作者取材のため青春します
雪瀬ひうろ
第1話 あるいはそれは物語の始まり
「うちの部活に入ってくれない?」
夕陽の赤に染め上げられた放課後の教室。薄汚れたカーテンをはためかせる柔らかな風。どこかから聞こえる吹奏楽部の楽器の音。そして、俺の目の前に立つ少女。
「夏樹くん」
そして、少女は儚げに笑った。
その光景を見て俺は思う。
それは、まるで――
自室に帰りつき、スマートフォンを充電しようとしたときに気がつく。
「やべえ……スマフォ、教室に忘れた……」
うちの学校はそこそこの進学校にしては珍しく携帯電話の所持は禁止されていない。もちろん、授業中の使用はご法度だが、休み時間などに使用する分には、教師も特に注意しない。だから、俺も放課後の教室でメールをチェックしていた。そのときに、たまたま担任教師が教室へとやってきた。俺は思わず、スマートフォンを机の中に滑り込ませた。別に校則で禁止されていない以上、何も後ろ暗いことはなかったのだが、反射という奴だろう。なんとなく、教師に携帯電話をいじっているところを見られるのは良くないと思ってしまう。
「取りに戻るか……」
幸いなのは、まだ制服を着替えていなかったこと、そして、俺の現在の家から学校までの距離は徒歩でも十数分程度の距離にあるということだろう。
別に自分の机の中にある以上、盗まれる心配はないと思うが、不安ではある。何せスマートフォンというのは個人情報の塊だ。しかも、俺は横着してロックなどはかけていない。誰かに拾われたりしたら、面倒なことになる。
俺は学園へととんぼ返りすることにした。
これは俺の勝手なイメージかもしれないが、学校というのはどうも山の上にあることが多い気がする。俺の通う空星学園も小高い山の上にあり、俺たち空星の生徒は毎日緩やかな坂を往復している。
舗装された山道を少し歩くと、白塗りの古びた校舎が視界に現れる。屋上には大きな白い像が鎮座している。あれはマリア像らしい。うちの学校はいわゆるミッションスクールという奴だ。だから、校内に礼拝堂も存在するし、入学式などの行事では生徒はかしこまって「アーメン」などと言ったりする。
俺自身は信者でもなんでもないため、入学式の様子を見たときは少し身構えたが、実際には信者ではない生徒の方が圧倒的に多いらしいと聞き、胸を撫で下ろした。
入学からおおよそ二か月が過ぎようとしている。
地元から遠く離れた土地での新しい生活。しかし、胸躍る出会いもなければ、心を震わせる事件もない。穏やか過ぎてつまらない平凡な時間は、嵐を知らぬ大河のようにゆっくりと流れていく。
このときの俺は、まだこのくだらない現実を受け入れようとはしていなかった。
「あ……」
それはちょうど校門の前だった。
一人の女子生徒が視界に入ったとき、俺は思わず声を漏らしてしまった。その結果として、その女子生徒は俺と視線を交わすこととなった。
「………………」
彩音だ。
彩音は特段感情を揺らした様子もない。まるで生き物の居ない透明な水槽のような瞳で俺を捉えた。
そして、無機質な声で俺に言う。
「ああ、夏樹さんですか」
まるで機械のような抑揚のない平坦な声。しかし、それはいつものことなので、今更気にするようなことでもない。
「もう、先にお帰りかと思っていましたが」
「あ、いや……忘れ物だ」
なぜだか自分で言っていて嘘臭いなと思ってしまう。いや、事実忘れ物を取りに来ただけなので、まったく嘘はついていないのだが。なぜこんな風に思ってしまうのだろう。
きっと、どこか後ろめたかったのだと思う。俺が校門から踏み込もうとしていたのは「放課後の学校」。「放課後の」という冠がつくだけで、俺には毎日通っているはずの校門がまるで異界へと続く門のように思えてしまった。
ここは俺がいるべき居場所ではないのだ、と。
「そうですか。では、私はお先に失礼しますね」
俺自身の動揺を知ってか知らずか、彼女は変わらぬ鉄面皮を被ったまま、俺の隣をすり抜けて行った。
「では、また後ほど」
「ああ……」
俺は、黙って彼女の背中を見送る。
ふと考える。
彼女はこの放課後の学園に居場所を持っているのだろうか。
俺は今の彩音のことを何も知らなかった。
