/3 仰げば、遠とし。


 特にこれといったこともなく、昼食はそこそこ賑やかに終わった。


 ドロシーの母さんが焼いてくれたスコーンと一緒に、食後の紅茶を飲みながら窓の外に広がる中庭を見る。


 ……そういえば、窓から見える景色も少し角度が変わったなぁ、などと背の伸び具合を確認しながら――思い出の中には無かった赤い翼を認めて、席を立った。





「レイチェル」


 ≪Pi≫


 声をかけると、当たり前のように一拍だけ置いたレスポンスが返って来る。


 ≪お久しぶりです、マイスター。お変わりはありませんか?≫


「お陰様で。レイチェルの方はどう?」


 ≪Si。これといった問題は現在、発生しておりません≫


 別れる以前と変わらないやりとりに安心する――そうだ、僕は。逃げ出したくなった場所から逃げ出せず、結局は僕自身の本音のために地に墜ちて、それでも見放してはくれなかった――見放さずにいてくれた人々の暖かさが煩わしかった頃、この味気ないようで思慮深いAIとの会話だけは……その、一見して冷たさを感じさせる距離感が心地良かったのだ。


 もう僕のものではなくなってしまった――などと言うと彼女は怒るだろうか――操縦席に座り、レイチェルの赤いボディへと揺れるまだらの影を落とす木を見上げながら、少しだけあの頃のような、独り言を拾ってくれるような雑談に興じる。


 ≪成る程。マギウス・オズも人が悪いですね≫


「でしょ。……レイチェルは解かる?」


 ≪pi。…………そうですね。当機のライブラリにも、そのような地形は存在しません≫


「ありゃ。やっぱりお手上げか」


 ≪Non。マイスター……ドロシー様も、マスターも揃って


「なに、それ」


 言ってはなんだが、僕は相変わらず大人にはなりきれていないというのに。


 レイチェルのコンソールパネルに表示されたドットが、からかうように往復する。


 ≪大人の定義は幾つかあります。年齢、経験……それらとは別に、皮肉のひとつやふたつ。マイスター?≫


 、と。


「……もっと柔軟に考えろ、って?」


 ≪あるいはもっとシンプルに。……マイスター、お時間はありますか?≫


「うん? そうだね、たぶん時間はある。うん」


 目下のところのタイムリミットは二日後。僕やドロシー、カレンとレイチェルの到着スケジュールをオズのじじいが読んでいたのなら、少なく見積もってもあと一日は地図のことに費やして良いだろう。そうではなく今日の予定と言うのであれば、行き詰っている現状を考えても夕食まではフリーということになる。


