/4 フォー・ローズ


 華やかでありながらも静かな夕食の後。


「……どこか、落ち着いて話せる場所はなぁい?」


 という雪菜のオーダーにレオは首を傾げた。


「せっかくイタリアに来てンだったら、夜景の一つでもせがまれるかと思ったけどな」


 それに別段、どこも騒がしくはないだろうと。ごく当たり前の感想に今度は雪菜の方が首を傾げる。


「……。レオ、芸能人にでもなっていたの?」


「ぁン?」


 レストランリストランテでテーブルを囲んでいる時から……いや入店を済ませた時……もっと前。車を停めて、日の沈んだフィレンツェを歩くだけで街行く人々の視線が注がれ続けていたことを、彼女は口を尖らせて責めた。


 いっぱしの『女』であることは雪菜自身も理解している。イタリアに来ている、日本人女性であることを珍しがられての視線にももうとっくに馴れていた。だから注がれる量と意味が違うことにも気付いていて。


 ――彼等は一様に、私の隣を歩く、この青年に一時の間、視線を奪われたのだと。


「ハッ」


 短く笑いを切ってレオは愛車にキーを差し込んだ。


「ま、俺が知らなくても俺を知ってる奴は大勢いるかもしれねぇなぁ」


 やんちゃもしてきたしな、という自覚のある付け足し。どこの勢力に属しているか、ということと……現状、ということは告げずに。


「つっても芸能人ってのはハズレだよ。そりゃ。……そうさな、観に行くか。俳優とか女優とかいる、落ち着いた場所」


 骨董品のビートルが目を光らせて走り出す。助手席で頭の上に『?』を浮かべた雪菜はけれど、それ以上の追求もできないまま道行きをレオに委ねた。



 辿り着いたのは古イタリアの情緒深い外壁――を持った情緒の欠片も無い空間――に設けられた、置き去りにされた時代をもう一週回って先取りしたかのような、ある意味でこの車に似合いの骨董だった。


 有体ありていに言って階段型の立体駐車場。ピザをカットしたような扇型の構造の中心には一枚の巨大なスクリーンが存在している。飲み物どころかシートさえ持込み推奨……いや必須であるところの広大な――二十世紀の終わりには揃って姿を消してしまったものの生き残り。


 雪菜は初めて訪れるという施設に、そっと口に両手を当てて息を呑む。


「……これならどうよ、ユキナ。邪魔は入らねぇし、隣を気にする必要もないだろ?」


「うん……芸能人ってそういうことかぁ。でも、」


 マナー違反とされる、映画公開中のお喋りを咎められることのない劇場、というのは確かに魅力的だ。訪れている人々は同じ映画を観ているはずなのに、それぞれの座る椅子は車というシャッターで隔てられている。連帯感と孤独感、普段は交わらないふたつの安心が奇妙に合わさっていて、なにやら後ろめたい優越さえ覚えた。


 ふぅ、という深呼吸。照明の落ちたシアターの銀幕に、最先端技術で復活した古臭さが映し出されるのを観ながら、雪菜はまず、おしまいについて言及した。


「ねぇ、レオ。……どうしてあの時、どこかに行っちゃったの?」


「…………あぁ、やっぱそうなるよなぁ……」


 ぎし、と運転席の背もたれをレバーを引いて後ろに倒し、天井を見上げながらその記憶を掘り起こす。


「俺ぁガキだった以前に、学がなかったって話さ」



 /



 ――息を切らせて街を走る。別れは突然でもなく、もともと予定されていたものだった。


 ただ子どもの彼も彼女も、未来のことを想うよりも、その僅かなを楽しむことに夢中になって、大人のようにきちんと組み立てればなんてことのないその訪れを理不尽に感じただけのことだ。


 発音に妙に苦労した日本人の少女の名前を呼ぶ。どうやらそちらからしてみれば長い名前よりも、愛称の方を教えた甲斐もあってか『レオ』というたった二つの音がこんなにも胸を弾ませた。


 惜しむような別れの日。その挨拶であろう一本の花を手渡され、幼いレオは困惑してしまった。


 握ったことのない、命。そんなものに興味などなかったし、縁もまだ無かった。本当に、強く握れば折れてしまう儚さの茎を、拳銃を持つ時よりも緊張したことをまだ、レオは覚えている。


『い、いいか。すぐ戻るから! 待っててくれよな!』


 早口にも程があるそのイタリア語を、ユキナが理解したとはどう甘く見積もっても思えなかった。


 思えなかったが、それが通じたかのように少女はこくん、と頷いた。走り出す。


 やばい、やばい、やばい!