教室の扉を開ける。
窓から射す傾いた日の光が世界を赤く染め上げている。
そんな夕暮れの教室に佇む一人の女子生徒。
「まさか、本当に……?」
その女子生徒は手元にある何かに夢中になっていて、俺の存在にはまだ気がついていないようだ。何やらひとりごと言っている。ひとりごとを人に聞かれるというのは案外恥ずかしいものだ。俺もわりとひとりごとを言ってしまうタイプだからよく解る。俺は聞かなかった振りをしようと思う。
だが、よりにもよってその女子生徒は俺の机のすぐ隣に立っている。俺の机は窓際の後ろから二番目。つまり、女子生徒が立っている反対側から回り込むこともできない。
(はあ……しゃあないな……)
一声かけようと思ったが、まず相手の女子生徒の名前が解らない。たしかクラスメイトだったはずだが……。人の名前を覚えないのは、他人に興味が薄い俺の悪い癖だ。
俺は小さく息を吐き、呼吸を整えてから、意を決して声をかける。
「悪い、ちょっと通してくれ」
そのときだった。
「へ?」
女子生徒はどうやら俺の存在にまったく気がついていなかったようで、俺の言葉に間抜けな声を漏らしながらこちらを振りかえる。
瞬間、女子生徒は目を白黒させながら叫んだ。
「な、夏樹くん?!」
名前も解らない女子生徒はなぜか俺のことを下の名前で呼び、たいそう慌てた様子で手に持っていた物を落としてしまう。
ゴトン。
鈍い音を立てて、教室の床に転がり落ちたのは――
「あれ、そのスマフォ……?」
俺は床にしゃがみこんで落ちたスマフォを拾う。画面ではメールアプリが開かれている。そこにあるメールは紛れもなく、とある人物から自分に向けて送られたものだった。
つまり、これは間違いなく俺のものだった。
なぜ俺のスマフォをこの女は持っていたのか。俺はてっきり自分の机の中に忘れてきたと思っていたのだが……?
俺がいぶかしみの視線を女子生徒に向けた瞬間だった。
「ごめん、夏樹くん。それ、そこの床に落ちてたんだ」
そう言って、彼女は俺の座席の下を指差す。
「床に?」
「うん、だから、私が見つけて誰のものか確かめようと思って、触っちゃったんだ。ごめんね、勝手に見て」
少女はまるで遊園地のマスコットキャラクターみたいに、ぺこりと頭を下げた。
言われてみれば、俺も慌てて机の中にスマフォを突っ込んだ記憶はある。そのときに気付かずに床に落としてしまっていたとしても不思議ではない。
俺は言う。
「いや、落ちてたっていうなら俺の不注意だ。気にしないでくれ」
俺だって人のスマフォが落ちていたら、持ち主を調べるために画面を触るくらいのことはするだろう。ロックがかかっていなかったのなら尚更だ。
「そう、よかった……」
少女は俺の言葉に安心したのか、目を細める。
そして、次の瞬間に少女は真剣な顔をする。
「ねえ、一つ聞いてもいいかな……?」
そんな改まった口振りに俺は身構える。
「なんだ……?」
名も知らぬ女生徒は真っ直ぐな目をして言った。
「夏樹くんって、もしかして『香川七月』なの?」
どくん、と。
俺の心臓が跳ねた。
それはあまりの不意打ち。まるで今夜の夕飯に思いをはせていたときに、横っ面を叩かれたような本当に思いもよらぬ一撃。だから、俺は受け身をとりそこなってしまう。
「え……」
『おまえってさ、あんな――』
『まじかよ、ウケるわ』
『すげえじゃん、到底真似できねえわ』
『まさかおまえが――』
蘇る過去の記憶。滑りを帯びたそれらは俺の頬を不快に撫でる。
俺はまとわりつくそれらをそっと振り払う。
すべて終わったことなのだから。
香川七月。
それは駆けだしの恋愛小説家のペンネーム。
その正体は、この俺、中川夏樹だった。
彼女が俺の正体を看破した理由は非常に単純だ。
「俺の担当からのメールを見ちまったわけか……」
「ごめんね。電源を入れたら、すぐメールの画面だったから」
俺は放課後の教室でメールチェックをしていたのだから、それはある意味当然だ。
彼女のばつの悪そうな顔をしていたが、次の瞬間、目を輝かせて言った。
「でも、まさか、プロの作家が同じ学校、同じクラスにいただなんて」
女子生徒は嬉しそうに目を細める。
