Chapter8
ウィリアムが家を出たのは十九歳のとき、スペンサーという家名に嫌気が差したからだ。
欧州でスペンサーの名を知らぬ者はいない。それほど高貴な血も、ウィリアムには重荷でしかなかった。
大学に進学してからは、すぐに休学届を出して旅に出た。
あらゆる土地を巡ったものだ。当然金はなく、家の支援など受けるつもりもなかったから、ほとんど無一文の旅だった。
幾度となく、死にかけもした。
森の奥深く、妖精が住まうと言う未開の地に足を踏み入れた時のことだ。地竜のエサになりかけたことがあった。
ぬかるむ地面に足を取られ、太い木々の群れに道を阻まれる。
遂に地竜の巨大な咢が眼前に迫り、最期の時を覚悟した。その時――
「ダイジョウブ……アキラメナイデ!」
片言の言葉。だが、思いを伝えるには十分すぎる、そんな少女の叫び声。
木の上から地竜めがけて石槍が放たれる。地竜はわずかな時間、身悶えた。
「イマ、ダヨ」
「あ、ああ!」
軽い身のこなしで木から降り立った少女。彼女に手を掴まれて走り出し、ウィリアムは間一髪、九死に一生を得た。
森を抜け、彼女の住まう集落へと導かれたウィリアム。
振り返った少女の笑顔を、ウィリアムは今でも覚えている。
この笑顔をずっと見ていたいと思った。
たとえ彼女が自分とは違う存在だとしても。
その手に、その髪に、その耳に、触れていたいと思った。
***
「スペンサー様? どうなさいましたの?」
高級ブティックの一角。アネット・ウェルズリーに呼ばれ、ウィリアムは彼女のいる方へと歩いた。
「ほら、これなんていかがでしょう?」
アネットは嬉々として、マネキンが身にまとう白いドレスを指差した。派手すぎやしないかと思う。が、値段を見て納得した。軍人の安月給じゃ、気の遠くなるようなローンを組まないと買えない額だ。
「ああ、よく似合ってるよ」
気のない返事を返すウィリアム。だが、そんな彼の気など知ってか知らずか、アネットは嬉々とした顔で店員を呼んで寄越した。どうやら即決であのドレスを買うらしい。
実際の所、女物の服の良さなんてウィリアムには分からないし、アネットが何を着ようとも、自分にとってはどうでもいいことだと思っている。
街は、確かに活気に満ちている。基地のお膝元だけあって、ある意味では平穏が保たれているのだろう。人々もそれを享受し、この街を発展させてきたのだろう。
けれど、ウィリアムにはそれらの全てが色褪せて見えた。きっと今は、何を眺めても同じようにしか感じない。
足りないのだ。一つだけ、圧倒的なものが。
彼女がいるだけで、ウィリアムは強い意志を持つことが出来る。何事にも屈せず、敢然と立ち向かうことが出来る。敵が、人類の天敵たる《ドラゴン》であっても、だ。
そんな彼女は、今ここにいない。
ミイナ・ミニックは、ここにはいないのだ。
「スペンサー様ったら、先ほどから何をそんなに上の空なんですの? まるで私なんて眼中にないみたい」
アネットが不機嫌そうに口をへの字型に歪めた。小さい頃から社交界に出て可愛がられた彼女は、他人の視線にはひと際敏感と見えた。
「いや、そんなことはないさ。俺は……」
「嘘ばっかり。まだ、あの猫の事を気にしてらっしゃるの?」
図星だった。そして、肝心な時に嘘をつけないのは、ウィリアムの性質の問題だろうか。
そういうウィリアムの態度にアネットは呆れ顔で溜息をつく。
「彼女は所詮、猫なのですよ? 獣の耳と尻尾を持った獣です。森の中でネズミを狩って生きるのがお似合いの連中ですわ。それを、貴方のような気品あるお方が気になさることなんてないでしょう」
アネットの物言いは刺々しい。ことにミイナや、亜人種のこととなると、甚だ攻撃的だった。しかして、彼女の持つ美貌が言論の威力を倍加する。それ故、彼女の言い分は常に正当化されて、如何なる我儘であってもまかり通ってしまう。
