PhaseⅠ act1-9
中華人民共和国安徽省安慶市
安慶天柱山空港
July 24.2024
中国国内線の民間空港でもある安慶空港は東部戦区空軍の安慶空軍基地と共用の官民共用空港だ。この安慶空軍基地は中国人民解放軍空軍が運用する第五世代ステルス戦闘機である殲撃20型――J-20Aが配備されていることで有名だった。
その安慶空軍基地では今月より訓練が開始され、周辺の民間用地の収用が行われ、軍の施設の建築が開始されていた。通信施設や物資集積所等、さらに基地機能を拡充させる物で、訓練と称してはいるが、恒常的な設備になり得るものだった。
台湾への圧力を強める中国共産党はこのように東シナ海沿岸地域を中心とした陸海空軍の施設の増強を行っており、台湾方面における大規模な訓練を繰り返していた。
この安慶空軍基地に新たに建設された密閉式の強化堡塁型格納庫には双発・双胴・双垂直尾翼のロシア製大型制空戦闘機Su-35SKフランカーが駐機されていた。機体の周囲では整備兵が離陸前の点検を行っている。
グレーとスカイブルーの斑な迷彩が施されたフランカーの垂直尾翼には狼の部隊章が描かれている。その機体の傍を細身の長身の男が歩いていた。
彼はフライトスーツの上から装具を身に付け、フランカーの目視点検を続けていた。機首の左側から始め、機首の前を回って右側へ行く。次に右エンジンのエアインテークを覗き込んで、AL-41F1S(117S)ターボ・ファン・エンジンのブレードに亀裂が無いか、そして空気の通路に異物が無いかを確認した。
男は柔らかい髪質の黒髪を短く切りそろえ、オールバックにしていた。顔は瓜実顔の中世的な顔立ちで、色白で鼻筋が通っていた。油断ない鋭い目つきの精悍な表情をしている。
その男、朱剣英は中国人民解放軍空軍の少校(少佐)だった。第2戦闘機師団隷下のSu-35SKフランカーを運用する第6連隊に所属しており、本来安慶空軍基地ではなく広東省の遂渓空軍基地に配属されていた。
朱は機体の各部を慈しむように点検していった。何度経験しても、フランカーで飛ぶたびに新鮮な驚きと、そして史上最強の戦闘機を駆るパイロットであることに誇りを感じていた。
フランカー自体は一九八〇年代に登場した戦闘機である。
新型防空戦闘機たるフランカーの開発に当たっては、従来の「高速性能」「航続能力」「長射程対空兵装の運用能力」「多弾数搭載能力」に加えて「敵戦闘機と充分な機動戦闘が行える空中機動性能」が求められることとなった。このソ連防空軍の要求に基づいて、スホーイ設計局に設計開発が命じられた。
Su-27の最大の特徴は高い機動性であり、機動性の高さを示す例としてはコブラがよく話題にあがる。コブラは水平飛行しているところからさほど高度を変えることなく急激に機首を上げ失速寸前まで速度を落とす機動であり、一九八九年のパリ航空ショーで初めて西側諸国の前で披露し注目を浴びた。
発展型であるSu-27Mでは旋回中にコブラを行うコブラターンまたはフックと呼ばれる機動を行うことが可能であった。
朱は整備を行いながら昨日行われていた作戦会議のことを思い出し、顔を歪めた。
南部戦区空軍に所属する第6連隊だが、現在は東部戦区空軍に暫定的に編入されている。東部戦区は主に日本、そして台湾に対処する統合作戦軍区だ。司令部の空気は朱が入った時から異様な熱気に包まれ、指揮官達は戦意を漲らせていた。朱はそれを嫌な兆候だと感じた。
会議室に揃っているのは各連隊(飛行隊)の連隊長と数名の指揮官クラスのパイロットで広い会議室だったが、総勢三十名以上が参加していた。
政治将校の楊大校が作戦の概要を説明するためにスクリーンの前に立った。楊の顔は自信に満ち、集まったパイロット達を見渡して満足げな表情だった。
