第5話 飲み込んだ言葉は届かない
「いらっしゃーい」
部室の扉をくぐった俺と瀬尾を迎えたのは、部長の甘ったるい声だった。
「さあさあ、座って座って。あ、お菓子もあるよ」
「ひびきさん、お菓子はいいですけど、部会が先です」
「そうかあ、そうかあ」
まるで孫を見る祖母のように目を細めて、部長はこちらを見ていた。
昨日会ったばかりの相手ではあるが、もう人となりはなんとなく掴めたような気がする。
部長の勢いに圧倒されていたが、瀬尾が部長と話し始めた隙に、俺は初めて訪れた部室を観察する。
部屋の大きさは教室の半分程度。部屋の真ん中に長机が二つ並べられていて、その上に部長が買ってきたのであろうビニール袋に入ったお菓子が見える。机の周りにはパイプ椅子。おそらくは、部員がそこに座って部会をするのだろう。部屋の奥には旧式のデスクトップパソコンと年季の入ったプリンター。あとは本棚。遠目なのでよく解らないが、文庫本からハードカバー、辞書といった多種多様な本が並べられているようである。
俺が想像する文芸部とそう乖離しない様相の部屋であった。
自分が書こうとしているものは未だに定まらない。だが、こういう今までに目にする機会がなかった光景を目に焼き付けておくことは、後に学園生活を舞台にした小説を書くときに役に立つだろうと思う。だから、俺は極力、部屋を子細に観察することにする。
すると、瀬尾と何か話をしていた部長がこちらを向く。
「お、夏樹少年は文芸部が珍しいの?」
「え? ……まあ、そうですかね」
俺が部室をきょろきょろと観察していたからだろう。部長はそんな風に問いかけた。
珍しいと言えば珍しいとも言えるかもしれない。中学のときは何の部活にも入っていなかったから、こういう「部室」という空間そのものに慣れていないとも言えた。
俺がそういった内容のことを告げると、部長は、
「そういうこともあるよね」
と、解っているのかいないのか、少しちぐはぐな言葉を返した。
そのとき、俺の背後、部室の入口の扉が開く音がする。
「……遅くなりました」
「すいません、掃除当番だったので」
部屋に入ってきたのは、昨日会った美人の先輩、日下部先輩と、俺の従妹の彩音だった。
入ってきた二人にいの一番に声をかけるのは、部長。
「お、二人して現れるとは。あれか、同伴出勤って奴か」
言うことがおっさん臭い……。
部長の言葉に応じたのは日下部先輩の方だ。
「たまたまそこで一緒になって」
「………………」
彩音の方はいつもの憮然とした表情をして、何も言わなかった。
「ともあれ、これで全員揃ったね」
今、部室に居るのは五人。たしか以前に部員は四人だけだと言っていたから、俺を入れれば五人となる。だから、ここに居るのが全部員なのだろう。
改めて全員と顔合わせをしたことで気がつく。
(俺以外全員女子じゃん……)
そもそも、空星学園は元女子校。男子の数が少ない以上、こういう事態になることは半ば必然ではあるのだが……。
まず、俺は人と関わるのが正直苦手だ。そして、この年頃の男子の御多分にもれず、女子と話すのは輪をかけて苦手である。本当にこんな場所でやっていけるのだろうか。そんな不安が過る。しかし、ここまで来て、やはりやめますという方が難しい。後はもう運を天に任せる他ないだろう。
俺がそんなことを考えていると、部長が言う。
「じゃあ、さっさと部会を終わらせて、お菓子食べよう」
そんな適当な台詞を吐きながら、各部員を席に座る様に手で指し示す。
部屋の一番奥、上座に当たる席に部長が座り、残りの三人は空いている席につく。俺は最後に残った一席に腰を下ろす。右隣は瀬尾で、正面は彩音だ。