「私読んだよ。君のデビュー作。『無限の出会いとさよならと』。すごく感動して思わず泣いちゃったよ」
「……ありがとう」
俺は彼女の熱を帯びた言葉にそんなありきたりの言葉しか返すことが出来なかった。恋愛小説家の癖に気のきいた台詞の一つも浮かびやしなかった。
その後も名前も知らない女は、まるでブレーキの壊れた車のように止まることなく言葉を紡ぎ続けた。「ヒロインを助けるために何度も同じ時間を繰り返す主人公の行動に感動した」だとか「最後の別れのシーンはボロボロ泣いちゃった」だとか、彼女は終始俺の作品を褒めたたえ続けた。
その言葉を聞けば、彼女が俺の作品をきちんと読んでいることに疑いようは無かった。自分が書いたものを誉められて、嫌な気持ちはしない。
だが、何故だか俺は彼女の甘い言葉を素直に飲み込むことが出来なかった。
「でも、何か『嘘臭い』って思わなかったか?」
「え?」
彼女の熱に、俺は水を差した。輝く瞳に戸惑いの色が浮かぶ。
俺は意図的に自嘲的な笑顔を作って吐き捨てる。
「俺の小説を読んだ奴は……批評家は、こう言うんだ。『嘘臭い』ってな」
より正確には「登場人物の造形にリアリティがない」だとか「キャラクターの心情が、世界観に対してご都合主義的」だとか、それっぽい言葉をこねくり回しているのだけれど。
俺は確かにプロの恋愛小説家であったけれど、恋愛のれの字も知らなかった。
熱く滾る様な恋も、静かに寄り添う愛も知らなかった。すべては乏しい想像から紡ぎだされた虚構だった。そんなものが肉を持っている訳がない。俺の小説は外側だけを取り作った張りぼてのような何かだったのだ。
「所詮は餓鬼が書いた小説なんだよ」
世間の奴らは解っていないと思う気持ちがないと言えば嘘になった。人をこき下ろすことしできないような奴らは、所詮その程度の審美眼しかないのだと吐き捨てたかった。
だが、事実、俺のデビュー作たる『無限の出会いとさよならと』は、ほとんど売れなかった。くやしいけれど、それが現実だった。
俺はプロの作家ではあったが、それはほとんど名ばかりのものだったのだ。
「えっと……」
俺の吐き捨てるような言葉に少女は戸惑っているようだった。
しかし、次の瞬間、彼女はぶんぶんと首を横に振る。
「それでもプロはプロだよ! 私みたいな素人とは違うから! 本当にすごいと思うよ!」
彼女はそれでも俺を褒めた。
無邪気に笑う彼女に、俺は少しばかり毒気を抜かれる。
そして、次の瞬間に後悔する。
俺はいったい何をやっているんだろう。
「ああ……すまん」
俺は思わず謝ってしまう。
「なんで謝るの?」
「いや、なんでもない。気にしないでくれ」
俺は馬鹿だ。
クラスメイトとはいえ、名も知らぬ、ほとんど初対面の様な相手に何を熱くなっているのだろうか。単なる一読者に過ぎない彼女に無意識の内に俺を嘲笑った奴らの影を重ねてしまった。
俺は少しばかり冷静さを取り戻した後に言った。
「一つ頼みがある。俺の正体は他の人には黙っていてくれないか?」
「え?」
「一応、覆面作家ってことでやってるんでな」
事実、俺の正体を知っている人間は多くない。俺はこれ以上、俺の正体を知る人物を増やしたくはなかった。
少女は呆けた顔で俺を見ている。そして、次の瞬間には何か考えごとをする顔になる。数瞬の沈黙の後に彼女は応えた。
「いいよ」
そして、彼女は言う。
「でも、その代わりに私からのお願いも聞いてくれない?」
「お願い?」
「うん」
そして、彼女は言った。
「うちの部活に入ってくれない?」
夕陽の赤に染め上げられた放課後の教室。薄汚れたカーテンをはためかせる柔らかな風。どこかから聞こえる吹奏楽部の楽器の音。そして、俺の目の前に立つ少女。
「夏樹くん」
そして、少女は儚げに笑った。
その光景を見て俺は思う。
それは、まるで――
まるで
「部活?」
「そう、部活」
俺の言葉を鸚鵡返ししてから、彼女は説明を始める。
「私の入っている部活は、文芸同好会。名前くらいは知ってるでしょ?」
「ん……。まあな」
