PhaseⅠ act1-4
神奈川県綾瀬市
厚木基地
July 19.2024
基地全体に六時ちょうどの起床ラッパが鳴る前から点いていた
画面が変わると煙幕が張られる中を進む水陸両用装甲戦闘車や攻撃ヘリ、さらには単縦陣を組んで進む艦艇、その頭上を飛び去って行く戦闘機の映像が次々に流れた。
『中国外務省は中国海軍が昨夜未明より台湾海峡で実施している上陸訓練を公開しました。訓練には艦艇十隻、戦闘機や爆撃機、ヘリコプターや水陸両用の装甲車などが参加しており、実弾を使用、夜間を通して行われるなど非常に実戦的な内容となっています。この訓練は対中姿勢を硬化させる台湾への牽制と思われ、双方の緊張感が高まっています』
六時までに格納庫から機体を
「派手だねぇ……よくもあんなあからさまな嫌がらせが出来るよ」
事務机の椅子に腰を下ろした秋本が呆れたように愚痴を漏らす。
「それだけ中国も必死なんだろ。台湾の独立運動の機運がここまで高まったのは初めてだし」
笠原はそれを他人事のように言うが、実際は日本への影響などを考えていた。中台での対立が深刻化し、武力衝突などが起きれば日本はまず間違いなく巻き込まれることになる。
台湾有事は、日本政府も重要影響事態――「そのまま放置すれば我が国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態等我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態」――として検討されている有事の一つだ。日本の最西端に位置する与那国島は、台湾と約百十キロしか離れていない。
「あそこまで台湾は変わろうとする必要があるのかね」
「世界経済は低迷。特に米中の貿易戦争で中国経済の陰りは深刻だ。今は政府が強硬策や市場介入でなんとかもたせているが、いつバブルが弾けるか分からん。共倒れは嫌だろうさ」
笠原は淡々と答える。経済不振から中国国内では再び政府への不満が高まっている。ガス抜きとして反日運動も盛り上がっているが、それにも限界があった。そこで今度は台湾へと圧力を強めたのだが、これに台湾が真っ向から反発し、台湾の独立運動を再燃させることとなった。
『東シナ海では八月より中国軍の大規模な軍事演習が計画されているため、日本政府も地域間の緊張の懸念を表明しています。この大規模軍事演習は中国海軍の空母艦隊を始め、陸軍と空軍も含む相当規模な物となることが予告されており、台湾はこれに強く反発しています』
「飛び火だけは勘弁してほしいな」
「対岸の火事どころか、とっくに燃え移ってるさ」
「やだやだ」
秋山は肩を竦める。
『中国公船による沖縄県尖閣諸島沖の接続水域への侵入が常態化し、中国海警の警備船が日本漁船への接近を繰り返す等、威圧的行動が行われています。十八日の記者会見において田代官房長官は引き続き対応すると共に日中の閣僚級会談の準備を進めていることを明らかにしました』
「南西諸島方面は相変わらず熱いな」
笠原の左隣の机で同じくデスクワークに勤しんでいた安藤一尉が笠原と同じく顔を上げてテレビを見上げながら呟いた。
「このタイミングで空護が離れるのは良くなかったかもしれませんね」
安藤の言葉に安藤の向かいの席に座る秋本が応じる。《かが》以下、第4護衛隊は呉へと帰港しており、空護《いずも》以下、横須賀の第1護衛隊は現在、南太平洋で米海軍との合同演習に参加中だった。その他、F-35Bを運用可能な《ひゅうが》と《いせ》の内、《ひゅうが》は定期整備に入っており、日本近海で行動中の艦は《いせ》だけだ。
「嘉手納基地のスクランブル、まだ夏だってのに今年はもう二百回を超してるしなぁ。俺達も何だかんだホットで五回も上がってる。嘉手納の負担は大きいだろな」
「気が抜けないのは俺達も同じだ。指揮官クラスはいつも人員不足。お前らも早くフライト・リーダーになってくれ」
「無茶言わんでください」
「《いずも》への
太平洋上で訓練に当たっていた航空護衛艦《いずも》以下第1護衛隊は北上し、南西警備に当たろうとしていた。その《いずも》への展開に備え、第101飛行隊は準備している。
笠原は相変わらず不満そうな顔でテレビを眺めていたが、やがて興味のあるニュースが無いことを知ると仕事に戻った。
「シャドウ、どうした。月曜の朝から酷いしかめっ面して。二日酔いか?」
険しい表情で机に向かっていた笠原を見て、秋本がからかい交じりに聞いた。秋本の指摘通り、笠原は頭痛を堪えている最中だった。
「月曜日に二日酔いなんて馬鹿な真似するか。それにもうすぐデプロイだぞ」