彩音と向き合い、改めて思う。俺たちは従妹同士なのだけれど、お互いのことを何も知らない。おととい、階段を上る彼女の背中に問いかけて以来、挨拶以外の言葉をかわしてはいなかった。同じ屋根の下に居るにも関わらずである。なぜ、彼女がこの部活を選んだのか。そして、俺がこの部活に入ったことを、彼女はどう思っているのか。すべては謎のままであった。
そして、斜め向かいに座る日下部先輩は何故かこちらに目線を向けている。俺と目が合うと彼女はどこか誘うような目付きで妖艶に笑う。なぜだか、見てはいけない様なものを見た様な気分になり、俺は慌てて、目を逸らす。
部長がへらへらと笑いながら言う。
「えっと、部会なんだけど。何を話すんだっけ」
いきなりずっこけそうになることを言う彼女に瀬尾は言う。
「次の文化祭での活動内容ですね」
慣れた様子で答える。それを見て、なんとなく察する。この部活は瀬尾が仕切っているのではないだろうか、と。部長は適当だし、日下部先輩は浮世離れしている。彩音だって積極的に人の前に立つタイプではない。となると、この中で人をまとめられそうなのは、瀬尾しかいないのではと思えてくるからだ。
事実、この後の部会は瀬尾が中心となって進められた。
「部会の記録を確認しましたけど、文化祭で部誌を発行するのが、毎年恒例になっているんですよね?」
「ああ、そうだね」
真面目な顔をする瀬尾に部長は気の抜けた返事をする。
「文化祭は毎年、7月の終わり。夏休みの直前に行われるそうです」
瀬尾は全員に向かって言った。
「そうなのか?」
俺は思わず、声を漏らす。
「うん。この時期っていうのは珍しいかもね」
瀬尾は俺の意をくみ取って答えた。
その言葉を継いだのは部長だった。
「普通、秋。じゃなかったら春だよね。うちも昔は秋だったらしいよ」
俺は尋ねる。
「じゃあ、なぜ今は夏に?」
「うちって一応、進学校って建前でしょ」
空星学園は決して偏差値の高い学校とは言えない。だが、まったく勉強に力を入れていないというわけでもない。一昔前はそれなりの人数を難関大学に合格させたこともあったらしい。
「進学校って、わりと文化祭を早めにやる学校多いんだって。ほら、文化部の生徒を早めに引退させて、一刻も早く受験に専念させたいってわけよ。運動部の生徒からは夏の大会前の忙しい時期ってことで嫌がられてるけどね」
「なるほど」
そう言われれば、納得できなくもない話である。
「七月頭の期末テスト明けから準備して、夏休み前に文化祭ってことね」
今は五月の終わりだから、もう実質、二ヶ月もないということか。
「というわけで、私たちは文化祭までに部誌を作ろうとしているわけ」
瀬尾が俺に向かって言う。
次に声を発したのは部長。
「いや、でも夏樹少年が入ってくれて助かったよね。これで書き手が四人は確保できたわけじゃん」
「四人?」
俺は部室に居る面々の顔をぐるりと見回す。
俺の顔を見て、言いたいことを察した部長は言う。
「言ったでしょ、私は書かないし」
部長はにこやかに笑っている。
「……ひびきさんも書けばいいのに」
日下部先輩がぽろりと呟く。
「いやいや、私は無理だよ。今まで書いたこともないしね」
確かに昨日もそんなことを言っていたが……。
こんなことを言う部長はあっけらかんとしている。
瀬尾は何かを言いたげにしていたが、結局、何も言わなかった。
そして、会議の内容は原稿の制限枚数や締め切りの日付といった具体的な話へと流れていった。
それはあげられた議題が粗方片付いた直後のことだった。
がちゃりと音を立て、部室の扉が開かれる。そこに立っていたのは二人の人影。
一人は俺もよく知る人物だった。
「遠坂先生」
俺の叔母であり、この文芸同好会の顧問でもある御影さんだった。いつもにこにこと笑っている彼女には珍しく、どこか浮かない表情をしている。
