第2話 夕暮れ交差点
俺が彼女の提案を承諾すると彼女は、水を得た魚のように、部活での最近の活動だとか、部会の日取りだとかを語り始めた。
「部会は毎週水曜日に行われるから、そのときは私が案内するね。あと、部活に入るんだったら入部届けを出さなくちゃいけないから、職員室にもらいに行こう」
「あ、ああ」
立て板に水を流すようによどみなく話し続ける彼女の表情はあまりに楽しげだった。まるで新しいおもちゃを買ってもらったばかりの子供のように弾んだ笑みを浮かべている。俺はそんな彼女の表情を見ていて、どこか気まずくなる。何せ俺は未だに彼女の名前すら知らないのだ。
今更ながら、何故この娘は俺を親しげに「夏樹くん」と呼ぶのだろう。クラスメイトとはいえ、入学してからこの二か月、彼女と言葉を交わした記憶はなかったのだが。
だが、今更、「君の名前、なんだっけ?」などと聞けるほど、俺の面の皮は厚くはなかった。
教室を出ながら彼女は言った。
「うちの部活の顧問は、遠坂先生だから」
「え?」
そう言われて不意に思い出す。そう言えば、以前に本人がそんなことを言っていたような気がする。
「あ、私たちの学年には来てない先生だから、知らないかな?」
「いや。知っている……」
むしろ、よく知っているというか……。
「そうなの? じゃあ、話は早いね。さっそく行こうよ」
俺は、彼女の背中を黙って追うしかなかった。
「あら、舞香ちゃん、どうかしたの?」
放課後の職員室。そこにはまだ多くの教員が残っていた。何かの採点をしている人も居れば、パソコンに向かっている人も居た。その中で、遠坂先生も自分の席でパソコンに向かっていた。
「舞香ちゃん」。それがこの少女の名前なのだろう。苗字で呼んでくれれば、呼び方が解ったのに。しかし、名前が解っただけでも進歩だろう。クラスの名簿か何かを調べて、「舞香」という名前の女子を見つければ苗字も特定できるはずだ。
舞香と呼ばれた少女は得意げな調子で言った。
「新入部員を連れてきました」
「新入部員?」
遠坂先生は、いつものおっとりとした口調で首を傾げて、俺の方を見た。
そして、にっこりと優しく微笑んで呟いた。
「あらあら、ナツくん。もしかして、文芸同好会に入る気になったの?」
案の定、という奴だ。遠坂先生は俺を「ナツくん」と呼んだ。
俺は思わず声を荒げかけるが、ここで慌てるのも余計に格好がつかない。俺は平静を装って言った。
「中川と呼んでください……。百歩譲って夏樹でお願いします、遠坂先生……」
「えぇ。ナツくん。つれないわぁ」
遠坂先生は、甘ったるい声を出す。齢四十を越えている女性が出す様な声ではないと思うのだが、不思議と違和感は少ない。高校生の娘が居る様にはとても見えない若々しさをしているからだ。
舞香と呼ばれた少女は俺たち二人の顔を交互に見てから呟いた。
「えっと……お知り合い……ですか?」
彼女の疑問はもっともだと思う。普通、一生徒と一教師という関係ではこんな会話はしないだろう。
俺は言う。
「遠坂先生は俺の叔母」
「そうなの?」
「ああ。先生はうちの母親の妹なんだよ」
「なるほど。それで『ナツくん』なんて呼ばれてるんだね」
舞香という少女は、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべている。
……こういう目で見られるから言いたくなかったんだ。
遠坂先生は俺に向かって言う。
「私が誘ったときには入部なんてしないって言ってたのに、どういう風の吹きまわし?」
「ああ……まあ、色々ありまして……」
正直に言うと文芸同好会の顧問が自分の叔母であるという事実は今の今まで忘れていた。以前、遠坂先生……御影おばさんに誘われたときに入部しなかったのは、単純に学校内で叔母との関わりが増えるのが気恥ずかしいと思ったから、という理由が一つ。
そして、もう一つの理由。
「まあいいわ。ナツくんが入部してくれたら、きっと彩音ちゃんも喜ぶわぁ」
「………………」
御影おばさんの言葉に少女は反応を示す。
「あ、そっか。遠坂先生が夏樹君の叔母さんなんだったら、彩音さんとも親戚? いとこって奴になるのかな?」
「……そうだな」
遠坂彩音。俺の従妹。無口でおとなしく、何故か同い年の俺にも、実の母である御影さんにも、敬語を使う少女。何故そんなよそよそしい態度を取るのか。その理由を俺は知らなかった。