ウィリアムがまだ、嫌々スペンサー家の庇護下いたとき。連れていかれた園遊会で出会った彼女は、その時から今の性格の片りんを見せていた。その彼から、彼女の強情高飛車は何も変わってはいない。
だが、あの亜人排斥を訴える貴族の家系に生まれたのだ。そんな環境が、アネットをそうさせたのだとしか、言うほかない。何もアネットの家柄だけではない。貴族と名のつく人々のコミュニティが、亜人と言う存在を嫌悪する。ただ下賤の一言で蔑み、排除しようとする。厄介なことに、彼らはそれをするだけの権力さえある。
そんな醜く捻じくれて肥大化した社会が嫌で、ウィリアムは逃げ出したのだ。
そして、彼は幸いにもミイナに出会った。彼女の暖かな優しさに触れて、純朴さに癒されて。いつしか、共に生きていきたいと思った。
だが、外の世界に憧れて、遂には戦うことさえ選んだミイナ。だが、彼女が人間社会に飛び込んでどんな仕打ちを受けてきたか、ウィリアムが知らないわけがない。
それでも、ミイナは笑顔でいる。ウィリアムの前では、泣きごと一つ言わず、笑顔で傍らにいていくれる。それが、どれだけウィリアムの心の支えになったことか。
ウィリアムの胸の奥にあって蠢く感情は、きっとそれのせいだ。少女を、とんでもない悪意のるつぼへ連れてきてしまったという、罪悪感。
知っているのだ。アネットの言っていることも、あながち間違いではない事を。
自分の気持ちはどうあれ、ウィリアムには貴族の出自がある。それは社会に大きな影響を与えることのできる立場だ。貧乏軍隊の一兵士とは、発言力が違う。
そんな力を、自分の息苦しさから放棄している。それが逃げでないと、何故言える。そんな感情が、余計にウィリアムを苦悩させた。
だから、ここに来た。ミイナとではない。このアネット・ウェルズリーを伴って。
と、物思いに耽るウィリアムの目の前いっぱいに、アネットの顔が飛び込んできた。眉を吊り上げて、頬を膨らませている。
「ウィリアム様!? 私と言うものがここにいながら、どうしてそのようによそ見なさるのです!」
「あ、すまん……ついぼーっとしていた」
「まったく、ウィリアム様は女性への配慮が足りません! ……私の気持ちも考えて欲しいものですわ」
「え、今なんて」
呟くように言った、アネットの言葉尻は聞き取れなかった。彼女は赤面して、ぷいと視線を外した。
「何でもありません! 今日のパーティでは、くれぐれも気を付けてくださいましね?」
ウィリアムがミイナの誘いを蹴ってこの街にやって来た理由はまさにそれだった。
貴族たち、地方の有力者が定期的に集う寄合が、今日この街で行われる。アネットの話では、訓練が急きょ取りやめになったのもこれが原因だ。正式配備の決まった《フィギュライダー》のお披露目も兼ねているのだという。
この兵器の配備に、資金と口利きを図った連中もいるのだろう。その成果を誇示するための会でもある、というわけだ。
そして、その場の主人公は間違いなくこのアネットと、ウィリアムになる。当然だ。《フィギュライダー》のパイロットであり、それを指揮する立場となる人間。
且つ、貴族と言う身分を持つ人間。
当然だが、彼はそんなメンツとエゴをむき出しにするようなパーティに参加するつもりは毛頭なかった。それどころか、嫌悪さえしている。
けれど、今まで検疫軍にあって身分を隠していたウィリアムの居場所が掴まれてしまった。アネットが送り込まれたのがよい証拠だ。そうなれば、スペンサーの家は彼がそこにいる事を許さないだろう。ウィリアムの意思は関係ない。奴らがそうすると決めたなら、それは覆るはずがない。
ならば、彼にもそれなりの考えがある、ということだ。せめて、奴らから譲歩の一つでも引き出させてやる。
「アネット。分かってると思うが」
「ええ、存じていますとも」
彼女は嬉しそうに笑って彼の腕に手を回した。
「スペンサー様がお家にお戻りになられるのでしたら、お父様にもウィリアム様のお気持ちをお伝えして差し上げます。もちろん、私の意志として!」