もう一人は誰だろうか。スーツに身を包んだ若い女性。雰囲気からして教員なのだろうが……。
俺の疑問はすぐに解決された。
「生徒会顧問の柳原先生よ。今日は部活動の視察に来てくださったの」
「柳原だ。文芸同好会がどのような活動を行っているのか見せてもらいにきた」
芯の通った低い声。迫力がある。いわゆる「怒ったら怖い」タイプの先生だ、と直感する。
俺はどう対応すべきなのか検討も付かなかったため、黙って成り行きを見守ることにした。
先程まで部を実質的に仕切っていたのは瀬尾だったので、瀬尾が応対するのだろうかと思い、俺は思わず瀬尾に目を向ける。だが、彼女は固まったままで動かない。突如訪れた状況についていけていないのだろう。
「柳原先生、どうぞ座ってください。遠坂先生も」
率先して動いたのは部長だった。部室の奥に置いてあったパイプ椅子を引っ張り出し、手際良く並べる。
「ありがとう」
御影さんはそう言って微笑む。
だが、柳原先生の方は鋭い眼光を弱めずに言う。
「いや、いい。他の部活も見て回るからな。座っている時間はない」
そう言って、部長の好意を一蹴する。
そして、言う。
「次の文化祭では何をやるつもりだ?」
単刀直入に切り出された言葉に、一切の遊びはない。鋭い刀の一振りの様なもの言いだと思う。
「ええっとですね。あ、部誌を出します」
それでも、部長はひるむことなく、言葉を紡ぐ。誰もが畏縮するような相手にきちんと対応する部長。俺は部長をお茶らけているだけの人かと思っていたが、なんだかんだ言っても部長だったのだなと認識を少し改める。
部長の説明を聞いて、柳原先生は言う。
「部数は何部を予定している?」
「え? 部数ですか?」
「あと、印刷はどの形式でいくんだ。部室にあるプリンターを使って印刷するのか? それとも印刷会社に依頼するのか?」
「えっと……」
「どちらにしても、おまえたちは同好会。部費は去年までとは違うことは理解しているか? 去年と同じ、という言葉は通用しないぞ」
「……あはは。ええっとですね……」
話が具体的になった途端しどろもどろになる部長。
「その……」
部長は黙り込んで、天井を見上げた後に言った。
「頼んだ、舞ちゃん!」
そう言って、瀬尾の背中を押して、自分の前に立たせる。
……見直したと感じるのは、早過ぎたかもしれないと思った。
変わって矢面に立たされた瀬尾は、先程とは違って、落ち着いた表情だった。結局、自分にお鉢が回ってくることは予想できていたのかもしれない。
瀬尾は言う。
「印刷は、印刷所を通して行おうと思っています」
「費用はどうする? 安くはないぞ」
柳原先生はまた間髪いれずに問う。
「確かに部室にあるプリンターを使えば、費用は抑えられそうですが、それにしても結局インク代、紙代はかかります。印刷所をきちんと調べて、オンデマンド印刷を選べば、そこまで費用は変わりません。なにより、印刷所を通さなければ、印刷はともかく、製本のクオリティに大きな差が出ます。ホッチキス止めの冊子では格好がつきません」
「部数は具体的に何部だ?」
「ページ数にもよりますが、百部は刷ろうと思っています」
瀬尾はここまで言いきってから、一度言葉を止める。
そして、熱を込めた瞳で真っ直ぐに柳原先生を見ながら言う。
「我々はこの文化祭がすべてをかけたいと思っていますので」
瀬尾の言葉には揺らぐことのない芯があった。きっと、彼女はずっとこの文化祭について、考えてきたのだと思う。でなければ、こんな風にすらすらと答えられるはずがない。
瀬尾の、この並々ならぬ情熱はいったいどこから生まれているのだろう。
だが、柳原先生は、そんな瀬尾の言葉にひるむような相手ではなかった。
