第4話 王子様の欠片
「……君が新入部員?」
綺麗な人だと思った。その人は綺麗な透き通る瞳で俺を見る。
そして、白くたおやかな手がそっと俺の顔に向かって伸ばされて、俺の頬に優しく触れる。
「……ふふ、かわいいね」
まるで天使のようなソプラノボイス。
俺は動くことが出来ず、為すがままになっている。
その女性の整った顔が俺の目の前にある。長い睫毛、大きな瞳、透き通る髪。その一つ一つが魔力でも持っているように俺を見入らせ、動きを止めさせる。
そして、彼女はゆっくりと唇を動かし、何かを言おうとしたところで、
「やめてください、日下部先輩」
間に割り込むように入ってきた存在のおかげで、俺は正気を取り戻す。
「ここ、教室ですよ」
教室中の視線が俺たち二人に注がれていた。
俺は思わず後じさり、この謎の女性から距離を取る。
時は放課後。終礼が終わり、クラスが解散になった直後であった。この女性はおもむろに教室に入ってきた。うちの学校は学年によって制服のネクタイの色が違うから、違う学年の生徒であることは一目でわかる。先輩である二年生が教室に入ってくれば、自然、注目は集まる。それがしかも美人だとすれば尚更だ。その衆目の中、この女性は瀬尾に一言何らかの声をかけた後に、俺の前に立った。そして、今に至る。
俺は彼女のあまりに自然な動作とどこか魔性染みた美しさにあてられ、我を失ってされるがままになっていたが、冷静になると、大勢の人間が居る教室で女性に見つめられ、頬を撫でられるなど普通、起こり得ないことで、俺の心臓は今更ながらに、羞恥と緊張で狂ったように暴れ出す。
俺が混乱で何も言えなくなっている間に、瀬尾は闖入者である女性を睨みながら言う。
「日下部先輩、そんなことをさせるために私は夏樹くんのことを教えたわけではないですけど」
日下部と呼ばれた先輩は、どこか蠱惑的な笑みを浮かべながら応じる。
「ごめんね、舞香ちゃん。確かに、今のは私が良くなかったよ」
「そうですよ、教室でこんな真似」
「ちゃんと、舞香ちゃんに許可をもらってからやるべきだったね」
「そう……いや、そういうことではないです」
瀬尾はあからさまな敵意を発しながら言う。
「なんで、私の許可なんですか。私関係ないですよね?」
日下部先輩は、小さく首を傾げながら言った。
「……夏樹くんは、舞香ちゃんの彼氏じゃないの?」
とんでもない爆弾発言が飛び出した。
「違いますよ!」
俺が何も言えないでいる間に、瀬尾は力強く、彼女の言葉を否定する。
「……そうなの?」
癖なのだろうか、また先程と同じ様にきょとんとした表情で、首を小さく傾げる。どこか浮世離れし、ミステリアスな雰囲気を持つこの人が、こんな動作をすると、ギャップも相まって、なんだかより可愛らしく見えてしまう。
「ひびきさんから舞香ちゃんが男の子を連れてきたって聞いたからてっきり……」
「だから、すぐそういう方向に結び付けるのはやめてください」
「……そういう方向って?」
「だからそういう、恋愛がどうことか、そういう事です!」
すると日下部と呼ばれた先輩は、目を丸くしながら呟く。
「男と女が居れば、恋に落ちるのは当たり前のことだよ」
透き通るような声で紡がれたその言葉には嫌味やとがったものは一切感じられない。きっと、彼女は本気でそう考えているんだろう。
「………………」
その言葉をどう取ったのだろうか。瀬尾は急に口をつぐんでしまう。
そして、何かを呪う様に顔をしかめて、瀬尾は言う。
「……それでも、そんなのじゃありませんよ」
瀬尾はいったい何を考えているのだろう。
俺には彼女の心情が理解できなかった。
ただ、今の俺にも一つだけ解ることがある。
「……あの」
「ん? どうかした?」
「教室中の注目集めてるんで、とりあえず、やめてもらえませんか……」
教室に残る十数人の生徒の目がすべてこちらに向いていた。侮蔑、嘲笑、好奇。そこに浮かんでいる表情は様々ながら、少なくとも悪目立ちしているのは間違いがなかった。
瀬尾は顔を真っ赤にして黙り込んでしまう。
日下部という先輩は平然とした様子で言う。
「……まあ、私は慣れているから気にしないのだけれど」
いや、こんな状況に慣れているって、どういうことだ……。
しかし、俺は、また何も言えなかった。
「春風さん、帰りましょうよ……」
そのときだった。教室の扉のところに立つ男子生徒。顔を見た覚えはないから、おそらく別のクラスの生徒だ。彼の言葉は日下部先輩に向けられていた。
彼女はその言葉に応じる。
「ごめんね、すぐ行く」
透き通るような声でそう言ってから、彼女は俺を見て言う。
「私は日下部春風。君と同じ文芸同好会のメンバー」
そして、俺に背を向けながら呟く。
「いつか君が『王子様の欠片』になることを期待しているね」
『王子様の欠片』……?