「現在、東部戦区は対台湾の打撃訓練を遂行中なのは承知の通りだ」
東部戦区のみならず南部戦区と北部戦区の一部も加わって対台湾を想定した大規模軍事演習が現在継続的に行われている。具体的には台湾への上陸作戦や空挺作戦、それに並行して行われる空爆や対水上作戦であり、陸海空軍による統合作戦が進められていた。
「この演習は来週終わり、同規模の演習が来月実施される予定だ。想定は対日戦。日帝の武力攻撃から人民を保護し、我が国の主権を守るため、日帝が不当に実行支配している東海(東シナ海)の島嶼部を確保する想定だ。目標は釣魚諸島(尖閣諸島)・八重山列島・宮古列島の確保。そして日本海軍空母機動部隊と日本軍の沖縄及び九州の反抗戦力の撃破。我が安慶空軍基地は日本海軍の空母機動部隊撃破を担う」
スクリーンは全体の時程スケジュールなどのいくつかのスライドを経て東シナ海周辺地図へと切り替わった。
「編成は第6連隊、第41連隊の制空隊、第7連隊、第84連隊の攻撃隊。そして海軍航空隊。今週以降はこの作戦に基づいた訓練を実施する。各連隊の連携訓練は重要だ」
楊は熱を帯びた言葉で語る。大げさな訓練だと朱はため息を禁じえなかった。
この基地には各連隊が集約されているだけでなく、武器や弾薬、様々な装備が集められている。訓練には必要のない規模の長期的な運用を見据えた施設の増築、土地の収用。台湾の分離主義者を牽制するため大規模な訓練が望まれていることは理解していたが、それにしても実戦的というよりも資本主義的な浪費のように思えてならなかった。
訓練の内容も相当なものだ。実弾を使用した実戦的な訓練が多数含まれた過密スケジュールで、数年分のミサイルを消費することになる。
Su-35SKの機体を撫でてこの基地に漂う空気から自身の意識を締め出そうとしていた朱だったが、轟炸H-6K爆撃機が二機、離陸していく爆音を聞いて溜息を吐いた。
つい先日、H-6K爆撃機は日本の沖縄本島上空を通過し、嘉手納基地の空撮を試みたばかりだ。
「極東情勢を無駄に刺激しかねないな」
朱の呟きを、僚機を務める林中尉が聞いていた。
「しかし美(米)日共に我が国に責任を押し付けすぎていませんか」
美国(米国)の中国への圧力や台湾への兵器供与は中米の貿易戦争を背景とするものもあり、それは朱も否定しない。
「美国は我が国をいつでも攻撃できる状態でないと納得しないように思います。我が国は成長を続け、空母艦隊も持ち、世界有数の軍事力を誇りますが、未だに美国には及びません。自国を守り切るために必要な手段を講じることへの批判は受け流さなくては」
「グローバル経済化の時代だ。国際世論は大事だよ」
南シナ海の南沙諸島、西沙諸島の軍事拠点化。そして釣魚諸島(尖閣諸島)を巡る日本との対立。台湾への圧力。未だに自由主義陣営と資本主義経済の中心は米国であり、その米国の視点では中国が強硬な姿勢で現状変更を試みている事になる。
「国際協調なんてもので国が守れた試しがありますか」
林の言葉は、先のウクライナ情勢を指摘している。ロシアによるウクライナに対する軍事侵攻は、グローバル経済も国際秩序もまるで無視されて行われた。中国もこのロシアの動きに対し、米欧を中心とする国際社会の立場から距離を置いた姿勢を取り、国際的な孤立をより一層深めている。
「近所の隣人とトラブルが多いよりは笑顔で挨拶できた方が良いんじゃないか」
朱は力の入った林の主張に、静かに答えた。
「こちらが笑顔で挨拶しようとしても銃を持って威嚇してきているんですよ」
林は納得いかない様子だった。
「銃を持っている人間には特に自制が求められるな」
朱はわざと論点をずらした返事をして誤魔化すと緊張した様子で敬礼する整備兵に答礼して微笑んだ。