パイロットもフライト前は健康チェックで呼気点検も受ける。酒気帯びでは飛行停止処分どころか懲戒ものだ。そのためフライトの十二時間前の飲酒は固く禁じられている。
「じゃあどうしたんだよ」
「……日曜に
受け身をとったが、庭にあった木に強かに後頭部を打ち、こぶが出来ていた。全くなんてザマだと内心でぼやく。
「シャドウは休日だと一人漫才してるのか。見たかったな」
それを横で聞いていた瀬川が笑った。笠原はだから言いたくなかったんだと嘆息して頭をさすった。
「芝刈り機すら満足に扱えないやつが戦闘機飛ばしてんのかよ」
背後から投げかけられた冷ややかな言葉に笠原は表情を凍り付かせる。嘲笑の目を向ける藤澤に振り返った笠原は「黙れ」と低い声で一言発するとそれ以上相手にするのを辞めた。
「全く……今日は転属者来るんだからあんまり醜態晒すなよ」
安藤に言われて笠原は居心地の悪い表情を浮かべる。笠原は立ち上がるとコーヒーを淹れに壁際に向かった。秋本がついてきた。
「俺が喧嘩売ったわけじゃないだろ」
「それでもまあ、ガイの言葉にいちいちキレるな。大人なら聞き流しとけ」
「っち。まだ精神年齢はクソガキのままだ」
笠原は自分自身にも腹を立てる。
「BOQの草刈りなんてシャドウの当番じゃないのになんでやったんだ?」
瀬川も追いついて聞いてきた。その顔は理由が分かっている顔をしていた。
「転任者が草ぼうぼうのBOQ見たらそれだけでも少し士気下がるだろ」秋本が代わりに答える。
「そんなんじゃない」
航空学生からの付き合いでそこまでお互いを知っている仲では無いと思っていた秋本が図星を突いてくることに笠原は不思議に思いながらコーヒーを淹れて机に戻る。
今日の朝は
今日の第一ピリオド、つまりファーストという最初のフライトは
笠原は転属してくるパイロットの面倒を見ることになっていたが、そこまで関心は無かった。どんなパイロットだろうと、生きて任務を果たし、
今日のブリーフィングルームには浮ついた空気が漂っていた。年に二度は飛行隊の中から隊員が転属し、転属してくる。誰が来ようと、自分のすることは変わらないのだ。どっしり構えていればいい、と笠原は思っていた。
「気を付け」
当直幹部の
「隊長に敬礼」
識別帽を被った隊員達は布施に挙手敬礼し、布施がそれに答礼する。
「直れ」
「おはよう」
「
「休め」
「さっそくだが、定期異動に伴い、転属した新着任者を紹介する。
「はい」という澄んだ返事が笠原の後方から聞こえた。笠原が他のパイロット達と同じように横目を向けてわずかに振り返ると、そこにはフライトスーツに身を包み、髪をポニーテールにまとめた背の高い女性自衛官が立っていた。笠原は驚嘆を禁じ得なかった。
「
秋本がこっそり背後から声をかける。
女性の戦闘機パイロット採用は数年前から航空自衛隊でも行われ、それは増えつつあるものの狭き門の上、訓練は非常に厳しく、天然記念物並に貴重だ。まさか艦上航空隊に女性パイロットが配属されるとは思わなかった。
「嘘だろ……」
笠原が低く呻いた頃には彼女は背筋を伸ばして颯爽と壇上に立ち、こちらに向き直っていた。改めて笠原は彼女を見た。
黒江は端整な細面の顔立ちに涼し気な切れ長の目元の、目を引かれるような和風美人だった。髪型や姿勢の良さからも年相応の女の印象とは違う凛々しさがある。化粧の気配はなかったが、それは怠惰からではないと分かる清潔感があった。
足はすらりと長く、身長は一七〇センチを超えている。隣に立つ的場と並んでいることから一七五はあると笠原は推測した。飛行服を着ていなければモデルか、女優と言われても頷いてしまうだろう。のっぽでもちびでもゴリラでも来いという気構えで、中身と心さえしっかりしていればいいと思っていたが、想像していた新人像からはあまりにもかけ離れていたことに笠原は改めて驚嘆を堪えた。
執拗に不躾な視線を向けるわけにもいかず、内心穏やかではないままその顔を見た。
「本日付けで第101飛行隊に配属されました、黒江
そう着任の挨拶をして、無駄も隙も無い挙手敬礼をした黒江を見た笠原は冷や汗が流れるような緊張を覚えていた。
「彼女は第102飛行隊で艦上戦闘機操縦課程を履修後、第202飛行隊に配置された。若いが、
的場は短くそう彼女を紹介した。的場が手放しで褒めるということは確かな人材なのだろう。女とはいえ、侮れない。
「もう一名の桐谷二尉は諸事情により着隊が遅れるため、着隊後の挨拶となる」
ブリーフィングはその後、予定通り進められた。初参加で黒江はやはりその経歴からも容姿からも一目置かれている。ベテランのパイロット達は動じていないが、若い独身隊員達は落ち着かない様子だった。
