『栞』
禁忌と知の色、情熱の色
/1 Sleeping.F.B.
パリは遠く。イタリア西端と分割したフランスの国立公園を北上すると、世界的にも有名な洋菓子の名前の由来となった山があり。そこから西に位置する場所に、山岳地帯に封じ込まれたような、小さな森が存在する。
――小さく、けれど深いその森の中には、世にも
/
突き刺すように注がれたはずの陽の光は、雲と樹々の葉、そして朝霧に遮られ、その窓に辿り着く頃には、吊り金の不要なカーテンのように薄くやわらかに揺れていた。
窓際に置かれたベッドの上。寝間着にしているワンピースのキャミソールの紐が肩から落ちるのもそのままに。
上半身を起こし、片方だけ立てた脚の腿の内側へと、彼女は自身の趣味を施す。
白い肌に、縫い針が入る。皮膚一枚だけを通った針は道すがら赤い糸を残し。一本の線は行為が繰り返される度に、僅かな進捗をもってやがて一枚の、肌に刻む刺繍となるのだろう。
ノックの音は確かに鳴ったが、それはきちんと認識されてはいなかった。
部屋に入って来た気配は彼女がこの世で一番気を許している者のそれであり、縫い物をしている時にありがちな、思考に耽る――あるいは思考を放棄している彼女を引き戻すだけの力を持ってはいない。
……外界の喧騒から隔絶された森の中だ。意識すれば鳥たちの
花はまだ咲かない。赤い糸が白い肌に刻んだのは、一枚の葉だった。そこまでは見届け、それ以上は無しだ、と告げるようにわざと音を立てて、ベッドの横のテーブルにカップを置き、
「私に朝食の準備をしろと? マリア」
そう、明確に意識を向かせるように、青年は声をかけた。
針を通す指が止まる。眠りに落ちるようにゆっくりと瞼を閉じて、開く。それを二回。視線が声の主へと動き、ピントを合わせるようにもう一回。
視線の先には、眉を寄せた青年の姿がある。髪と瞳は東洋人のように黒く、ネクタイを外しているシャツも黒く、腰に巻いたサロンも黒かった。それだけなら黒ずくめの男、になるが――白い肌の、その左の瞼から顎までの縦と、鼻の上から両頬に通る横で組まれた赤い十字架の刺青が鮮烈なイメージになっている男。
「…………だって」
するすると、肌に編まれた糸を抜く。唇を尖らせて、マリア――
「退屈だったのだもの、エル。日々は事もなし、なんて起きたら不意に思ってしまって、
マリアージュ=ディルマはそう、いつの間にやら溜まっていたストレスを彼へと告げた。
「そうか」
エルはその不満を一言で済ませ、置かれたカップへと視線を遣る。マリアはいっそう不満げに頬を膨らませると、脚を畳んでカップを手に持った。
見れば彼女の髪は本来行儀が良いのにぼさぼさで、起きた時に軽く癇癪でも起こしたのかもしれない、と朝の紅茶を飲む姿を見ながらエルは冷静に洞察している。
覚醒して尚も胡乱な瞳で紅茶を飲むマリアから一旦視線を切り、化粧台に置いてある櫛を手に取って、エルはマリアの背の横に腰を下ろした。加重に軋むベッドのスプリング。なあに? と声なく窺い上がった頭を指先で押して戻させる。
無言で通される櫛の感触。わざとらしく肩を上げた後、髪を梳かれて機嫌を少し取り戻したのか、ふふっと小さく笑う声。
「やっぱり、退屈ですの、お兄様」
二度目の吐露は、甘えるように。
「もうじき子等が目を覚ますよ」
「ああ、朝ごはんの用意をしないと」
「軽く準備はしておいたが」
「ありがとうございます、お兄様」
それは、髪の絡まりと一緒に、
「それから、今日は良く晴れそうだ。飛行日和になるだろう」
「まあ! それは素敵ですわ。他には?」
「……肩紐がずれている」
「もう! ……ねえねえ、他には?」
「幾つかの嫌味を代金に、仕事を譲って貰ったよ」
「あらあらまあまあ。そうしますと、取引相手はお姉様?」
「マリアの鬱憤が溜まっている、と言ったら快く回してくれた」
「……うふふ。それは難儀をされましたわね?」
「どういたしまして。ほら、できたぞ。私は出ているから、早めに済ませて降りておいで」
「はい、ありがとうございます、お兄様」
一人分の重みが遠ざかる。窓の外を見れば、確かに良い天気になりそうな朝日だった。
此処は小さな森の中。秘されたひとつの屋敷に、<七人の小人>と<魔法の鏡>と<
専業賞金稼ぎ、通称【カラーズ】。その最高位である五色の内の【赤】は、その全員がFPライダーで構成されている。
通称は【翼】。
けれど『クリムゾンスノウ』の一日は大概、こうしてスローな始まりの仕方をしていた。
――やがて賑わい始める、階下のリビングの声を聞く。
ああ急がなきゃ、とマリアージュ=ディルマは深呼吸をひとつ。やっとのことで立ち上がった。
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