「では、行ってくるよ」
朱は政治的な問題には関心は持たないようにしていた。共産党の軍である以上、人民解放軍は政軍分離とは程遠い存在だが、朱はパイロットであることに人生を費やしていた。純粋に空と戦闘機を愛していた。
日本国東京都永田町
総理大臣官邸
July 24.2024
各国の政府の長の執務の拠点である官邸は、米国ではホワイトハウス、ロシアではクレムリン、中国では中南海などの名称が有名ではあるが、日本はただ単に総理大臣官邸と呼称され、欧文公称もKanteiである。
日本の政治中枢である東京千代田区の永田町に存在しており、総理大臣公邸と隣接していた。高さ五メートルのコンクリートの壁に囲まれた地上五階建ての鉄骨鉄筋コンクリートの建築物は一国の官邸にしてはシンプルで非常に慎ましい様相ではあるが、その機能は優秀なスタッフ達も相まって非常に優れている。
その官邸の上層階の総理大臣執務室には
「今月中旬より開始された中国軍による大規模軍事演習は現在も続いています。防衛省としては警戒を継続中で、情報本部は台湾の国防当局とも水面下で情報交換を行いつつその動向を注視しています」
淡々とした口調で木村防衛事務次官が報告する。防衛事務次官は防衛省の背広組――いわゆる事務方のトップである。
「その中で現在例年の訓練には無い複数の特異事項が確認されています」
大型のプラズマモニターが表示する画像には注記された衛星写真が複数枚表示される。タイトルは「特異的軍事活動」となっている。
画像の中に映るのは耕作地帯の中央付近に太い舗装された道路が横切り、その中央で新たに整地された地域に車両が整然と並べられ、大きな倉庫がいくつも並んだものや、真新しい飛行場、それにシェルター等だ。
「これらはこの演習前から整備が始まった軍事施設です。相当数の弾薬、燃料、装備、医療品の集積や部隊編成、配置の変更などが行われています」
再び別の画像が表示される。二隻の空母を中心に大きく間隔を開けた中国海軍の艦隊だ。
「太平洋から東シナ海に行き来した中国海軍の艦隊です。東シナ海から太平洋へ進出した際には含まれていない艦艇が南シナ海側の南部戦区海軍部隊より合流し、東シナ海へ再び戻った際には増強されています」
木村は反応を伺うように一度黙って大臣たちの顔を見渡した。平静を装っているが、木村は反応の薄い閣僚たちの様子に焦っていた。
「報道されているデモンストレーション的な演習に関係なく、一連の中国側の動きは通常の訓練ではなく、非常に高度な実戦的訓練となっており、実質的には中国軍は直ちに戦闘行動へ移行することが可能な状態です」
木村の言葉を聞いても大河原の表情は変わらない。渡良瀬は防衛大臣の
前高嶋政権は周辺事態に際し、自衛隊初の防衛出動を発令し、自衛隊による武力行使により侵害の排除を行った。その後の屋久島政権は超タカ派政権と言われ、保守派が政権中枢を占め、防衛費を増大して一挙に自衛隊の増強と法改正を進めた。しかしながら大規模災害や新型感染症の流行等で経済的ダメージが大きく支持率は大きく下落。その後任となった大河原政権はどちらかといえば穏健派が多く、経済復興等に注力していた。
新型感染症にウクライナへのロシアの軍事侵攻、異常気象を起因とする災害等、日本経済は大きく傷つき、GDP成長率は年々下がっており、経済格差は広まる一方だ。社会問題は山積みであり、大河原は内政問題の解決に昼夜を追われており、就任以来顔は老け込んでいた。
「情報本部は重要影響事態、両国間の軍事衝突が起こる可能性が高いと分析しています」
梶本が重い腰を上げる様に言った。重要影響事態とは、かつて日本周辺の地域における日本の平和及び安全に重要な影響を与える周辺事態から日本周辺という地理的制約が削られ、ホルムズ海峡等の日本のエネルギー安全保障の生命線への脅威への対処も含まれている。