入学して一月ほどの頃、部活紹介のオリエンテーションが行われた。その中に確かに文芸同好会という物があったようなことは記憶している。自分自身、小説家ということもあり、小説を書くという部活がどんな部活だろうということに、まったく興味がないと言えば嘘になった。だから、俺はその部活紹介については注目していたのだが……。
「あの、なんか無駄に元気な人がよく解らん話をずっとしていた部活か」
俺の記憶の中にある文芸同好会の紹介は、こうだった。
「新入生の皆さん、こんにちはー! 私たちの部活は文芸同好会って言います! いわゆる小説を書くための部活です! 本が好きな人とか歓迎でーす。あ、別に小説とか書いたことなくても大丈夫ですよー。私も書いたことなかったですし。ていうか、私、部長ですけど、入部してからも小説なんて書いたことないですし。だから、部室で私たちとお話するためだけに来てくれても構わないですよぅ。お菓子とかもありますし。あ、お菓子と言えばですね――」
それから後は、学校の購買部に置いてあるオススメのスイーツの説明や学校近くの人気の喫茶店の話、果ては部長という女子生徒がはまっている料理の話へと流れていった。
いや、いったい何の部活なんだと、おそらく、その場に居た全員が考えている間に部活ごとに割り当てられた時間の終わりを知らせるベルが鳴る。
「あれ? もう時間ですか? じゃあ、この続きは部室でしましょう。じゃあ、皆さん、部活に見学に来てくれるのを待ってまーす」
部活の紹介は、そんな適当な挨拶で締めくくられたのだった。
「……それを言われると若干痛いんだけど」
少女は明後日の方角に目をやった後に呟く。
「まあ、部長は悪い人じゃないから……」
「………………」
まるで部長以外には悪い人が居るかのような言い回しだなと思ったが、俺は何も言わなかった。
「まあ、ともかく、その文芸同好会に入ってほしいの」
「なんでだよ……」
俺は少女の意図が解らず困惑する。
「色々理由はあるんだけど、一番の理由は廃部を避けたいからかな」
少女の説明はこうだった。
空星学園は現在、経営危機らしい。昨年度まで女子校だった学園が今年度から男女共学に変わったのも、生徒数を確保できなくなったことが原因とのこと。それゆえ、様々なところでコストカットを行う必要がある。そのために白羽の矢が立ったのが部活ということらしい。
「文芸同好会も去年までは文芸部だったらしいの。でも、今年は新入部員を入れても部員数が四人しかいなかったから、『部』から『同好会』に格下げになっちゃったんだ」
通常であれば、『同好会』となったとしても、すぐにとり潰されるというようなものでもないらしい。だが、今はそんな余裕がある状況ではない。だから、『同好会』となった文芸部は、いつとり潰されてもおかしくない様な状況だという。
「つまり、なんだ? 人数が必要ってことか……? なら、別に俺じゃなくても……」
「ううん。今はもう人数とかそういうレベルのことじゃ覆らないとこまで話は進んでいるの。さすがに明日潰されるってことはないだろうけど、きっと来年には残っていないと思う」
要は廃部というのはほとんど既定路線ということだろう。
「でも、私たちが明確な結果を残せれば、話は変わってくる」
少女は深い海の様な瞳で、真っ直ぐに俺を捉える。
「たとえば、プロ作家がうちの部活から出るとか……」
そこまで言われて少女が俺にさせたがっていることにようやく気がつく。
「俺にプロ作家としての名を売れっていうのか?」
俺は思わず身構える。それは俺が最も忌避すべき要求であったからだ。
「本当はそれが手っ取り早いのかもしれないのだけど……。でも、夏樹くんは正体をばらしたくないんだよね」
「ああ」
「なら、次善の策」
少女はまるで世間話のような気楽さで、その言葉を口にする。
「夏樹くんが私を指導してプロデビューさせるっていうのは、どう?」
「何?」
「この方法なら夏樹くんは正体を隠せるし、うちの部活の明確な実績になる」
「………………」
確かにそれならば、俺は自分の正体を衆目にさらさなくて済むが……。
「理屈は解る。だが、まずそんなことが出来るのか」
俺はこの目の前にいる少女のことを何も知らない。それこそ、名前すらも。
