フォー・ローズ

/1 便箋、あるいは栞のように。


 陽の落ちたイタリア、フィレンツェ。落ち着いていて、かつ活気のある街だ。有名な聖堂が近くにあるが、彼等はあまり敬虔な信者ではないので今回は割愛する。のことも同様に。


 ――二十一世紀も始まってそこそこ経つ。前世紀の面影を残しつつも主要道路は黒いアスファルトになっていた。


 大通りの隅。仮面を付けた占い師が座っている角を左に曲がると、アスファルトは幅の狭い歩道の路面がレンガに変わる。


 裏手には【九月二日】と名づけられた川が流れていて、その昼は喫茶店、夜はバーになっている、古めかしい一軒の店。


【Rosso・e・Nero】と書かれた看板の向かいに、黒いビートルが止まっている。


 マスターは生ハムに拘りを持つ68歳。


 客はまばら。


 バーであるこの時間、ダボダボのパーカーを着た少年と、赤いワンピース姿の少女が少し浮いているが、薔薇柄のシャツを着た青年と、ダークスーツの男は綺麗にフレームに収まるだろう。


「今回は、いつもどおり?」


 赤いワンピースの少女――ドロシーがオレンジジュースのグラスを両手に持って三人を見回す。


「ん、ん。僕は異存ないかな。やることなさそうだし」


 リーダーであるパーカーの少年――カカシはミルクの入ったグラスの中に浮いている氷をストローで突きながら答え。


「……おれもない、だ」


 ダークスーツの強面こわもて――スズが生ハムの上に乗せられたレモンを絞って答える。


「俺も姫の案で良いよ」


 皿の面積と同じ大きさのピザに最初のカットを入れながら、無地の黒いジャケットの袖に薔薇柄のシャツを通した青年が最後に頷いた。


 ――ミリオンダラーの二番、【大強盗】OZ。そのアタッカー、レオ。

 意外な一面として、日々の糧を神に感謝している青年だ。


 まぁ、その盗品とうひんだったり奪品だっぴんだったりするのが玉にきず――というか、揃って首に値札をかけられている理由の全てであるのだが。


 彼の生まれはこのイタリアで、特にこのフィレンツェには縁があり、カカシと同じ歳の頃には仲の良い近所の悪がき達と、まだろくに味もわからない酒を飲みに、このバーに来ていたである。


(そういやマスターも白髪とシワが増えたねぇ……)


 イタリアの通貨がユーロになってから久しい。けれど幼い日のレオはどこから調達して来たのか、古いリラ紙幣しへいを持って、この店の扉を開けた。


 まだ青臭さの残る少年の、今よりももっと小さな手に握り締められたソレに、マスターは困ったように、『仕方が無いな、一杯だけ』と笑ったのを覚えている。


 そのマスターは今、そ知らぬ顔でグラスを磨いている。テーブルで行われている物騒な会話を聞いているのかいないのか。


 エキストラに扮する、この店の主を少しだけ眺めた後。レオは綺麗に八等分したピザを二枚ずつ取り皿に移して、ドロシー、カカシ、スズと渡した。


「それはそうと、なあなあ旦那。日本にゃマーケットの代わりに『コンビニ』っつーストアがあるんだよな? 俺ぁ行った事が無ェけど、都会のさ、嘘みてえに狭い店舗の中に何でも揃ってるって話なんだけどそれマジか?」


「……レオってさ、ニッポン好きなの? 家に居てもちょくちょく話題に出すよね」


 会話の脈絡のなさに、話を振られたスズより先に呆れ顔の少年が切り込む。


「ん? ……神秘の国、日本。旦那の生まれ故郷で、興味はあるよ」


 自分のピザを持った手は、そうして止まり。


「だが、好きって聞かれたらちょいとわかんねェなぁ」


 それから、がしがしと頭を掻く。


 その間に一枚目のピザを食べ終えたスズが、ナプキンで口を拭き、ワインを一口飲んで、それからやっと答えた。


「……爪切りや髭剃りもある、だ。あの国で大っぴらに売られていないのは、許可の下りない薬と銃弾くらいだな、だ」


 行きたいのか? と少しだけうんざりの色が見えた視線を受けて、レオは両手を小さく挙げ、首を横に振った。


「社交の場でもないってのにネクタイを緩めたら咎められそうだ、違うかい? 旦那」


 答えを聞かずに、食事を再開するレオにスズは小さなため息を。


 この場の全員が知っている。


「――カカシ、カカシ。


 青年の、先の仕草が照れ隠しや、答えに窮した時の癖であることを。


「さあね。ドロシー、冷めるよ」


 顔を寄せて小声で訊いてきた少女を弱い力で押し戻しながら、少年は兄貴分を自称する青年を眺めた。答えは出ない。


 一方でピザを飲み込んだレオは、古いレコードの針を調整しているマスターの瞳が、自分に向いていることに気付いた。



 ――初老のマスターには知られている過去。


 小さな銃の反動によろけていた頃のレオが、小さな花を大事そうに持って、この店のドアを叩いた日の事。


「……煙草吸ってくるわ」


「はっ?」


 席を立つレオにカカシが目を丸くする。このレオという男は言葉の通り、愛煙者であるが――好感度の有無は結果に左右されるものの――同じ卓を囲んでいても普通に吸う男だ。なのでジャケットの胸ポケットから箱を出して早速一本銜えてからドアに向かう後ろ姿を見送るまで、少年は「なんで」という言葉を発せずにいた。


「……なんで?」


「レオ、気分悪くなっちゃった?」


 仲良く首を傾げる少年と少女の視線は、答えを求めるように、残った大人のスズへと注がれた。彼は少しだけ考えるように目を伏せると、二枚目のピザを持ち上げて、


「……カカシは以前、おれたちに煙草を吸う理由を聞いたことがあるな、だ。アレも、その理由のひとつだ、だ」


 、と一言添えてピザを口に入れる。


 当のスズとて、レオがこの場から理由に思い当たる節などなかったが。



 /


「……ちッ」


 ロッソ・エ・ネーロの外壁に背中を預け、舌打ちをすると、言った通りに煙草に火を点け、紫煙を吐き出す。


 目を細めて、消えていく害悪の煙を眺める。コレを苦労せずに肺に入れられるようになってどれほど経ったか。日々に必要になってしまって、どれほど経ったか。


「……の返済はもうちょいかかりそうだなぁ、おい」


 自身の青臭さに思わず笑ってしまう。


 戸惑うようにレンガの道に鳴らす靴音。視線は何気なくその主を探すように流れ、声は自然とかけられた。


「……この時間は物騒だし、この先にゃ川しか無ェよ。独りで行くのはおすすめしないぜ、ねえさん」


 コ、と靴音が止まる。


「貴方……」


 声には緊張が見て取れた。さもありなん。レオとて自分の容貌は理解している。逆効果だったかね、と小さく肩を竦めた時、ちょうど店内ではレコードの調整が終わったところだった。


「……もしかして、ごめんなさい。人違いだったら失礼だけれど、その、」


 時折自分がナンパで使う口実のような言葉で始まり、


「なんだ、どっかで逢ったことが? アンタみたいな美人の顔は忘れるハズないんだけどな、――――」


「……?」


 煙草の灰が、レコード針と同期して落ちる。


 ゆるやかに伸びた、神秘を思わせる黒い髪。お互い様だが背丈も何も変わっている。恐らくは、その後歩んだ人生さえ。


 幼い頃の話だ。とても短い時間を、今でも大事にしまっていた。



 ――それは、店内で再び流れ始めるメロディのように。


 別離で止まっていた時間が、もう一度はじまった。


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