重要影響事態に際しては「重要影響事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律」上、放置すれば日本に脅威をもたらす場合、自衛隊による作戦行動を展開することが可能となっている。
「軍事衝突だって?」
ようやく目覚めたように大河原が聞き返す。
「はい。両国の戦闘機がすでに小競り合いに近い状況に陥ったことも数件確認しています」
「もし軍事衝突が起きた場合の我が国に及ぼす影響は?」
大河原は経済産業大臣の倉林を見る。
「以前のNSCでの検証でもあった通り——」倉林は敢えてすでに議論済みだということに念を押してから話し出した。
「台湾海峡を航行する船舶や付近を飛行する航空機はその行動が制限されます。事態がエスカレーションすれば台湾の在外邦人の保護、そして日本の在日米軍が台湾防衛などに対処するため、我が国は必然的にこの軍事衝突に巻き込まれるでしょう」
倉林はそこまで言ってから梶本に目配せする。
「緊急対処事態、存立危機事態、武力攻撃事態へと発展すれば防衛出動を下令し、直接的な軍事支援が出来ますが、重要影響事態に際して可能なオプションは、在日米軍への後方支援です」
「経済的損失どころじゃないな。また戦争か」
「総理、ここは外交ルートを使って呼びかけてみてはいかがでしょうか」
渡良瀬が聞くと外務大臣の稲村が頷いた。
「政府として中国、台湾両政府に軍事衝突への懸念を表明すると共に、閣僚級会談を開いて事態の収束に向けた提案を行いたいと外務省は考えています。また国連安保理でも中国を孤立させ、追い詰めることが無いよう両国の折衷案を模索する形で緊張の収束を図ります」
「まあ、そうなるだろうな。善は急げだ。なるべく早くかかってもらいたい」
「分かりました」
稲村が頭を下げて渡良瀬を見る。渡良瀬も頷き返した。
「当然、そうなると自衛隊の行動についてもあちらさんは指摘してくると思うから、防衛省は余計な波紋を起こすような真似は絶対に控えてくださいよ」
大河原の言葉に梶本は「重ねて徹底させます」と答える。
「総理。波紋を起こすような真似とは?」
渡良瀬は敢えて大河原に聞く。
「あっちの国の飛行機が次々飛んでくるのは分かってるけど、射撃したり、間違っても撃ち落さないでもらいたいということだ。沖縄ではこれに便乗してデモも活発化している」
「総理、先日領空を侵犯した爆撃機に対して行われた警告射撃は法的にも合規適性なものです。中国機が敵対行動を取らない限り、撃墜はあり得ません」
梶本は大河原の言葉に語気を強めて言った。
「分かりました。よろしく頼みますよ。野党からは航空護衛艦の存在意義を問われていますが、それを重く見て強硬な対応をとる必要はありませんから」
現在野党は空母型護衛艦導入の経緯として過去に領空侵犯を許した事件を教訓に南西方面の防空体制の強化を目的としていた事も含め、警告射撃事件の件を追求する構えだった。この国では被疑者よりもまず身内への追及や批難が始まる。
「しかしながら中国の動きは明らかに侵略の準備です。我が国もそれなりの準備をしなくてはなりません」
渡良瀬が言うと大河原は目を光らせた。
「我が国も中国も経済大国なんですよ?中国も共産主義国ではない。もう立派な資本主義経済の一員だ」
「その上でロシアの蛮行です。そして中国は南シナ海での軍事的な現状変更や我が国の領土に主権を主張するなど領土的野心は絶えず、覇権主義国家であることは変わりはありません。万が一に備えなくてはなりません」
渡良瀬は隙を与えずに梶本、そして統合幕僚長を見た。航空自衛隊の制服に身を包んだ松原統合幕僚長が立ち上がる。
