2.

 彼が十歳のころだったらしい。


「ほかに男ができて、そいつと一緒になるから、別れてくれって」


 日曜の朝、久しぶりの家族そろっての食卓で、いきなりそう切り出したそうだ。


「あの女、外資系でバリバリ働いてたから、慰謝料なんて屁でもなかった。……コブがついてると邪魔だからって、俺の親権も放棄されたよ」


 ありえない話じゃない。

 わたしのママだって、わたしが生まれる前に確か一度離婚してたはず。……でも、十歳になる息子まで捨てるっていうのは、確かにちょっと、めずらしい。


「親父はさ、本当に母さんのこと愛してた。子供の俺からみても恥ずかしいくらいにぞっこんで、家事もなにもかも、自分でやってた。浮気なんてするわけないって、ずっと信じてたんだぜ……それをあいつは、あっさり捨てやがったんだ。古い家具でも取り換えるみたいにさ」


 スニーカーのつま先で足元の地面を削りながら、彼は続ける。


「親父はさ、お前は気にするなって笑ってるけど……わかるんだ。すげえ無理してるの。あの女の稼ぎがなくなったから、家も引っ越さなきゃいけなくなった。家族の幸せを、ぜんぶ、あいつがぶち壊しやがった」


 押し殺した声は震えていた。


 そういう、ことだったんだ。

 彼がわたしを……ううん、わたしだけじゃない、女の子全員を見るときの、あの冷たい視線を思い出す。

 彼は、わたしたちの向こうに、自分たち家族を不幸にした、お母さんの影を見ていたんだ。


 彼は言い終えると、もうすっかり暗くなった空を見上げて、口をつぐんだ。


 静かだ。

 さわさわと、草木の揺れる音だけが聞こえる。

 彼の顔は、いつの間にか自動で点灯していた白熱灯の影に隠れて見えない……だけど、なんだか泣いているように、わたしには思えた。


 胸がきゅんと痛くなる。

 ずっと心にしまいこんでいた辛い記憶を話してくれたことへの、嬉しさと、愛おしさ。


 力になりたい。

 そばにいたい。


「つらかったんだね」


 自然とわたしは、彼の手に、自分の手を重ねていた。

 ごつごつした、冷たい肌。びくっと硬直したあと、少しずつ力が抜けていく。わたしの体温が伝わって、ゆっくりと暖まっていく。


 しばらくして、彼は鼻をすすってから、口を開いた。


「……お前からすりゃ、やつあたりみたいなもんだよな。ごめん」

「そんなことない」


 わたしは微笑む。


「話してくれて、ありがとう」

「別に」


 照れ臭そうに目をそらす顔がかわいくて、わたしはまたきゅんとしてしまう。

 ふと、わたしはいまのシチュエーションを意識した。


 誰もいない学校。


 大好きな彼と、ふたりきり。


 ――心臓の鼓動が高くなる。


「お前さ」


 と、彼は言う。


「俺に振られたあと、誰かと付き合ったの」

「う、ううん」

「佐々木のやつが泣きついてきたぜ」

「あー……」

「付きあってやれよ。あいつもさ、ああ見えて、いい奴だぞ」


 そう言って笑う横顔を、わたしは見た。


 駆人くんは、嘘をつくのが下手だ。

 逸らした視線。ちょっと上ずった声。


 きっと彼はいま、言葉とは正反対のことを思ってる。うぬぼれ? ううん、違う。自分でもよくわからないけど、きっとそうだという確信がある。


 ……だからわたしは、こう言うんだ。


「ううん。付き合わない」

「……なんで?」

「駆人くんが、好きだから」


 彼は振り返った。目と目が合う。そこにあるのは、いつものあの、軽蔑したような光じゃない。それがわかる。


「……ほんと、変なヤツ」

「知ってるよ」

「俺でいいのか?」

「駆人くんがいいの」


 わたしは言う。


「初めては、駆人くんがいい」


 彼はちょっと赤くなった顔で、「しゃあねえな」と言った。


「別に、いいよ。どうせ誰でもかまやしねえんだ、こんなの」


 そうして私たちは、どちらともなく手を取って立ち上がる。

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