 別れを惜しむのは本当だ。ユキナは来ていて、自分は居るだけ。もっと幼い頃からもっともっと遭遇してきた理不尽とは比べるまでもない平和さだ。少年のレオを急かすのはそんなことではない。


 。なのに自分にはが無かった。


 ツルんでいる悪友たちは最初から除外。こういう時、自分も含めて奴等はなんの役にも立たないと知っている。


 かといって後見人も何か憚られた。レオにとっては一大事だが、他の大人にとっては瑣事に他ならないだろうことは、テンパッた頭でも理解できる。


 ――そして、一番の理解がありそうな女はもういない。


 その不在をこそ、思い出さないようにしていた理不尽だと。やけくそ気味に、最後の、そして唯一の逃げ道だった開店前の店のドアを叩いた。


『マスターッ!』


『レオ? 困ったな、まだ店は開けてないんだが』


『ちっげぇよ! こっ、これッ! 枯れちまうよ! 俺、俺どうやったらいいのかな!』


 ……祈りを捧げる聖母のように、胸の前で握られた両手には、一本の赤い薔薇が。少年の懸念とは裏腹にまだ瑞々しく咲き誇っていた。


 それを見てロッソ・エ・ネーロのマスターはやはり微笑み、彼を店内へと招き入れる。


 不安げに差し出された薔薇を、水を入れたシャンパングラスに挿し、『それで?』と促す。


 雪菜に告げた時と同じような早口にもきちんと相槌を打ち、最後まで聞き終えてからひとつの案を提示した。


『こういう時は手紙に限る。レトロだけれどね』


 レオは目を丸くして、次の瞬間には吠え立てた。


『俺、俺、字なんて書けねーよ!!』


 あああ、と乱暴にその金髪を掻く。――それが彼の癖であることを、やはりマスターは知っていて。


『なに、彼女はんだろう? 教えてあげるから、ゆっくり書くと良い。だいじょうぶさ』


 レオを座らせたカウンターに、便箋を一枚とペンを乗せた。


『で、でも書けって何を?』


『シンプルが一番さ。レオはその子に、何を伝えたい?』


『俺は、アイツに……』


 ――たった一行。たったそれだけの言葉を綴るのに、どれだけ時間を費やしたのか。



『で、できた!? できたよな!? マスター!』


『完璧さ。行っておいで、レオ。私は店を開けておこう。……上手くいったら、そのお嬢ちゃんを連れておいで』


 おう! と威勢よく言って、彼は再び走り出す。



 /


 ――肺に煙を入れもしてないのに、苦いねえ、とレオは吐き出した言葉通りに苦く笑った。


「俺はさ、ユキナ。あん時『すぐ戻るから待ってろ』っつったンだよ」


 視線だけを隣に流す。少女から成長した雪菜は、そっと微笑んだ。


「うん。何て言ったかほんとは全然わからなかったけど、そんな気はしてた」


「俺も、通じただろって甘く見積もりすぎっつーか。悪かったな、ユキナ。返せるモンを探しに行ってた。……待っててはくれたんだろ?」


「うん。時間切れだったけどね。だから、迷惑かなってショックだったけど」


 答え合わせを順々に。


「だったらその場で捨てるっつーの。……お陰で俺は勤勉になったぜ。手紙、書いたンだけどな」


「まあ! それで、今持ってるの!?」


 ――さすがだぜマスター。俺にゃあさっぱり価値が見出せないが、手紙っつー物の威力って凄ェンだな。


「持っててたまるかよ。とっくに破いて捨てちまったよあんなもん」


「えーッ! 色男になったと思ったのに、すごく残念」


「俺ぁそんなに期待されててびっくりだわ」


 軽く笑って、レオは折りたたまれている運転席の日除けに手を伸ばし、挟んであった便箋を引っ張り出す。


 あの日、マスターに渡されたものではもちろんない。


「だから書き直した。まったく嫌になるよな? ガキの頃の俺は、こんな短ェ文を書くのにどんだけ時間かかったんだよっつー」


 ほら、と十年越しに貰った花の代わりの品を指に挟んで手渡した。


 二つ折りの便箋には、幼い頃と同じ一行きもちを、今のレオが綴ったものが。


「っ、ほんとう……」


 詰まる呼吸。


「……貴方は、ずるい男に成長しちゃったんだから、レオ」


「ハッ。良い女に成長したユキナに言われると、悪ィ気はしねェな?」


 スクリーンに視線を移す。


 退屈なフランス映画。シーンは雨の中、台詞も無しに男がベンチに座って濡れていた。

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