「すべてをかけると言ったな?」
「……言いましたが」
「ならば、文化祭の部誌の売り上げいかんで部の存続が決まっても構わんということだな?」
「………………」
瀬尾は口をつぐんで、柳原先生を睨む。
「すべてをかけるとはそういうことではないのか? それとも、おまえのすべてをかけるという言葉は、その程度のものなのか?」
さらなる挑発に、瀬尾はぐっと両の拳を握りしめている。
何かまずいことが起ころうとしている気がする。俺はこの場を収めるために何かを言うべきなのではないだろうか。そんな直感が頭を過る。だが、言うべき言葉は生まれず、俺は馬鹿みたいに口をぱくぱくと動かすことしかできない。
俺は周囲の人間に助けを求めるように目をやる。
部長は苦笑いを浮かべていて、日下部先輩は我関せずとクールな表情。彩音はいつもの無表情で、御影さんも困ったように二人を見ているだけだった。
結局、俺は何も言えなかった。
「違う」
俺は周囲の人間を見回していたから、その言葉が誰から放たれたものであるのか、一瞬、認識するのが送れる。
「私たちは結果を残します。百部を売り切ることくらい造作もない……」
「言ったな。ならば、百部売り切れなければどうする?」
瀬尾はもはや怒りを隠そうともせず、柳原先生をねめつけて言った。
「そうなったら、廃部でもなんでも好きにしたらいい! どうせ、現状維持ならとり潰されるんだ! だったら、お望み通りの結果を出してやる!」
それはもはや怒号とも言うべき類いのもので、俺は思わず彼女の剣幕にたじろいでしまう。
だが、敵はさるものであった。
「言ったな。ならば、その通りにしよう」
柳原先生は無情にも宣告する。
「おまえたちが部誌を百部以上売り上げれば、部は存続。そうでなければ廃部だ」
「……ごめんなさい」
柳原先生が去った直後だった。
瀬尾は力が抜けたのかよろよろとパイプ椅子に座り、顔を伏せながら言った。
「……勝手なことして」
そう呟く瀬尾の声は震えている。それは明らかに泣くのを堪えている声だった。
俺は困惑する。
なんなんだ、こいつは。
誤解がないように言えば、あくまで俺は困惑していただけだ。別に瀬尾を責める意志は本当に少しもなかった。俺はむしろ、つい先程まであんな怖い教師に毅然とした態度で立ち向かった瀬尾に素直に感心していた。先程の彼女の瞳には、おととい俺に向かって「プロになる自信はある」と宣言したときの彼女と同じ何かを感じていた。俺は彼女が持つ、その何かに惹かれて、彼女の提案に乗ったのだから、先程の様な彼女の姿はむしろ好ましいものだった。
だからこそ、親に叱られてうずくまる子供の様な今の彼女の様子が理解できなかったのだ。
「うん、うん。舞香ちゃんの気持ちは伝わったから。大丈夫よ」
御影さんが瀬尾の耳元に向かって優しく囁き、瀬尾の頭を撫でる。
「そうだよ! むしろ舞ちゃんが言ってくれてすっきりしたって!」
彼女の背中をさすりながら声を上げるのは部長だ。
「ね?」
部長が他のメンバーに目配せをする。
「そうだね。まあ、解りやすい目標が出来て、よかったかもね」
と、感情の読めない微笑みを見せるのが日下部先輩。
「そうですね」
と、気の無い言葉を漏らすのが彩音だった。
彩音と御影さんを見て、思う。泣きそうな人に寄りそうのが御影さんと、遠くからじっと見ているだけの彩音。親子でありながら二人の在り方はまったく違っていた。
だが、俺も偉そうなことは言えない。
俺は瀬尾に何の言葉をかけてやることも、できなかったのだから。
部員である五人全員で学校を出る。部会の後の自然の流れという奴だった。
