第4話

 ――あの日、真智まち彩佳さやかと一緒に昼食を摂った後、彼女を職場に送り届けた。

 会社の前で別れた時も、彼女は笑っていた。

 そして、それが真智の見た彼女の最後の顔となった。



「彼、人をねたんです」

 真智の意識は、その言葉で現実に引き戻された。

 女性は、沈鬱ちんうつな表情で続ける。

「十月のことです。当時はニュースでも大きく取り上げられたから、貴方も知っているとは思いますが……」

 女の言葉が真智の耳に入っては通り抜けていく。

 知っている、などと一言で片付くようなことではない。真智はその事件の当事者だったのだ。

「警察が言うには……彼は――鉄也てつやは、一人の女性を交通事故で死なせて……そこには、その方の婚約者がいて……その人は刑事で、拳銃を持っていて……」

 女の語りは、真智にとっても忌わしいあの事件の核心へと迫っていくに連れ、弱まっていく。

 真智は、止めろ、と胸の内で思う。

 だが、口に出せなかった。そんなことをすれば、己の罪から逃げているのと同じになってしまうのではないか――そんな脅迫概念が、思い留まらせたのだ。

「鉄也は……逆上したその婚約者の方に、射殺された、と」

 ついに、彼女の目から涙が溢れた。

 真智は動かなかった口をなんとか開き、

「……貴女にとって、その……鉄也さんは、どういう人だったんだ?」

 と、思わず聞いてしまった。そして、自分は何を言っているのか、と思い返した。

 こうして彼女が墓参りに来て――涙を流している以上、彼女にとって、彼は大切な人であったことは間違いないではないか。

 慌てて今の問いをなしにしようとするが、彼女の方が早かった。

「……将来を誓い合った仲でした」

 今度こそ、真智の全身は凍りついた。

 真智は思い返した。

 鉄格子に隔てられた個室に入れられた後、殺した男のことを振り返り、己の罪を自覚している気でいた。

 しかし、その男の死に涙する人間のことは全く頭に浮かばず、ただ牢の中でその身を固くし、無気力にその日その日を過ごし続けた。

 今、目の前で涙を流している女を見るまで、自分が彩佳さやかの死を悲しんだように、彼の死をいたむものがいることを完全に失念していた。

 ――自分は何と愚かだったのだろうか。

 不意に、今立っている地面がグニャリと歪んだ気がした。そのまま、地の底に引きずられていくような錯覚。まるで、この地に眠る死者達に、あるのかどうかも分らない冥府へいざなわれるような――

「あ、ご、ごめんなさい……初めて会った人に、こんな……」

「――いか?」

「え?」

 ふと真智の口から言葉が漏れたが、ちゃんと聞こえてなかったらしく、女性は聞き返してきた。

 迷った末、今度は女性に聞こえる音量で真智は問う。

「憎いか? 貴女の……大切な人を殺した……その男のことが」

 彼女は絶句し、真智を見つめる。その視線に耐えられず、真智は眼を逸らした。

 ――自分は本当の大馬鹿野郎だ。そんな当たり前のことを聞いてどうするというのだ。

 さらに真智が自分を責めていると、彼女の口からは予想もしなかった答えが返ってきた。

「今朝、その人は処刑されたそうです」

 真智の胸に、小さなうずきが生まれる。

 ――違う。死んではいない。貴女の大切な人を奪った男は、今も目の前にいる……

 今、この事実を彼女に伝えるべきだろうか? だが、伝えてどうしようというのか? 憎めと? それとも、逆に許しを請うのか? いずれにしろ、彼女を傷つける結果になるだけではないのか……

 真智の迷いを知ってか知らずか、彼女は続ける。

「今日、ここに来たのも、そのことを鉄也てつやに報告するためでした……」

 そう言い、彼女は膝を抱え、一心不乱に墓石を見つめる。

 どれほどの時間が経っただろうか。

 彼女が再び立ち上がる。

「……質問への答えがまだでしたね」

 彼女は、真智に向き合う。

「私は……その人を恨んでいました」

 真智の胸の奥が痛む。

「確かに、鉄也はひどいことをしました。それでも、何故捕まえずに殺したの、と……何度も何度も思いました」

 女は顔を伏せた。

 真智は口を開こうとするが、何を言っていいのか分からず、口籠ってしまう。

 彼女を傷つけたのは自分だ。

 なら、自分に何が言えるのか。

 後ろめたい思いで立ち尽くしていると、女が顔を上げた。

「ですが、貴方に改めて聞かれて……思ったんです。もうその人は死んでしまった……自分が恨んだ人間は、この世にはいないと……そんなことを考えたら、虚しかった」

 真智は気付いた。

 彼女の顔に先程までの陰りがなかったことに。

「私はどうすればいいのか、どうしたいのか……それは分りませんが、死んだ人を恨むことは、意味のないことのように思います。だから――」

「――強いな、君は」

「え?」

 真智の言葉に虚を突かれたか、女は目を丸くした。

「いや、なんというか……ちょっと自分が情けなく思えてな……」

「い、いえ……貴方のおかげです。貴方が聞いてくれなかったら、このことを考えることもなかったと思います。ありがとうございます」

 そう言い、女は微笑む。

 その笑顔に、真智は不覚にも目を奪われてしまった。

 かつて、彩佳が生きていた時、彼女は自分の隣で笑っていたが、それとは違う魅力があるように感じた。

 だが、幸か不幸か、見とれている時間は長くなかった。

 真智の胸に伝わるバイブレーションが、支給された携帯電話が鳴っていることを知らせてくる。

 腕時計で時間を確かめてみれば、もうすぐ待ち合わせの時刻だった。

「すまないが、この後用事があったんだ。俺はこの辺で失礼させてもらう」

「そうですか……あの!」

 踵を返しかけた真智を女が呼び止める。

「私は、渥美あつみひとみと申します……貴方のお名前は?」

「俺か? 俺は……」

 ここで、渡された証明書などに書かれていた今の自分の名前・・・・・・・を思い出す。

 ――そう、真智まちあきらという男は死んだ。死人は存在してはならない……

まこと……明智あけちまこと、それが俺の名だ……それじゃ、これで」

 そう言い残し、女に背を向け、墓地から離れて行く。


 ――このとき、真智まちあきらという男は、死んだ。

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