無理もない。自分も動揺したくらいだと笠原は思う。しかし、パイロットに男か女かは関係ないとも考えていた。与えられた任務を遂行できることが重要で、それに全力を尽くせる者であれば男でも女でも若くても年寄りでも何でも良い。そう頭では思っていてもこれから彼女の面倒を見るのが自分なのかと思うと緊張する。女性と会話することは日常においてもほとんどなかった。
各伝達事項も済み、ブリーフィングを終えると笠原は秋本を小突いた。
「俺以外みんな知ってたのか」
「当たり前だろ。シャドウこそなんで
「いいサプライズになったんじゃないか?」
瀬川が口を挟む。
「サプライズって……」
「綺麗な人ですね」
高平の言葉に笠原は不思議な思いで佐渡を見た。高平の声は浮かれていて、嬉しそうだった。
「それがどうかしたか」
「え?いや、美人の先輩なんてまるで娑婆の職場じゃないですか」
笠原は高平の言葉に心底呆れた。
「浮かれている場合か。お前は今日、セカンドでACMだろうが」
「は、はい」
高平は弾かれたように笠原の元を離れた。笠原は溜息を吐く。
「なんだ、クールぶって」
つまらないとばかりに秋本が言った。
「逆に何をはしゃいでるんだお前たちは。女が来ようが男が来ようが、肝心なのは使えるか使えないかだ。大体今は倍率が緩和されて今まで以上の人数を育成してそれこそ数撃ちゃ当たるでパイロットを獲得してる時代だ。俺達の期も含めて質は確実に落ちてる。その上、転職する者も大勢いる。昨今の人手不足だ。いずれ飛行班にも女が来ることくらい予想できるだろう」
「おい、シャドウ」
的場が笠原を呼ぶ。的場の隣には黒江二尉もいた。静かに佇んでいる。
「ファルコ、こいつはシャドウ。今日からの
「シャドウです」
ろくに挨拶も考えていなかった笠原はTACネームを名乗る。黒江は笠原を見て目を細めた。
「戦力化と言っても優秀だと聞いてる。部隊に早く馴染めるよう頑張ってくれ。宜しく頼む」
笠原はそう言って手を差し出そうとして慌ててやめた。下手に握手を求めればそれだけでセクハラ扱いされる時代だ。
「……よろしくお願いします」
対する黒江の反応は鈍かった。初対面の人間に対して警戒心を解かないのは別に悪い事ではない。
「シャドウ、隊の施設をファルに紹介してやれ」
「了解です」
的場はそれだけ言うと二人の様子を気にすることなく歩いて行った。黒江が熱のこもった目で的場の背を追っているのを笠原は見て意外な思いをした。それに気づいた黒江が笠原に細めた目を向ける。
「じゃあ──」
「施設はもう確認済みなので結構です」
黒江はぴしゃりとそう言うと笠原の応答も待たずにその場を歩き去った。その言い様に棘を感じ、笠原は眉根を寄せる。警戒心というレベルではない。どちらかといえば嫌悪だ。
「まあ、いいか」
「よくないだろ」
笠原の独り言にどこで見ていたのか、背後で瀬川が呆れた声を出した。
「なにがだ」
「馬鹿の一つ覚えみたいにシャドウです、だけで自己紹介を終わらせるなよ。ファルコは自己紹介してるんだから少しは人となりを理解してもらうように話さないと」
「なぜお前にそんな講釈を解かれねばならないんだ。どうでもいいだろうが」
「何がどうでもいいんだよ。お近づきになりたくないのか」
瀬川は信じられないとでもばかりに憤慨して言った。
「馴れ合いたいのか。ここは戦闘部隊だぞ。くだらないことを言ってないで仕事にかかれ」
笠原は取り付く島も無しに言うと事務室へと向かった。
事務室では先に着いていた黒江と藤澤が話をしていた。相変わらず社交性の高い男だと藤澤に感心しながらも笠原は自分の机に腰を下ろした。午前中はフライトが無いため溜まっているデスクワークか、トレーニング等に費やすつもりだった。
若いパイロット達は皆、黒江への好奇心を顕にしている。落ち着いた佇まいの黒江だが、この男しかいない飛行隊では目立っていた。
「シャドウが羨ましいね。しばらくファルコと仕事できるなんて」
秋本が声をかける。
「普通はそう思うが、この変人はそうでもないらしいぞ」
「どういうこと?」
「シャドウは他人に関心が無さ過ぎるんだよ」
瀬川の言葉を聞きながら笠原はラップトップの画面を睨みつけた。
「お前ら……くっちゃべってないで目の前の訓練に集中しろ」
若い男というのはそういうものだと理解はしているが、今は課業時間中だ。浮き足立つ彼ら、そして黒江の態度に先が思いやられた。
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