俺は彼女の言葉にどきりとしながらも平静を装って言う。
「まあ、恋愛小説ではお決まりのやり取りだな」
わざと吐き捨てるように言って、俺は彼女から視線を逸らす。
彼女はいったい何を考えているのだろう。
俺はふと、今朝家を出る直前の御影さんとのやり取りを思い出していた。
「いってらっしゃい」
「別にわざわざ起きて、見送ってくれなくてもよかったのに」
俺は玄関で靴を履きながら、後ろに立つ御影さんに向かって言った。
「甥っ子がデートに向かおうとしているのよ。それを見送らない叔母だと思って? 見くびってもらっては困るわ」
「意味が解らない……。てか、別にデートじゃないし……」
という俺の反論に、
「初めはみんなそう言うのよね……」
御影さんは何故か訳知り顔で頷きながら応えた。
意味不明だ……。
仮にデートだとすれば、教師ならば不純異性交遊で指導でも入れるべきなのでは、とも思ったが余計なことは口にしないことにする。
そもそも、やはり昨日、御影さんに休日に出かける理由を尋ねられたときに、うまく誤魔化しておくべきだったのかもしれない。適当に友達と遊ぶのだとでも言えればよかったのだが、残念ながら俺に休日を共にするような友達は居ない。追及が面倒になって、正直に瀬尾の名前を出してしまったのはやはり悪手だった。
俺は靴を履き終えて、玄関の扉のノブを掴む。
「でも、本当に良かったわ」
優しげな声音に俺は思わず振り返る。
「ナツくんに休日に一緒に居るような友達ができて」
そう言って、御影さんは本当に嬉しそうに目を細めるのだ。
「……いってきます」
「はい。いってらっしゃい」
俺にはただそれだけを言うのが精いっぱいだった。
「じゃあ、行こうか」
「あ、ああ」
瀬尾の言葉に俺は現実に引き戻される。
改札に向かっていく瀬尾の背中を見つめながら、俺は考える。
瀬尾の俺に対する気持ちはよく解らない。少なくとも悪感情を持たれているということはないだろう。もしかしたら、好感だって持ってくれているかもしれない。
だけれど、俺はそんな親しみを向けられるべき人間じゃないんだ。
なぜなら、俺は瀬尾の好意を利用しているのだから。
俺たちの関係は契約だ。
それを忘れてはいけない。
映画館までは電車で移動する。毎日通う学校が徒歩圏内であるため電車に乗ること自体が久しぶりのことであった。久方ぶりの電車の揺れに身を委ねながら、俺は俺の隣に立つ瀬尾に向かって言う。
「私服、初めて見た」
「え? そうか。そうだね」
俺の言葉に瀬尾は驚いた顔で俺を見た後に、自分の服を見下ろす。
瀬尾の私服は、上はフリルのついた白いシャツ。下は末広がりのフレアスカート。いつも下ろしている長い髪も今日はまとめられ、肩口から垂らされている。
「どう、似合う?」
瀬尾は無邪気な笑みで俺を見る。
「え、あ、うん」
俺は思わず、たじろいでしまう。
すると、彼女はまるで甘い物を食べ過ぎて胸やけしたときのような顔をして呟いた。
「……自分で振っておいてなんだけど、なんか恥ずかしい」
「………………」
俺は思わず、黙ってしまう。
普通にしておいてくれればいいのに、彼女が変に照れた顔をするものだから、俺もなんだか恥ずかしくなってくる。
微妙な空気を纏ったまま、電車はその身を揺らして走り続けた。
「映画館って何気に久しぶりかも」
予約しておいたチケットを発券した後に瀬尾は言った。
上映時間を確認しながら、俺は言う。
「久しぶりっていつ以来なんだ?」
「うーん、中学二年生のとき以来かな?」
「そうか。俺はたぶん小学生のとき以来だ」
「え? そうなの」
「ああ」
小学生のころ、親に連れていってもらったのが最後。それ以来、映画館に足を踏み入れたことはなかった。
「へえ。そんなものなのかな」
瀬尾は笑って相槌を打っている。
そんな瀬尾に「中学時代には一緒に映画館に行くような相手がいなかったから」と言う気にはなれなかった。
「よかったね……」
映画が終わり、劇場から出て、すぐに瀬尾はぽつりと呟いた。
「そうだな……」
映画はSF的な要素が入った恋愛物で、二つの並行世界を越えて知り合った男女が愛し合うようになるラブストーリーだった。本来出会うこともないはずだった二人が数奇な運命の元に出会い、困難を乗り越えていくというのが筋だ。展開としてはよくある類のものなのだけれど、意外にSF設定がしっかりしていて、SFファンからも評価が高い、少し珍しい作品だった。