少なくとも、俺が文芸同好会に入部して、彩音が喜ぶとは思えなかった。だから、以前、御影さんに誘われたときには入部を断ったのだ。
今からでも「やっぱり入部するのは辞める」と言おうかと思った。落ち着いて考えてみると、俺の正体を秘密にする交換条件として、彼女の小説を指導する。それだけでも特段問題はないはずなのだ。要は同好会の存続に必要なのは実績。それはこの女子生徒が達成すべきもの。俺一人が所属するか否かは大きな問題ではないはずだ。
「さあ、ナツくん。これに名前を書いて。あ、保護者のところは私が書くからいいわ。今のナツくんの保護者は私だからね」
御影おばさんは俺が尻ごみし始めた空気を察したのだろうか、テキパキと入部の手続きを進め始める。振り返ると背後には舞香という少女がぴったりと張り付き、俺の一挙手一投足を見守っている。……到底、今から逃げ出せるような空気ではない。
俺は小さく溜め息をついてから入部届けを書いた。
「……書きましたよ、遠坂先生」
俺が入部届けを差し出すと、
「もう、ナツくん。さっきから、別に『遠坂先生』なんてよそよそしい呼び方しなくてもいいのに」
「……普通、こういうのって教師の方が生徒に注意するもんじゃないですか。公私のけじめをつけろ、とか……」
家の中ならいざ知らず、ここは一応学校という公共の場なのだから、やはり生徒と教師という別はつけるべきだと思うのだが……。
俺の言葉に御影さんは優しく微笑む。
「いいのよ。私は教師である前にナツくんの叔母だから」
「………………」
俺は彼女の言葉に思わず、口をつぐんでしまう。
こういう人なのだ、この人は。
俺の様な人間でも毒気を抜かれてしまう様な何かを持った人。
それが遠坂御影という人間なのだと思う。
「じゃあ、これからよろしくね、ナツくん」
「……ナツくんはやめてください」
このときの俺はそう答えるので精いっぱいだった。
「今日はありがとう」
舞香という少女と共に校門を出る。別に入部届けはもう出したのだから、一緒に居る理由はもうないはずなのだけれど、なんとなく帰りを共にしてしまっている。
しかし、こういうことが俺が求めていたことだったのかもしれない。
同級生との下校。従妹である彩音と偶然、道で一緒になったことを除けば、この学校に来てから始めて経験だった。こういうときにかわされる会話。二人の間に漂う雰囲気。感じる思い。そういった物を取材するために俺は彼女に協力することにしたのだ。
結局、俺はこの少女を利用しているんだ。そのことは忘れてはいけない。
「いくつか聞いてもいい?」
二人で赤信号の前で止まる。車もほとんど通らない様な小さな横断歩道だったけれど、何故だか無視する気は起きなかった。
「ああ」
俺の返事を聞いてから少女は話し始める。
「遠坂先生が今の保護者ってことは、先生と一緒に住んでいるの?」
「……そうだな」
「あ、ごめん。答えにくいことなら言わなくていいよ」
「いや、そんなことはない」
むしろ、きちんと説明しておかないと余計な誤解を持たれそうな気がする。
俺は言う。
「俺は京都の方の生まれなんだが、こっちの学校に来るために御影さんの家に居候させてもらってるんだよ。だから、両親は健在」
「なるほど」
彼女は言う。
「でも、なんでわざわざ、うちの学校に? もしかして、信者なの?」
「いや、違う。確かに御影さんは信者みたいだが、俺は特にそういうわけじゃない」
「ならなんで? うちの学校って、わざわざそんな遠くから通いたいと思うほど、すごい学校じゃないと思うけど」
彼女の疑問はもっともだと思う。
「……まあ、色々あるんだよ」
しかし、俺は彼女に自分の事情を話す気にはなれなかった。そこまでする義理はなかったし、自身の過去のことを吹聴するつもりはなかった。
「そっか」
彼女は何かを察したのか、それ以上追及はしなかった。
彼女は続けて、言う。
「ということは、彩音さんと同じ家に住んでるってこと?」
まあ、当然、そういう質問になるよな、とは思っていた……。
「……そうだな」
「へえ……そうなんだ」
何故か落ちた彼女の声のトーン。
「……そうなんだ」
彼女は擦り切れたテープみたいな調子で同じ言葉を繰り返す。いったい何を考えているのだろう。
「……大丈夫だとは思うが、邪推はするなよ。あと、言いふらすな」
「解ってる。これでも口は固い……はず」
「はず……」
そこは断言してほしかった。
