/6 貴方に薔薇を


 ホテルのフロントでチェックアウトの手続きをしている雪菜を一瞥した後、ソファにもたれるレオはサングラス越し、何の気なしに窓の向こうへと視線を遣った。


 フィレンツェはいつも通りの和やかさで、人々の気の良い騒がしさがそれと合わさっている。


 ド定番だがピサの斜塔にでも連れてってやりたかったがねぇ、などと。声には出さずに、その言葉を口の中で転がして立ち上がる。


「レオ。お待たせ」


 フロントに来たレオに雪菜は振り返り、何度も見せた愛らしい笑顔を浮かべる。


 おう、と応えながらレオは財布から紙幣を何枚か取り出し、その一枚をフロントへ。


「煙草くれ。それとタクシーを回してくれ。……ユキナ、先に空港行ってろ。俺は用事ができた」


「なあに、用事って。っていうか煙草はダメって言ったのに」


「悪ィな」


 それだけ。フロントマンが見ている前で、宥めるように雪菜の髪を撫で梳くレオの指には情愛があって、ただ飽きただとかそういう酷薄な理由から別れると言っていないのだけは理解できた。


「……約束、だからね」


「おう。また後でな」


 それでも拒みかねない手に、紙幣を半ば無理矢理握らせて雪菜を送り出す。


 隔たれた二人の距離。閉じたガラス製のドアから振りかえった時、レオは煙草を銜えていたのが見えて、もう! と雪菜は腰に両手を当てて怒りのポーズをした。


 それを受け取ったレオは肩を竦めて笑い……彼女を乗せたタクシーが発進するのを見届けてから、銜えた煙草に火を点けて紫煙を吐き出す。


「……良い奥方ですね」


「だろ? 俺にはちぃっと、眩し過ぎる女さ」


 わざとらしくサングラスを指で叩いて見せ、レオは笑った。


 ――寄り道はここまでだ。自分にとっても、彼女にとっても。




 対向車線。法定速度を無視しながら過ぎ去っていく何台もの車に釣られて、タクシーの中で雪菜は振りかえった。


 遠ざかっていくホテル。次の瞬間、フィレンツェの営みの声は飛び交う喧騒へと変貌した。



 /


 銃声と爆音が街並みを染め上げる。渦中にしてその最先端を往くのは一台のクラシックカーだ。昨夜までの大人しさは微塵も残されていない。助手席に座っていた主人の宝物はなはもうそこには居ないのだ。漆黒の旧式フォルクスワーゲン・ビートルになんの冗談か搭載されたフェラーリ・テスタロッサのエンジンが唸りを上げて、追っ手を煙に巻こうと爆走する。


「ハッ! やっぱこうなるわなぁ!」


 市街地を走行する車から身を乗り出して発砲してくる追っ手。悲鳴を上げる人々には何の冗談か知る由もないだろうが、。多くを奪って自由に生きる。その悪行に支払う対価は自分の首にかかっている。猛追して来る連中はこの時代の華。専業賞金稼ぎ――【カラーズ】を差し置いて他にはいない。


 赤信号をガン無視して、十字路を強引に右折する。ギアはニュートラル。空転するエンジン。叫び声を火花に変えるタイヤとアスファルト。次々に上がるブレーキ音とクラクションと追突、激突の多重奏の中、


「おおっとこっちじゃねェや!」


 ハンドルを逆に切る。カブトムシビートルの皮を被ったフェラーリあばれうまがぎゃりぎゃりと無茶をさせる主人に抗議するかのように唸り立て、右折直後の車体を更に転進させる。ケツを追っていたはずの賞金首の車が次にはこちらに正面を向けている展開に、カラーズは面喰らう。


 爆進、再開。初速百キロの猛スピードで、対戦者の顎を打ち抜くボクサーのフックのように急制動をかけたカラーズの車の前頭部をビートルの車体が殴り抜けて進む。


 自らが発生させた局地的な大渋滞を縫うように、時にはこじ開けるようにして疾走する。


 その中で鳴り続けていた携帯を通話状態にし、乱暴にハンドル横に挿す。


「チャーオ! 今絶賛取り込み中なンだけどどうしたァ!?」


「どうしたじゃないわよ! レオ、アンタ何やってンの! アーサー様が頭抱えてるんだけどォ!?」


「なんだベディかよ取って損したわ」


 通話終了。


 イギリスにまで届くあたり、アルフォートファミリーのしつけは流石だねぇ、と口笛ひとつ。なお追い縋る連中にサイレンの音まで入り始めて、いよいよレオは笑みを深くした。


「ハッ、」


 だから、生きる世界が違い過ぎる。


「ははッ」


 人並みの苦労や、それに見合うかどうかわからない幸福を手にしてきたり、手放してきたりもしただろう、あの女は。


「ハハッ、はははは! ははははははは!」


 ――追っ手ごと女々しい感傷を置き去りにするかのようにアクセルを踏む。時速三百キロで笑い飛ばす。




 /


「……ま、『色つき』やサクライの野郎が出張ってなかったのが良かったってところかねえ」


 警察、カラーズの全てを巻いて喧騒から抜け出したのはそれから一時間も経ってから。つい先日のように、愛車に背中を預けて外で一服していると、空港から飛び立つ旅客機が空に見えた。



「ふーっ……アイツには悪いことしちまったなあ」


 彼女は、恨めしく思いながら発っただろうか。紫煙を吐き出しながら、しょうがねえよなあ、と首を鳴らす。


『ねえレオ。良い男ってのは、きちんと約束を守るもんだからね。アンタは女をたくさん泣かすようになるかもしんないけどさ――』


 自分を拾って置きながら、先にいってしまった女の言葉を思い出す。


『ちゃんと笑わせてあげるんだよ、い~い?』


 がしがしと頭を掻く。


「……ったく、おっんでも小言が尽きない女だぜ。わかってんよ、ベラ」


 愛車に乗り込む。手紙に載せる言葉も字も解からなかった頃とは違う。


「また後でな、っつっちまったし」


 待たれなかった、という結末をきちんと受け入れる程度には大人になったつもりだよ、と小さく紡いで。レオは空港へと愛車を走らせる。




 /


 果たして。


「遅いんだけど?」


「なんでまだいるのかねぇ、ユキナ」


 待ちくたびれました、と別れ際よりも本気で怒る雪菜の姿に、今度こそレオは降参のポーズを上げた。


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