正直なことを言うと、俺はそろそろ一人になりたかった。これほどまでに人と関わる時間を過ごしたことは本当に久しぶりだったから、精神的にかなり疲弊していたのだ。だが、「一人になりたいので帰ります」と言えるほどの勇気もなかった。結局、俺は孤高を求める癖に、孤独を嫌う、何処にでもいるただの餓鬼だったのだ。
校門を出た直後だった。
「よーし、今日は夏樹少年の歓迎会行っとこうか? カフェ行こうよ。駅前にパンケーキの店があってさあ」
「すいません、私は今日は早めに家に帰らないといけなくて」
部長の言葉を遮る様にして声を上げたのは彩音だった。
部長が何かを答える前に彩音は続けて言う。
「失礼します」
彩音は流れるような自然な一礼をして、踵を返してすたすたと歩いて、この場を後にした。
「ひびきさん、私も今日はパス」
そういったのは日下部先輩だった。
「彼氏が待ってるから。じゃあ、また」
それだけ言い捨てると彩音と反対方向に足早に去って行った。
残された三人に沈黙の帳が下りる。
これはさすがにお開きになる流れか、と俺が安堵の息を吐こうとした瞬間、
「じゃあ、三人でいくか! 五人ではまた今度行こう!」
部長は俺と瀬尾の手を掴んで強引に歩き出した。
結局、部長に付き合わされ、パンケーキの店とやらに連れていかれた。
部長はほとんど一方的に喋り続け、俺と瀬尾は相槌を打つだけだった。部長はきっとまだ部に慣れない俺を部員に馴染ませるために気を使ってくれたのだろう。この人は本当に「良い人」なのだろうなと思った。
俺は彼女のその好意を、甘ったるいパンケーキと一緒に呑みこんだ。
「じゃあ、私、こっちだから。夏樹少年、舞ちゃんをちゃんと送ってあげるんだぞ」
駅前で俺たちは解散し、俺は瀬尾と二人きりになってしまう。正直、今の瀬尾と二人になるのは気まずかった。先程、カフェに居る間も、部長が多弁であることを差し引いても、瀬尾は言葉少なだった。さっきの部室での出来事が尾を引いているのだろうということは想像に難くなかった。
「行くか……」
「ん……」
ここからしばらくは俺たち二人の帰路は同じであることは解っている。俺はゆっくりと歩きだし、瀬尾は後ろを黙ってついて来た。
俺は正直なところ、迷っていた。瀬尾に声をかけるべきなのかどうか。彼女は落ち込んでいるようだったから、下手に声をかけずにそっとしておいてやるべきだという解答が脳裏に浮かぶ。でも、それは都合の良い言い訳であることは明白だ。要は、俺は今の瀬尾に話しかけなくていい理由を探していたんだ。
俺は瀬尾の申し出を受けたことを後悔し始めていた。
改めて考える。
なぜ俺は瀬尾の提案に乗ったのか。もちろん、それは「青春」を取材するためではあったのだけれど、それは瀬尾舞香という少女あってのことだということは間違いなかった。
俺は要するに瀬尾舞香という少女に何かしら惹かれるものを感じていたのだと思う。
それは恋とかそういう短絡的な感情とは違うはずだった。
だが、それが何であるかを上手く言葉にする事は難しかった。
少なくとも、俺は彼女について行けば、今までとは違った世界が見えるのではないかと思っていたのだ。
ならば、もっと積極的に彼女に声をかけるべきだと人は言うかもしれない。しかし、そんな小学生の解く計算ドリルの割り算みたいに、人の感情は簡単に割り切れるものではない。
俺は小さく溜め息をついた。
「私さ」
不意に聞こえた声に振り返る。
瀬尾は振り返った俺を見つめながら言った。
「昔からああなんだ」
「……ああって?」
「カッとなったらダメなの」
それから瀬尾は語り始めた。
「子供のときからそう。何かができる? って尋ねられたら絶対に『できる』って言っちゃうの。九九に、逆上がりに、テスト。なんだってそう。有言実行できれば、まだ良いんだけどね。大抵、ミスっちゃう。おかげで昔から『口先だけ女』とか言われてたよ」