「すごい泣いてたな……」
瀬尾は後半ずっとハンカチを握りしめてボロボロに涙を流していた。それは号泣とでもよぶべきもので、隣にいる自分が心配になってしまうほどだった。
「だって、あれは泣いちゃうよ」
少し赤くなっている目を押さえて、瀬尾は言う。
「やっぱり私はああいう愛のために世界に立ち向かうって感じの話に弱いんだよね」
「ああ、そんな感じだな」
「だから、夏樹くんのデビュー作も読んだんだし」
そんな瀬尾の不意打ちの言葉に、俺は思わず彼女の顔を見た。
「系統的には近くないかな? ループ物と並行世界とかってさ」
「ああ。そうかもな」
俺は今うまく笑えているだろうか。
「映画は良かったけどちょっとカットされてたな」
「そうなの?」
「ああ、原作にあったシーンがいくつかなかったし。ちょっと並行世界設定も説明を省き過ぎてちょっと解りにくかった」
「あ、それは思った。その辺、原作ならちゃんと書いてるの?」
「うん。最後のシーンで出てきた扉だけど――」
俺は映画の話をして、話題を逸らす。
自分の作品と映画化されるほどに流行る作品とを比べる批評を俺は聞きたくなかった。
それをされると、俺の今の不甲斐無さが浮き彫りになってしまうから。
俺は今、ここで何をやっているのだろう。
何日も電源も入れぬまま放置してある自室のパソコンが、ちらりと俺の頭を過った。
そのあと、俺たちは映画館近くのレストランで食事をして、瀬尾のウィンドウショッピングにつきあって、本屋で好きな本について語り合った。
楽しかった。
こんな感情は久方ぶりに覚えたものだった。
俺はいつの間にか瀬尾に心を許してしまっていた。
でも、それはある意味必然のことだったのかもしれない。
俺は弱い人間だ。俺みたいな孤独な人間に笑いかけてくれる人がいる。それだけで俺のさびしい心がどれだけ救われるのか。そんなことは言うまでもないことだろう。性懲りもなく、俺はまた人に心を開こうとしている。
(それを怖がっていたんじゃないのか?)
俺の中に居る『俺』が言う。
その『俺』はのっぺらぼうだ。『俺』は淡々とした調子で言う。
(調子がいいな。もう昔のことを忘れたのか)
俺は耳を塞ぎたい。だけれど『俺』は俺の中に居る。耳を塞いだって意味はない。
(そのためにわざわざ引っ越しまでしたんじゃないのか?)
俺はただ黙って『俺』の言葉に殴られる。
やめろ、やめてくれ。俺は『俺』に向かって懇願する。いじめられっ子に泣かされた子供のように俺は『俺』自身に泣いてすがりつく。
すると突然、『俺』は糸が切れたように平坦な声で呟く。
(まあ、昔を忘れて今を楽しむのもいいかもな)
そして、次の瞬間、嘲る様な調子で言った。
(どうせ俺は瀬尾舞香という少女を利用しているだけなんだから)
そんな言葉を紡いだのも、間違いなく俺だった。
「夏樹くんは」
自分たちの街へと帰る電車の車内。空席の目立つ車内で俺たちは並んで座っていた。
「どうして、作家になろうと思ったの?」
「………………」
突然の問いかけに俺は黙り込んでしまう。
瀬尾はうつむいて手元をいじりながら、消え入りそうな声で呟いた。
「私が小説家になりたいって思ったのは、昔、そうすればいいって言ってくれた人がいたからだよ……」
瀬尾は山のように積まれたおもちゃの中から目当ての一つをそっと探り出そうとするかのような調子で言った。
「私、昔から口先ばっかりで。後先何も考えないから、みんなからいじめられてた。それで悔しくて一人で泣いてたときに言ってくれた人が居たの」
俺は黙ったまま瀬尾の言葉に耳を傾ける。
「『口先ばかりって言われるなら黙ってればいい。言いたいことは紙に書けばいいんだ』って。『それで周りの奴らを見返せるようなものを書けばいいんだ』って」
電車はレールの上を逸れることなく走り、俺達を帰るべき場所へと連れていく。
「だから、私は小説家になりたいって思ったんだよ」
「そうか……」
俺はそう答えるのが精いっぱいだった。
俺が創作をする理由。
作家になろうと思った理由。
切り捨てた過去が俺の目の前にやってきた。
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