彼女は謎の言葉を残して、まるで風のように消えた。
残された俺と瀬尾がクラスメイト達から質問攻めにあったことは言うまでもない。
「あの人にだけは気をつけて」
成り行き上、俺は瀬尾と下校を共にすることになる。学園の前の緩やかな坂をゆっくりと下っていく。先程まで散々クラスメイトにからかわれた後だったので気恥ずかしかったのだが、瀬尾が帰り支度をする俺を黙って待っていたので、それを振り切ることができるほど、俺は薄情にはなれなかった。
「あの人っていうのは、日下部って人のことか」
「うん」
瀬尾は敵意を隠そうともせず、不機嫌な顔を見せながら言う。
「あの人はいわゆる男にだらしないっていうか……。ともかく、色んな男の子を誘惑しているんだよ」
ビッチって奴かと言いかけたが、初対面の先輩を本人が居ないとはいえビッチ扱いするのは気が引けたので、俺は何も言わないでおくことにする。
「あの人を呼びに来た隣のクラスの奥田君いるでしょ?」
彼が奥田くんという名前であることは今始めて知ったが、俺はとりあえず頷いておく。
「あの人、今、奥田君と付き合っているんだけど」
「まじかよ……」
日下部という人はとんでもない美人だった。それに対して、奥田君は特別イケメンという訳ではなかった。一回も話したことがないのにこんな言い方をするのも悪いが、どちらかというと冴えない男にしか見えなかった。
「でも、先週は鶴田君と付き合ってたらしい」
「………………」
「その前は井川くんで」
「ああ、大体どういう人か解った……」
どうやら、俺の想像の一段上を行く相手だったようである。
「まあ、とにかく、そういう人だから気をつけて。泣かされている人も多いみたいだから」
という瀬尾の言葉に俺は応える。
「まあ、でも、あんだけ美人ならな」
それは深い意図はない言葉だった。このとき、俺は瀬尾舞香という少女に対して、気心を知った相手である様な錯覚を覚えていたのかもしれない。少なくとも部長や日下部先輩という捉えどころがない人物よりは瀬尾は等身大だった。だから、俺はこんな要らないことを言ってしまったのかもしれない。
「……へえ。君も結局はああいう人がいいんだ」
急に固くなった声。瀬尾はじとりと俺を睨んだ後に早足になる。
「いやいや、良いとかじゃなくて、ただ美人ではあったから男がひっかかるのは無理ないっていう意味で言っただけで」
なぜ俺はこんな言い訳臭いことを言っているのだろう……。
それもこれも、瀬尾が急に不機嫌になるから悪いのだ。
瀬尾はほとんど昨日知り合ったようなものだ。彼女が一体どんなことを考えているのか。俺には理解できなかった。
横断歩道の点滅信号を渡る。その先が俺たちの通学路の分岐点だ。
「じゃあね。明日は部会だから。そのとき、部室に案内する」
どこかそっけない調子でそう言い捨てて、瀬尾は俺に背を向けた。
傾いた日差しが俺達を照らす。沈みかけた夕陽ですらこんな熱気を持っている。もうすぐ、本格的な夏が始まるだろう。そう思った。
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