「自衛隊の現在の状況をご確認ください」
スクリーンに表示されたのは南西諸島の自衛隊の配備状況だ。
「与那国島、石垣島、宮古島、沖縄本島、奄美大島。これらを結んだ線は中国が対米戦の際に防衛ラインとして確保することを計画している第一列島線と呼ばれる地域です。平時の配置状態は周辺諸国への配慮から非常に少ない状態にあります」
その言葉に添うようにスクリーンではそれぞれの駐屯地の人員や配備部隊が表示される。
「中国が実施している大規模軍事演習では弾道ミサイルの発射等も行われています。一部はこの第一列島線の上空を越える物や我が国の排他的経済水域内に着弾する物もあり、ペトリオットPAC-3迎撃ミサイルを与那国島及び石垣島へ配備するための訓練を現在計画中です」
「そうしたことに中国が反発するんじゃないのかね」
「PAC-3の配備はあくまでこの緊張事態が緩和されるまでの一時的なもので、訓練扱いとします」
「分かりました。しかし大規模な訓練にはしないでください。すでに島民を十分に刺激している。よろしく頼みますよ」
「お言葉ですが」
梶本が腰を上げる。
「現在発生しているデモについては公安調査庁が調査を進めていますが、その後援団体等は中国関係機関と見られ、組織的な反政府活動で、擾乱や政治工作が目的と断定しています。防衛省は近隣住民との関係については機微に対応していることをお忘れなく」
梶本の言葉には、かつての省の失態があった。地上配備型防空システムであるイージスアショア導入を巡って地元住民に対する対応に多数の不備があり、政府肝入りの防空システム導入が結局頓挫するという問題を防衛省は起こしている。一度高まった防衛省への期待や信頼に頼った傲慢かつ杜撰な対応で、失墜した信用を取り戻すのには時間を要した。
「その件については了承しています。しかしそうした活動を行える土壌を作っているという事実は変わりませんからね。マスコミもこれに便乗している現状です」
小塚総務大臣が総理に意見した梶本を牽制する形で言った。マスコミは今、政府に対して批判的な論調で世論を形成している。それは主に日本側の対応が台湾を含めた極東情勢の緊張を煽っているという内容で、世論調査での政府支持率が下がっているような印象を世論にもたらしている。
「しかしこれは良くない状況だ」
渡良瀬が口を挟む。
「政府批判を緩和するためにも、現場の対応を事細かに国民に説明する必要がある。会見での内容ももっと分かりやすい原稿にまとめていかなくてはならないな」
「マスコミはどうせ報道しない自由を行使して、ろくに政府の説明を公共の電波に流しませんよ」
小塚は諦観したように言う。その電波を所管する総務省の長としての小塚の姿勢に渡良瀬は若干眉根を細めた。
「……総理会見の時間を取ろう。緊急の会見として極東情勢の見通しについて国民に説明する」
大河原は気乗りしていないという態度を隠さずそう言って議論を諫めた。
会議を終え、渡良瀬は梶本と共にエレベーターに向かった。
「実際、どうなんだ。空母をさらに尖閣諸島に近づけて警戒に当たらせるとかは実施していないのか」
「
建前を気にする梶本は溜息を吐きそうな顔でそう言うと続けた。
「相変わらず宮古島の沖合、太平洋側が精いっぱいですよ。まあ、これでも嘉手納から対応するよりはだいぶ即応能力は高まっているんですが、現場は不満でしょうね」
「しかし軍事衝突となるとヤバいんじゃないのか。防衛省はどこまでの規模になると予想している?」
「ここだけの話です。防衛省は中国の目標が台湾であることは想定していません」
「なんだって」
「中国が台湾を侵攻するには台湾よりもまず米国の軍事介入に備えなければなりませんから。第一列島線を確保し、台湾を攻略する。中国はその二正面作戦を同時に実行できるだけの軍備を持っています」