赤信号が青に切り替わる。俺たちは再び歩み始める。
「もう一個聞いてもいい?」
「……なんだ?」
俺は何故か嫌な予感を覚えながら、彼女の言葉を待つ。
「夏樹くん、私の名前、解ってる?」
「………………」
俺は思わず、顔を背けてしまう。結果として、それが返答になった。
「……やっぱりね。覚えてないんだ」
「……すまん」
入学して同じクラスになってから、そろそろ二か月が過ぎようとしている。クラスメイトの苗字すら解らないというのは、やはりいくらなんでも薄情だという自覚はあった。
横断歩道を渡りきって、少女は言った。
「そんな気はしてたよ。覚えていたならもっと違う反応をしただろうし……」
確かに、俺は彼女を一度も呼んでいない。さすがに、それはいくらなんでも不自然だったのだろう。さすがに誤魔化しきれなかったようだった。
「本当にすまん」
「あーあ、ショックだなあ」
「……悪かった」
俺は素直に頭を下げる。その俺の頭の上に向かって彼女は言った。
「冗談。別に怒ってないよ。同じクラスになってから、今日までまともに話したこともなかったわけだし」
俺はゆっくりと顔を上げる。彼女は俺を真っ直ぐに見つめる。
「じゃあ、今度こそ、覚えておいて。私は瀬尾舞香」
瀬尾舞香……。
「これから、よろしくね。夏樹くん。これから、期待してる」
俺を見る彼女は優しく微笑んでいた。
だが、なぜだろう。俺には彼女のその優しい微笑みが、どこか悲しげに見えた。
「……おかえりなさい」
「……ただいま」
玄関の扉の鍵を開け、室内に入ると、ちょうど二階への階段を登ろうとしている彩音とはち合わせた。俺たちは短く、たどたどしい挨拶を交わす。
彩音は続けて言う。
「夕食。カレー。作りました。私はもう食べたので」
一つ一つゆっくりと紡がれる彼女の言葉。まるで彼女は手探りで暗闇を歩こうとしているかのようだと思った。
「……ああ。ありがとう。いただくよ」
俺は出来るだけ自然な言葉を返そうとする。だが、自然に言葉を返そうと思うことがそもそも不自然なのだ。階段の上に居る彼女は、やはり固い表情で俺を見下ろしていた。
伝えるべきことは伝えたということだろうか。彩音は俺の前から去っていく。
俺はそんな彼女の背中に声をかけた。
「なあ」
俺の言葉に彩音は俺に背を向けたまま歩みを止める。
俺が自発的に彼女に声をかけたのは、この二カ月、同じ屋根の下で暮らし始めてから、ほとんど始めてのことだったかもしれない。
「おまえって、文芸同好会って部活に入ってるの?」
「………………」
彼女はやはり背を向けたまま、振り返らない。
数秒間の沈黙の後に、彼女は背中越しに答えた。
「はい」
そして、それだけ答えると彼女は階段を昇って、俺の視界から消えた。
彼女の小さな背中は「今更、そんなことを知ったんですか?」と俺に訴えているように思えたのは、俺の勝手な幻想なのであろうか。
部屋に入ると俺は制服のままベッドに横たわった。あれだけ人とコミュニケーションをとったのは久方ぶりのことで一人になったとたんに疲れていることを自覚する。せっかく作ってもらったのだからカレーも食べないといけないのだけれど、今はそういう気分にもなれなかった。
俺はポケットから瀬尾に拾ってもらったスマートフォンを取り出す。そこにはメールアプリが開かれたままになっていた。
担当編集からの返信のメール。
『以前送っていた企画書なんですが、少し難しそうです』
俺が送った企画書、つまり、書く予定の新作小説の設定やあらすじを連ねた書類は、どうやら担当のお気にはめさなかったようだ。担当に認められなければ、新作小説を書いても出版されることはない。
俺はこのメールをもう何度となく読み返していた。それこそ暗唱できてしまうほどに。
『何か香川さんにしか書けない売りみたいなものが欲しいんです。現役の学生さんだからこそ出せる青春の味みたいなものが出れば面白いと思うんですけどね。結局、香川さんの書く小説の読者に求められているものってそういうものだと思うんですよね』
メールの日付は半年以上前。
俺はこのメール以来、一度も原稿に手をつけられないでいた。
俺にしか書けないものなど、本当にこの世界に存在しているのだろうか。
結局、俺は帰宅した御影さんに声をかけられるまで、ぐったりとベッドに横たわっていた。
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