そして、少女のあまりにも軽々とも思える言葉に何も感じるところがなかったと言えば嘘になった。プロとしてデビューするまで、原稿に向かい続けた苦悩の日々が俺の脳裏を過る。そして、今も続く、産みの苦しみも。
本当におまえは理解しているのか。
そんなことを考える。
「まあ、結局は私の実力次第だってことは理解してる。いくら指導者が優秀だとしても、書くのは私自身なんだから」
「……自信はあるのか?」
しかし、俺は彼女の目をもう一度見た瞬間に何も言えなくなった。
「ある」
彼女は意外にもはっきりとそう言い切った。その瞳に宿っていたのは、確かな熱だった。俺は確かにその熱を知っていた。それは、かつての自分の中にも確かにあったもので、そして、今の自分の中から消えていたものだった。
「私の人生の中で、夢を果たす最大のチャンスが目の前にある。それを掴むためならどんな無茶だってしたいの」
「………………」
彼女の言葉は荒唐無稽で何の根拠もない。せめて、彼女の作品を一作でも読んでから判断してもよさそうなものだ。
だけれど、いつの間にか、俺は彼女の言葉に乗りたくなっていた。彼女の口車に乗り、文芸同好会に所属しても良いような気分になっていたんだ。
それはなぜだろうか。
俺は一つ深呼吸してから答えた。
「……わかったよ。文芸同好会とやらに入る」
「本当に?」
彼女は何故だか不安そうな顔を見せる。先程までの自信は風で飛ばされてしまったかのように、瞳に宿る力が薄れる。
俺はそんな彼女の瞳を見つめて言う。
「ただし、あくまで同好会に入るってだけのことだ。指導とやらをしても構わないが、読んで批評する以上のことはしない。というか、それ以外に何をしたらいいのか解らん」
俺自身誰かに教わって小説を書いていたわけではなかったから、人に対する指導法など知らないのだ。
「あと、協力はするが、保証はしない。たとえ、あんたがデビューできなくて同好会を守れなかったとしても、俺を恨まないでくれ。その条件ならやってもいい」
目の前で倒れた人を無視するほど薄情ではないが、溺れた人間を助けるために命を張って海に飛び込めるほど厚情でもない。我ながら保身に走った条件だとは思うが、これくらいは譲歩してもらってもバチは当たるまいと思う。
「うん。いい。全然いい。私なんかのためにそこまでしてくれるなら。いい……本当に……」
まるで壊れた音楽再生プレイヤーのように、途切れ途切れに喋りながら、何故か少女は顔を伏せる。俺にはまるで彼女が泣き出すんじゃないかって思えた。
だが、予想に反して、顔を上げた彼女の表情は晴れやかだった。
「ありがとう」
俺は何故だか彼女の笑顔を見ていられなくて、そっと遠くを見る。
窓の向こうでは、まだ沈みゆく太陽の残滓が世界を幻想的に染めていた。
なぜ俺が彼女の提案を受け入れたのか。
その理由は一つだった。
取材だ。
俺は、彼女を通して人生経験の取材ができると思ったんだ。
彼女の誘いは、俺にとってどこか幻想的だった。夕焼けの赤に染め上げられた教室は、現実と非現実の狭間の異界のような空気を醸し出していた。俺は彼女という存在をどこか俯瞰的に捉えた。あるいは、ページの向こう側の存在に感じたと言ってもいい。あの瞬間、俺の自意識は高次的な世界に片足を踏み込んでいたのだ。
いや、言葉を捏ね繰り回すのは止めよう。
要は俺には、彼女が小説の登場人物のように思えたんだ。
小説家になるために小説家のクラスメイトに指導を乞う。それはどこかの青春小説の始まりにでもありそうな筋書きだと、俺は思った。
彼女と部活から得られる体験をもとに小説を書けば、それはリアリスティックで血肉を持ったそれになる様な予感がした。
人生経験こそが、今の俺が最も求めているものだった。
だから、俺はこの誘いを利用しようと思った。
彼女との関係は契約だ。
彼女は俺を小説家として利用するし、俺は彼女を取材の対象として利用する。ギブアンドテイクの割りきった関係。それでいい。その方がいい。
人を信用するのは、もうたくさんだ。
ただ、取材のために、「青春」を過ごそう。
ただ創作の糧にするためだけの「偽りの青春」とでも呼ぶべきものを。
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