第2章 罪過の墓標

第3話

 北からの風が、コートの裾をなびかせながら吹き去っていく。

 目深まぶかにかぶったソフト帽が飛ばされないように手で押さえ、男は歩く。

 その腕に白い花束を抱いて。

「放してください!」

 静寂を保っていた墓地に悲鳴が上がった。

 見れば、墓地の一角で、男が二人がかりで、一人の女性を囲んでいる。

 最初「こんな場所でナンパとは不謹慎な」と思ったものの、男達の方は、職業柄よく見た人間だった。

渥美あつみさん、困るんですよ、いい加減払ってもらわないと」

「いい加減にしてもらいたいのはこっちです! 私が借りたわけじゃないと、言ってるじゃないですか!」

「何を言ってるんですか? 借りたのは、貴女の恋人なんでしょ? 死んだ恋人の借金を返すのも恋人の務め、でしょ?」

 男どもの方は、たちの悪い金貸しの一種であることが会話から察せられた。

「面倒だ、事務所連れて行くぞ!」

「へい!」

 どうやら、男達は強行手段に出るつもりのようだ。

 情けない話ではあるが、真智は彼らに関わろうという気は無かった。というのも、先程の忠告があったからだ。

 自分は本来ならこの世に存在しない。

 今頃は、目の前に広がる墓石の下にいるはずだった存在。

 だからこそ、世間に出来る限り関わりを持つべきではない。

 そんな思いが、誘導するように足を別の方向に動かそうとしていたが――

 男に手を掴まれ、その顔を恐怖に染めた女が視界の端に留まった瞬間――

 自分の心の奥底で何かがカッと燃え滾(たぎ)るのを感じた。


 それは、元警察官としての義憤か。


 それとも、人を死なせたことに対する罪悪感と後悔か。


 いずれにせよ、分かることは一つ――自分が、怒りを感じているということだ。

 あの事件で、鉄格子の中に閉じ込められると同時に、心の奥底に押し込めていた感情が、自分の身体を突き動かす。

「その手を放せ」

 男達が振り向いた。

「あぁ? 何だてめぇは!」

「俺達が誰か分かってんのか?」

 恐ろしい形相で凄む男達ではあったものの、それぐらいでは引き下がらない程度には、真智も場数を踏んではいるつもりだ。

「少なくとも、俺の知り合いにお前らみたいなガラの悪い奴はいないな」

 首を傾げ、軽く挑発してやると、一人が、

「嘗めてんのか、てめぇ!」

 と、殴りかかってきた。

 真智は相手の拳に速度が乗る前に、相手の手首を右手で掴み、捻り上げる。

 男が痛みに悲鳴を上げた。

「て、てめぇ、兄貴に何しやがる!」

 女を捕まえていた方も加勢しようとした。

 真智は左手の花束を捨て、同じようにもう一人の腕を捻り上げた。

 そして、百八十度位置が入れ替わるように回り込み、二人を投げ捨てる。それによって、ちょうど女が真智にかばわれる形になった。

「この野郎、もう許さねぇ!」

 兄貴分が立ち上がり、懐から合口ドスを抜いた。

 いきなりの行動に、一瞬真智の動作が遅れる。

 真智のかぶっているソフト帽のつば・・に切っ先が当たり、帽子が頭から飛んだ。

 背後で女が悲鳴を上げる。

 そのまま、相手は合口を振り下ろそうとするが、その前に、真智は拳を突き出した。

 正拳突きが男のあごを捉え、男が吹っ飛んだ。

 男は地面に叩きつけられ、気を失う。

 弟分はそれを呆然と見ていた。

「まだやるか?

