第1章 嵐の予兆
第95話
「ただいま」
「おかえりなさい、とあら、望月さん」
玄関へ、パタパタと五十代の女性が駆け寄り、二人に気付く。
「飲み会の方はいいの?」
「いつも飲んだくれる先輩が、用事あって引き上げていったので」
ここで言う飲んだくれる先輩とは、言わずもがな
「そうなのね。あ、望月さん、上がっていく?」
「いえ、もう夜も遅いので、迎えたらすぐに引き上げます」
「あら、残念」
女性が言葉通り残念な顔をするが、
「母さん、あんまり無理いうもんじゃないよ。姐さんだっていつも
と、通津が自分の母親を諭すように言う。
「そうだぞ」
さらに、通津の父親が現れた。その腕には、五歳くらいの男の子を抱えている。
「あら、臨ったら寝ちゃったの?」
「さっきまで『お母さんが来るまで起きてる』って言って頑張ってたんだけどねぇ」
父親が笑う。
望月が、父親の腕から息子を抱き取った。
「夜も遅い。理、送ってやれ」
父親が、通津に言うが、
「いえ、ただでさえ子供を預かってもらっておいて、これ以上迷惑を掛けるわけには……それほど遠くもありませんから、ここで失礼します」
そう言って頭を下げ、息子を抱き抱えて望月が立ち去る。
「本当にいいんですか、姐さん?」
その背に通津が声を掛けるが、
「大丈夫よ。あんたも、ちゃんと親孝行してやりなさいな」
と、望月は堅く辞退してマンションから出ていく。
「別に迷惑でも何でもないんだけどねぇ」
母親が、通津に言う。
「まぁまぁ、母さん」
「むしろ、孫が出来たもんだと思えば、全く苦にもならないよ」
「そうだな。理、お前いい加減身を固めて、早いところ孫の顔を見せてくれよ」
父親が母親に加わって通津に苦言を述べる。
通津は両親からの言葉に、苦笑いを浮かべるしかなかった。
夜の繁華街を、望月は眠った息子を抱えながら歩く。
軍の任務で夫と死別し、息子を一人で育てる決意を固め、日本に来て何の因果か特殊部隊の隊員としてスカウトされた。お金の面で困らなくはなったが、任務に行っている間の息子の処遇が気に掛かっていた。
先程の通津の両親の言葉が頭を過ぎた。
彼らはあくまでも善意で言ってくれている。それは分かっている。だからといって、どこまでも甘えていいものじゃないと望月自身で線引きをしていた。
――一人でちゃんと育てると、決めたはずだけど。
世の中、うまくいかないことの方が多いなぁ、と思っていたときだった。
前から、大学生くらいの男が三人歩いてきていた。その手には、火の点いたタバコがある。
――歩きタバコか。
このとき、望月は自身の手の中にいる息子の安全を第一に考えた。ゆえに、擦れ違う前に大急ぎで離れ、間を開けようとする。
だが、それがまずかった。
その三人は目敏く見つけ、
「おい、何避けてんだ、てめぇ」
と、いきなり望月に突っかかってきた。
どうやら、酒に酔っているらしい。望月の何が癪に触ったのかは分からないが、突如激高し、三人で望月親子を囲む。
「な、何なんですか」
望月は、出来る限り声のトーンを抑え、弱々しく演技した。本来ならこんな素人三人一瞬で片付けられるが、こちらには子供がいる上、自分が特殊部隊という素性を隠さなければならない。それを考えたら、素人相手に腕を振るうのは不味いのだ。
しかし、相手は演技で乗り切れるような人間ではなかった。アルコールで弱った判断力が、望月を与しやすい人間と思い込み、むしろ強気になる。
どうしたものか、と思ったところで、腕の中の臨が目を覚ました。ガラの悪い三人の男達を見て、怯えた目をする。
「なんだぁ、このガキぃ……」
一人がこめかみに青筋を浮かべ、手に持ったタバコを近付けようとする。
望月が制止しようとするが、
「止めな!」
と、別方向から声が掛けられた。
「あぁ?」
「何だ、このアマぁ!」
男達が怒りの声を上げる。
声を掛けたのは、女性だった。褐色気味の肌にアーモンド状の大きい目。七三に分けられた前髪は、着ているスーツと相まって真面目な印象を裏付ける。
「俺達が誰だか分かっているのか?」
男の一人が叫ぶ。
「えぇ」
女は静かに言った。