彼女は自嘲的に吐き捨てる。
だが、同時に彼女の紡ぐ言葉の響きには、どこか自己保身的なものも感じられた。自分は自分の欠点を自覚している。そう宣言することで、自分の情けない態度を正当化したいというような考えが透けて見えた気がしたのだ。俺は彼女のそんな態度に、共感と反発という相反する感情を同時に覚えた。
俺が何も言えないでいると、瀬尾は言った。
「だから、私は小説が書きたいの」
「……だから?」
彼女の言葉の間に論理の飛躍がある様な気がして、俺は首を傾げる。
彼女はしげしげと俺の顔を見つめている。まるで砂の中から砂金を見つけ出そうとしているかの様だった。俺はたじろいだけれど、やはり何も言えない。
「いや、ごめん。解らないならいいよ」
彼女はまた少し悲しそうな顔をする。
「じゃあね」
いつの間にか、互いの帰り道の分岐点に辿り着いていた。彼女は別れの言葉一つ残して、去って行った。
俺は何も言えなかった。
いつだって、そうだ。
俺はいつも本当に必要な言葉だけは、どこかに落っことしてしまうんだ。
俺が家に辿り着いたとき、彩音は既に自室に引っ込んでいたようだった。
彩音が作ったと思しき夕食があったが、つい先程まで甘ったるいパンケーキを食べさせられていたこともあって、手をつける気にはなれなかった。彩音には申し訳ないとは思ったが。
俺は自室に向かうために彩音の部屋の前を通ったときにふと、思う。
なぜ、彩音は先に帰ったのだろう。
彩音は「早く家に帰らなければならない」と言っていた。だから、家でするべきことがあったのだろう。それは家族のために夕食を作ることだったのだろうか。御影さんは教員として遅くまで働いているし、彩音の父親である典孝さんは現在、単身赴任中。だから、夕食は彩音が作ることが多かった。俺も居候の身として家事の一つくらいはやろうと食事作りを引き受けたこともあったのだが、俺の作ったハンバーグを口にした彩音は珍しく顔をしかめて、次の日から俺が何かを作ろうとする前に自分が食事を作るようになった。
だから、確かに家族に食事を作るという意味で彼女は早く家に帰る必要があったのかもしれない。
だが、彼女が食事を作る対象は、自分自身を除けば、俺と御影さんということになるわけで、もし彩音と俺が部長に連れられて食事を取っていれば、食事の用意が必要なのは御影さん一人ということになる。御影さんは、仮に俺たちが遅くなって御影さんの夕食の用意が出来ていなかったとしても、怒るような人ではない。むしろ、自分の娘と甥が部活の仲間と仲良くしていることを何よりも喜ぶような人だ。俺でも解るのだ。実の娘の彩音がそんなことが解らないはずがない。
だから、結局、彩音は部活のメンバーと関わりたくなかったから、家に帰っただけにしか思えないのだ。
俺はそんなことを考えながら、彩音の部屋の扉をじっと見つめる。
聞いてみようか。
ふと、そんな考えが浮かぶ。
「なんで先に帰ったんだ?」と一言問えば、それで俺の疑問は解決するはずだ。もしかしたら、宿題か何かが溜まっていて家で終わらせる必要があったのかもしれないし、もしかしたら、どうしても見たいテレビ番組でもあったのかもしれない。聞けば、「なんだ、そうだったのか」と言って、終わるようなどうでもいい出来事なのかもしれない。
俺は彩音の部屋の扉を穴があきそうになるほど見つめる。
だけど、結局、俺がその扉を叩くことはなかった。
俺は自分に与えられた部屋に入る。
俺の部屋と彩音の部屋。そこは壁で隔てられている。
そんな当たり前のことを考えて、俺はまた小さくため息をついた。
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