/2 うたをわすれる


『なーに、また喧嘩? こんなに汚しちゃって、ダメじゃない。アンタ顔はとっても綺麗なんだから。やるならやるで、顔はきちんと守らなきゃね』


 ――ガキの時分の夢を見ていると気付いた。たしなめるにはあまりにも軽い小言を言いながら小さい俺の顔を消毒液で濡らしたハンカチで拭う女の顔はしかし、逆光もないのによく見えない。断線。唐突にシーンは切り替わり、俺はついさっきまで居たボロ屋とは打って変わって上等なローズウッドの無垢床にナイフを持ったガキを叩き伏せ、


『レオ、そのくらいにしておきなさい』


 ぱきん、と冬の枝を鳴らすように、ナイフを持ったままのそいつの肩を捻って外したところで、親父さんの制止の言葉に従った。


 ……これはアルフォート邸で、坊が親父さんとした遣り取りの時の記憶か。俺もまだまだガキだったが、流石に大人げないと思う。また断線。現実そとからの眩しさに目を瞑るが、夢の中の風景はくらまない。代わりに色を失くしてセピアになった街道を、息を切らして走っている。


 ――他の連中では駄目だったのだろうか、なんて今になって思う。古巣の奴等は最初から除外で、もうその頃には世話になっていたアルフォートの連中には何故だか言えなくて。ベディの野郎には死んでも聞きたくなんざなかったから、俺は逃げ込むように、開店前のロッソ・エ・ネーロのドアを開けた。


『        』


 今よりもまだ若いマスターの言葉はいつも通りの、そう重要でも奇抜でもないもののはずだが、何故か無声映画のように口だけが動いていた。――――


「……………」


 開けっ放しの窓から入った風がカーテンをどかして、陽の光を通す。その眩しさに目を覚ますと、そこはこの二年ですっかり馴染んでしまった新しい我が家の自室のベッドの上だった。立地的に僅かに風に乗った潮の匂い。


 アラームをセットしたことのない目覚まし時計を見ると、昼前に差しかかっていた。深酒をしたつもりもないが、ずいぶんぐっすり寝ちまってたらしい。身体を起こして一階したに向かう。


 階段を下りて、顔を洗いに洗面所に行きがてらリビングを覗くと、テーブルには坊だけがいて、紅茶の続きをしていた。


「おはよう、レオ。今起きたの?」


 顔を洗い、口をゆすいでリビングに入る。カップをソーサーに戻してから口を開くマイペースな坊と「あぁ、おはようさん」と挨拶を交わしキッチンへ。


「気苦労でも抱え込んでるのかねぇ。爆睡バクスイだったわ。朝飯は?」


「わ。似合わない。適当にパンだけで済ませたよ。お昼どうしよっか、って悩んでたところ」


「ハッ、悩んでる面には見えなかったけどな。んじゃ俺の朝飯ついでに坊たちの分も作るか。旦那ー? メシ作っけど旦那はどうすんだー?」


 テレビの前に設置されたソファに座るスズの旦那は、続きを読んでいたであろう朝刊から顔だけこちらに向けると「頼む」の意味を持った頷きで応じた。あとは姫か。


「坊、姫は?」


「そこ」


 そこ、と言われて誘導された視線の先――ガラス壁の向こうの砂浜で、姫がトトと駆け回っていた。


「朝から元気なこって、ウチの姫は」


 この家では俺しか使わないサロンを腰に巻きながらリビングを横断する。


「ひーめー! メシ食うかー!?」


「たべるー! おはようレオー!」


「おー! おはようさーん!」


 と、見た目通りの元気な返事が返ってきたので良しとする。



 鍋に水と塩を入れて火を点けてから冷蔵庫の物色を始めた。飲み物以外、てんで情熱の薄いウチの連中に似合いの食材アパートだな、と思いつつサラダ用のミニトマトがあったので拝借。


 調理器具が下がっている壁掛けに一緒に吊るされているニンニクを取って、皮を剥いていると横に坊が立っていた。


「何作るの? 手伝おっか?」


「そんなんテキトーだよ。いつものこったろ? 棚にたしかオリーブ缶あったろ、取ってくれや」


 あと皿、と付け足して煙草を銜える。適当に作る、と言ってそれは本当にテキトーなものではあるが、手順はもう決まっていた。湯が沸くまで一服して、だらだらと今日の予定なんぞを考え、二本目を吸い終えたところで沸いたので乾麺を鍋に入れ、ナイフを持って調理に移る。


 鷹の爪と一緒に、スライスしたニンニクを炒める。何故か坊が横に立っていた。


「なんだ坊、料理に興味でも湧いたかい」


「ぜんぜん」


「ハ。じゃあなんでそこに突っ立ってンだよ。オリーブの水、切っといてくれ」


 ヘタを取ったミニトマトを半分に切り、ニンニクに色が付いたところでフライパンに加える。


「なんとなく、かな。ねえレオ、昨日なにかあった?」


「何かって何だよ。別にいつも通りさ。麺、混ぜてくれ」


 テキトー、と言ったからには雑に受け取った黒オリーブもカットして、瓶詰めのケッパーとアンチョビを二枚、順次投入し、安い白ワインで香りを付けてから蓋をする。


 隣を見ると、紅茶以外は本当に勝手がわからないのか、まだ律儀に麺を茹でている鍋をぐるぐると混ぜている坊がいた。


「その辺でいいぜ、坊。茹でてる間に麺がくっつかなきゃそれで良いンだよ、こんなのは」


「そういうもの?」


「ああ」


「それで、結局どうしたの?」


 ――このランスロット、という親父さんの養子で俺の弟分でもある少年は、普段は何に興味を示すがわかったもんじゃねえが、今日みたいに妙に関心を示す時がある。


「……やれやれ。煙草と同じだよ、前に訊いてきたろ? 吸ってる理由ってやつ。ほれ、仕上げるから下がってな、坊」


 観念して答えると、坊は言われるままに一歩退いた。鍋から麺を上げ、湯で上がったそれをフライパンに入れて塩、胡椒、最後に、おっと届かん。


「坊、粉チーズレジャーノそこにあるから取ってくれ」


「はい」


「グラッツェ」


 片手でパスタを躍らせながら、片手で掴んだ粉チーズを上から振りかけながら更に躍らせる。


「で、煙草? “ガキの頃の背伸びのツケ”?」


「そう、それな。それでちと、どうしたもんかなーって思ってンだよ。皿は?」


「後ろにあるよ。……煙草止めたら?」


「煙草の話じゃねェンだけどな。できたぜ、二人を呼んで来てくれ」


 坊が用意してくれた大皿に、出来上がったパスタをトングで移す。仕舞いに乾燥パセリを軽く振って、今日の昼飯であり俺の朝飯が完成した。



「レオっ、今日のメニューはなにー?」


 ――記憶の中で、女が付けていた安物の香水が香った気がした。


 どうして今になって夢に見たか、よくわからないが、夢なんてそんなもんだろう。


「――レオ様特製、娼婦風パスタプッタネスカだよ。熱いうちに食いな」


 そういえば、あの女が俺を寝かしつけるなんつー言い分で俺を抱き枕にしながら、よく歌っていたあの子守唄はなんだったか。


 まぁ。昼に考える話でもないわな。

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