「名前は分からないけど、この辺りの有名な体育系の大学のラグビー部の方かしら?」
「ほぉ、知ってんじゃねぇか!」
男の一人が得意げになるが、
「つい先日、練習試合で悪質なタックルして相手の選手に大怪我させた。たぶん、悪名なら誰でも知っているでしょうね」
という女の発言に対し、目くじらを立てた。
「てめぇ!」
「この馬鹿女が!」
「痛い目見たいか!」
三人ともに、矛先を望月から乱入者に切り替えた。望月が声を掛ける前に、男達が仕掛ける。
一人目の男が、女の頬を叩いた。肉を打つ音がする。
「……これで、正当防衛成立、ね」
次の瞬間、頬を叩いた男の股間を、女が蹴り上げた。酒で上気していた男の顔が、痛みで一気に青ざめる。
「やろうってのか!」
仲間が股間を押さえてうずくまるのを見て、残りの二人も襲いかかった。
一人が、両腕を伸ばして、女の肩を掴もうとする。
組み伏せる前に、女の左拳が、男の鳩尾に刺さった。一瞬呼吸が止まった男の顎を、女の右拳が捉える。
男の身体が錐揉みしながら路上のゴミ箱に突っ込んだ。
もう一人が、殴りかかるが、そのパンチを女はあっさりとガードする。男がもう一方の手を動かす前に、女の拳が振り上げられ、男の顎を打ち上げた。
アッパーカットを喰らった男が数歩後退し、やがて仰向けに倒れた。背中から倒れ込んだため、後頭部を打っていないか不安になる。
「……大丈夫かな、これ?」
「いや、私に聞かれても」
女に尋ねられて、望月は困惑する。
「もう許さねぇ!」
最初に股間を蹴られた男が、持っていたタバコを捨て、代わりに懐から折り畳みナイフを抜いた。展開し、白刃が街灯の光を反射する。
「あら、スポーツ選手が武器使うの?」
女の言葉に、男は「うるせぇ」と返す。
「これ以上舐められてたま――」
次の瞬間、腕が塞がっていた望月は男の背後から、股間を蹴り上げた。
二度も急所を蹴られた男は、口から泡を吹いて倒れる。
「さすがに凶器攻撃は反則よ」
望月は吐き捨てる。
「助かったわ」
女が、望月に礼を言った。
「いいえ。むしろ、貴女が助けてくれなかったらどうなっていたか……ほら臨、お礼を言いなさい」
「ありがとう、お姉ちゃん」
望月親子が礼を言うと、女は「気にしないで」と胸の前で手を振る。
「しかし、日本も喫煙マナーがなってないわねぇ、堂々と歩きタバコなんて」
そう言い、女は倒れている男の一人から、目敏く携帯灰皿を見つけると、男達の持っていたタバコを全て消して携帯灰皿内に突っ込む。
「真面目ね」
「危ないから」
そう言って片付け終わった灰皿を気絶した男達の上に放った。
「そう言えば、大丈夫?」
「何がですか?」
「頬。最初、叩かれたじゃない」
「あぁ、そういえば、そうね。すっかり忘れてたわ」
女はコンパクトを取り出し、鏡で自分の頬を確認し、
「赤くはなってるけど、痛くはないし、腫れてもない。問題ないわ」
と、結論付けた。
「それじゃ、あぁいう輩がまだいるとも限らないし、気を付けてくださいね」
「えぇ。本当にありがとう」
女は臨の頭を撫で、「じゃあね」と一声掛けて去っていった。
「じゃ、私達も帰ろっか、臨」
そう言い、望月も息子とともに帰路につく。
歩きながら、先程助けてくれた女について考えていた。
――只者ではない。
最初、男が女の頬を殴った際、酔った勢いで全く力加減など出来ていなかったはずだ。
なのに、あの程度で済んでいたということは、叩かれた瞬間、その衝撃を逃がすように受けていたということだ。
そのような技術を持つ人間だったら、むしろあっさり回避出来るものだろう。あの女は正当防衛を成立させるために、わざと一撃喰らったという事になる。
――何より。
あの女の懐の膨らみ具合――スーツの下に拳銃を隠し持っていた。
今回、飲み会だったから自分は銃を持っていなかったが、却ってよい結果だったと思う。
――あの女の正体は分からない。
――だが、息子がいる場での殺し合いにならなかったことは、幸運だろう。
望月は、そう思った。
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