 ここは墓だから、埋められるのが一人二人増えたって困らないと思うが?」

 男が後ずさった。

 その目からは、先程までの戦意が感じられない。

「そこの寝てる男を連れて失せろ。そして、次からは場所ってものをわきまえるんだな」

「お、覚えてやがれ!」

 彼らのような人種特有の捨て台詞を残し、男は気絶しているもう一人の男を抱えて走って行った。

 真智が一息き、振り向く。

 すると、件の女性が落ちていた帽子を拾い、

「危ないところを、ありがとうございました」

 と、帽子を差し出した。

 真智は帽子を受け取り、つばの一部が切り裂かれているのに気付く。

 ――初日から支給品に傷を付けたか……

 思わず顔をしかめると、女性はそれをどう捉えたのか、

「あの、ひょっとしてお気に入りのものでしたか? それに、見たところ新品のようですが……」

 と、心配そうに声を掛けてきた。

 真智は努めて笑顔を作り、

「いや、そういうわけじゃ……それよりも、貴女の方は? 怪我などしてませんか?」

「いえ、私の方は大丈夫……です」

 女性の方は、未だ帽子のことを気にしているのか、申し訳なさそうに目を伏せた。

 真智は帽子を被り直し、落ちていた花束を拾うと、

「先程の連中がその辺りをうろついているかもしれません。気を付けて」

 と、まだ何か言いたそうな女性に背を向け、再び墓地へ向け歩き出した。


 真智は憮然としていた。

 まさかとは思っていたが、彼女の親戚達は形ばかりの墓を建て、それっきりの状態だったようだ。薄汚れた墓石と枯れ果てた状態で添えられた花がそれを物語っている。

 真智は持ってきた花と替え、桶にんでおいた水で墓石の汚れを取る。

 ようやく、墓石に刻まれた名前がはっきりと見えるようになった。

 村雨むらさめ彩佳さやか――真智の婚約者だった女の名だ。

 彼女は、去年十月の交通事故でこの世を去った。

 彼女の死は、連行された刑務所で聞いた。

 彼女の葬式が行われたとき、自分は判決を待っていた。

 涙は流れない。彼女のために流す涙は、拘置所の中ですでに枯らした。

 真智は線香に火を点けようとしたところで、ライターやマッチのたぐいを持っていないことに気付く。

「使いますか?」

 背後から声が掛けられた。

 振り返ると、まず目に着いたのが、細い指に握られたライターだった。さらに、黒い長髪が風になびいている。

 墨色の細い眉の下には、大きいものの、柔和そうな眼がこちらを見つめている。

 真智は声の主が、先程助けた女性であることに気付いた。

 真智は一瞬戸惑うが、結局好意に甘えることにした。

 ライターを受け取り、線香に点火し供える。目を閉じ、合掌した。

 それから、どれ程の時が経っただろうか。

 真智が眼を開けると、件の女性も墓前に手を合わせていた。

 彼女の意外な行動に虚を突かれて見ていると、

「ご迷惑でしたか?」

 こちらの視線に気付いたか、女性が首を傾げる。

「いや、むしろあいつも喜んでくれてると思う……ありがとな」

 真智は礼を言いながら、ライターを返した。

 女性は墓石を見つめながら、

「随分と長い間手を合わせてましたが、大切な方だったのですか?」

 と尋ねてきた。

 何と答えようか一瞬迷ったものの、真智は正直に答えることにした。

「そうだな……大切……だったな」

 真智は目を細める。

 脳裏には彼女と過ごした日々がよぎっては消えていく。

 ――彩佳と出会ったのは、小学校の頃だった。

 早くに両親を亡くした自分は、祖父母に引き取られ、その頃には剣道を祖父から教わっていた。

 クラスメイトや上級生の中にも、剣道教室で祖父から学んでいた者が何人かいた。彼らにしてみれば、自分の存在はかなり鬱陶うっとうしかったのだろう――自分は、いつも陰湿ないじめを受けていた。

 だが、その矛先が一時的に変わった時期があった。

 彩佳が転校してきたときだ。

 当初の彼女は常に暗い表情を浮かべ、クラスの中で孤立していた――後から聞いた話だと、当時の彼女は事故で両親を亡くし、親戚に引き取られたばかりだった。

 あまり喋ろうとしないものだから、周りから無視されていた彼女に連中は目を付け、自分が受けた程ではないが、散々嫌がらせをしていた。

 その結果、自分に対して特に何もしてこなくなったものの、何人もの男子が女子を囲んでからかう様子は、情けなさを感じさせると同時に、怒りを沸かせるのに十分だった。

 あるとき、その光景を見ることに耐えられなくなった自分は、ついに連中に自ら盾突いた。そして止めようとしなかった奴らに堪忍袋の緒を切らした自分は彼らを相手に大立ち回りをした。

 結局のところ、多勢に無勢で袋叩きにされたものの、それ以後、彩佳は自分に対しては笑顔を見せるようになった――

「あの……」

 控え目な声が、自分を現実に呼び覚ました。

 何事かと女性の方へ向けば、女性の手にはライターの代わりにハンカチが握られている。

「これ、使ってください」

 彼女の意図するところを察し、手を顔に持っていくと、いつの間にか頬が濡れていた。

「あれ、おかしいな……泣くつもりは、なかったのに……」

 真智の口から掠(かす)れた声が漏れた。

「大切な人だったんですね」

「……まぁな」

 真智は乱暴に涙をぬぐう。何とか口を笑みの形に持っていこうとするが、自分が笑えているか、怪しいものだ。

 思えば、あの頃から自分の隣には彩佳がいて、いつも笑っていた。

 しかし、彼女はもういない。あの笑顔を見れる日は二度と来ない。

 頭では分かっていたはずの事実を改めて認識したことで、一抹の寂しさを、悲しみを感じたのだろうか。

 真智は瞼を閉じる。

 ――死んでいるはずの自分がここにいることを、彼女は恨んでいるだろうか?

 だが、記憶の底から呼び覚ました彼女の顔は微かに微笑んでいるように見えた。

 真智が再び目を開けると、案じ顔で見ている女性に笑みを向ける。

「悪いな、初めて会ったばかりなのに、迷惑かけちゃって」

「いいえ、迷惑だなんて……それでは、私も墓参りに来たので、ここで失礼しますね」

「そっか」

 ここで、この女性が先程彩佳の墓前に手を合わせてくれていたことを思い出し、

「これも何かの縁だ。俺も手を合わさせてもらってもいいかな?」

「え……」

 女性は目を見開き、何かを言いかけたものの、思い直したように首を横に振り、

「そうですね。拒む理由もありませんし」


 真智は愕然としていた。

 女性に付き添い、移動した先の墓には一人の男の名が刻まれている。

 おき鉄也てつや――それは、真智が殺した男の名前だった。

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