 ≪Pi。…………≫


「レイチェル?」


 ≪失礼しました。ではマイスター。


 言うや否や起動するレイチェル――HT2Sのシステムエンジン。


「わ、ちょっとレイチェル?」


 こんなことはレイチェルと過ごしていた時には一度もなかった。いつだって僕が準備を終えるのを待って、彼女は自分の翼を僕の為に広げてくれたというのに。


 これでは何かから逃げるような――ともすれば、悪戯がバレる前に退散する子どものような、それは茶目っ気にあふれた急かし方だった。


「OKだよ」


 ≪Si。フルオートで走空します。どうかリラックスして、わたしを握ってください、マイスター≫


 レイチェルが中庭を走り出す。僅かな助走距離と、超高性能の演算能力に裏打ちされた完璧なテイクオフ。


 緩やかな螺旋の軌道で、アルフォート邸が遠ざかる。


「あれっ、カカシっ!?」


 窓から身を乗り出したドロシーを見下ろして、心配ないと手を振る。


「ごめん、ちょっと気分転換してくる!」


 なにそれー!? とここまで通るソプラノに苦笑する中。


 ≪…………Pi≫


 レイチェルの電子音が、何故だか後ろめたい感情を乗せたように鳴った。



 /


 ≪……【大強盗】のリーダーを務める人物の翼だったからでしょうか。当機も悪事に手を染めてしまったようです≫


 空中。自らの行を恥じるようにレイチェルはそんなことを言った。


「なに? ……あぁ、もしかして」


 彼女はドロシーに気を遣ったのか。


「そんなに気にすることかなぁ。ドロシーとレイチェルだって仲が良かったじゃないか」


 ≪Bibi。マイスター、貴方はご自身の立場にあまりにも無頓着すぎる。という席の価値を、貴方自身が軽んじすぎています≫


 何故か僕の方が窘められてしまった。


「そういうものかなぁ……」


 ≪Si。加えて過去の貴方はトラウマものの存在でしたから≫


「その言い方はちょっと酷くない? というかレイチェル、エメラルドエリュシオンに戻ってから口が悪くなった気がするよ」


 好意的に判断するなら人間味の向上、と言っても良いけれど。


 ≪失礼しました。当時の貴方は――誰も辿り着けない高さに在った。その自覚くらいは持っているでしょう?≫


「そうだね……僕は、を目指して飛んだんだから」


 構図は今と近い。あの頃と翼が変わっただけだ。もっとも僕の<NASTY>はレイチェルと比べてとても寡黙――というかFPボードにこんな高度なAIは積まれてなんていないんだけど。


 ≪貴方と同じ空を飛ぶ、ということを飛行症候群ピーターパンシンドロームの少年少女は夢見ていました。かつて嫉妬と醜聞からドロシー様が恨まれたこととは別に、当機が飛行艇であることとは別に、当機もそれなりに嫉妬を買ったのだろう、と推測できます、マイスター≫


「迷惑な話だね、それは」


 息を吐く。視界を遮るものは何もない大空。僕とカレンだけに見える、透明な繭のような。僕はそれすら煩わしいと思っていた過去を、眼下の景色とともに振り返る。


 鳥が遊ぶような、緩やかな旋回。空を独占するかのような、少しアクロバティックな遊覧飛行。


「……ははっ」


 操縦は彼女自身に委ねている。今抱えている悩み事の、この空と比べるとなんと小さなことだろう。


 ≪つかぬことをお聞きしますが、マイスター?≫


「うん?」


 ≪マギウス・オズは地図の他になんと?≫


「んっと、煽ってたよ。“間に合わなかったら笑ってやる”それから……“愉しめ、小僧”だったかな」


 ≪Pi。ではそのようになされてはどうでしょう≫


 下降。どうやら短いはお終いらしい。


「愉しむ、ねえ……」


 グリニッジを象った輪郭の地図。上向きのS。二日後のリミット。レイチェルが僕を空へと連れ出した理由。中庭で不機嫌そうに待つドロシー。その横で欠伸をする眠たげなカレン。アルフォート邸の中庭。珍事に慣れて苦笑するファミリーの大人たち。の――ああ。


「……レイチェル」


 ≪Pi≫


「ありがとう」


 ≪Si。お役に立てたのならば幸いです、マイスター≫


 かつての僕の翼はまた羽を休める。


 駆け寄って来たドロシーが怒りながら僕らを迎えた。


「なんで急にっ!?」


「気分転換だって言ったじゃないか」


「でも先に一言くらい言っても良かったじゃないっ!」


「あら夫婦喧嘩? アーサー様が喜ぶわぁ」


「「「式の準備ィーーーー!!!」」」


 ベディの声に歓声の上がるアルフォート家。やれやれと肩を竦めるカレン。


「うるっっっっさい! そんなんじゃないわよッ!?」


 …………。


「謝るよドロシー。ごめんってば。それで、地図のことがわかったんだけど」


「えっなになにっ!? なんで!?」


 目を白黒させるドロシーに、僕はついさっきまで飛んでいた空を見上げて。


「上向きのSは、SouthじゃなくてSky。二日後のグリニッジ天文台の上空に、何かあるんじゃないかな」


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