「中国が第一列島線の確保を画策しているという確信があるのか」
「ありません。我が国の情報収集能力は限られていますし、中国の出方は滅茶苦茶ですからね。そんな不確定な推測を行うには時期尚早だと背広組は反対しています」
梶本は肩を竦める。梶本は現場の制服組(自衛官)の意見を重視するので、木村防衛事務次官には苦い顔をされることが多かった。防衛省の背広組(内局官僚)が制服組より優位としてきた防衛省設置法が二〇一五年に改正され、両者は今、対等となっている。防衛大臣を、政策面は防衛事務次官以下背広組が、軍事面を統合幕僚長以下制服組が補佐していた。
「特異事項がいくつかあるといっても中国軍が編成を大きく改変してからの大規模演習です。中国にとっては独立機運を高める台湾への牽制と新体制の節目の政治的要素が強いです。ここに我が国が過剰な反応をすればそれは攻撃材料になるだけですからね。航空護衛艦を前方展開させてバリアーを張っておきたいのが正直なところですが」
「外交はバランスなんだ。中国みたいにナイフをちらつかせて恫喝することは日本には出来ないし、平和国家にはあるまじきことだ」
「武装平和としての均衡は崩れているんです。中国の年間軍事費は公表されているだけで十六兆以上。日本の軽く三倍ですよ。つまりは自衛隊を同時に三個以上運用できることになる。そして日米安保見直しで日本から米軍の主力は撤退してしまった。南シナ海を見れば分かるでしょう? 九二年にフィリピンから米軍が撤退して以降、中国はあっという間に南シナ海に侵略してあっという間に軍事拠点化してしまいました。米軍が再度フィリピンに入ったあとでは手遅れでした。番犬のいない羊小屋を、飢えた狼は狙っています。なんとか立ち向かわないと。存立危機事態として我が国が介入することもちらつかせないといけません」
存立危機事態とは、日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態をいう。集団的自衛権行使を外交カードにして中国を牽制しなくてはならない。
米軍の撤退という軍事的空白が生まれることによって軍事均衡が崩れることを懸念した日本は航空機搭載護衛艦という名の戦後初の空母を持った。平和を愛する国としてそれは苦渋の決断であった。
「我々の
「民主国家の軍に共通する特徴は、国民に好かれたがる傾向が極端に強い事です。自衛隊は、阪神淡路以前からの日陰者の立場から好転しつつある現状において、中身よりも見た目を重視してきました。番犬というよりも愛玩犬ですよ」
その言葉に渡良瀬は苦い顔をする。
「まあ、災害派遣や国際活動において多少の実績は積んできたので愛玩犬よりは盲導犬並みではありましょうか。盲導犬を番犬にすぐさま変えるのは無理です。それに、争いを知らない気性の穏やかな盲導犬の手綱を握っていたのは国を守る気概の無い、現実が見えない盲目の飼い主です」
梶本は自嘲気味に言うと、ですが、と続けた。
「ですが、盲導犬でも使命感と忠誠心だけは番犬にも負けていません。彼らは我々の無茶な要求によく応えてくれていると思いますよ。特に先の有事から変わりつつあります。彼らに必要なのは何よりも国民からの支持です。銃後の守りが無くては彼らは戦えません」
「現場のためにも我々がやれる最善の事をしないと」
エレベーターに梶本は乗り込んだ。渡良瀬の顔を見る。
「では。官房長官こそ、いざとなればよろしくお願いしますよ。防衛省は味方が少ないので」
梶本はそう苦笑して見せるとエレベーターのドアを閉じた。
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