そうだ、これでいい。ウィリアムは自分に言い聞かせた。
人間至上主義のウェルズリーが方針転換すれば、世論は一気に亜人擁護へと傾く。それは、彼女の立場の変革にも繋がるはずだ。
このパーティが終われば、自分はスペンサーの実家に戻らざるを得ないだろう。そして、操り人形のように職務を遂行することになる。
ミイナは、とても連れて行けない。権謀術数の交錯し、誰が敵とも味方とも知れぬ世界は、彼女には似合わない。
けれどせめて、彼女がこの先も道に迷わぬように。人に絶望せぬように。
きっと、もう会えなくなる。その気持ちだけが、ウィリアムの中で、痛い。
「さあ、そろそろ次のお店に参りましょう? パーティまではまだ時間がありますもの。それともお食事にいたしますか?」
アネットがウィリアムの腕を引っ張った。
居並ぶ店員たちが、皆一様に二人に向けてにこやかに一礼し、その中を二人は歩いていく。
不意と、視線の向こうのショーウィンドウに並ぶアクセサリーが目に留まった。真赤な宝石をたたえた指輪。その色は、どこかあの少女の瞳に似ていた。
ふと、思う。あの指輪を彼女にプレゼントしたとしたら、と。
少し待つように、アネットを呼びとめようとした。その時――
轟音。
何かが炸裂し、竜巻のような突風が襲った。
瞬間、吹き飛ばされそうになったアネットを庇い、ウィリアムは彼女を抱きしめたまま地に伏した。
床に投げ出されながらも、なんとか事なきを得たウィリアムは、腕の中に抱かれた少女の無事を確かめた。
「大丈夫か! ミイ――!」
思わず口からこぼれたのは、ここにいない少女の名前だった。違う。ここに彼女は、いない。
「アネット……怪我はないか?」
「え、ええ……でも」
「外に出る。様子を確かめるぞ」
怪訝そうなアネットであったが、言葉を発する暇は与えられなかった。
それより先に、また荒れ狂う暴風が二人を襲った。今度の爆発は、先ほどのそれよりもさらに大きい。
周囲のざわめきは、間もなく悲鳴に変わった。敷地の一角が崩落したのだ。同時に火の手があがり、その一帯はたちまち恐怖のるつぼと化した。
逃げ惑う人の群を掻きわける。ようやく入口まで戻ってきたが、すでに夥しい人々が自動ドアの前にひしめき、すでに破壊され役目を果たさないドアを叩いていた。ガラス扉の向こうは瓦礫で見えない。
「ちっ、こっちはダメだな」
「ウィリアム様……」
手を引かれるアネットが、消え入りそうな情けない声で呼ぶ。検疫軍に入隊した兵士と言え、まだひよっこもいいところの新米だ。それも温室育ちのお嬢様、さすがに、この状況で冷静に振る舞えと言う方が無理か。
やむを得ない。ウィリアムはアネットの手を引いて、崩れた壁へと駆け寄った。そこから外の光が漏れている。少し身体を屈めれば、どうにか脱出できるほどのスペースがあった。
アネットにその場で待機するように言って、ウィリアムは慎重に瓦礫の山を登りだした。天井付近に出来た穴から、ゆっくりと頭を出して外の様子を伺う……と。
「ひどい臭いだ……こいつは――」
強烈な生臭さが周囲に充満していて、ウィリアムは思わず鼻を覆った。肉食獣。それもとびきり巨大なやつの体臭。
ウィリアムは、この臭いの正体を良く知っていた。
この臭いが立ち上る時、それは、おびただしい命の灯が消える時。
あらゆるものを見下し、すべてを灰燼に帰す、死を運ぶ獣。
巻き上げるような暴風が吹き荒れる。まるで、洗濯機に突っ込まれて揉みくちゃにされているような中で、ウィリアムは確かに見た。
巨大なトカゲのようなシルエット。蝙蝠か、あるいは地獄の悪魔を彷彿とさせる翼。無作為に獲物を探す目はひっきりなしにギョロギョロと動いている。
血の気が引いて、聴覚が遠のくような感覚。奴らと対峙する時はいつもこうだ。きっと、根は臆病者だからだろう。
だが、立ち向かわなければならない。それが彼に課せられた使命であり、そうすることで生きながらえてきた自負があるからだ。
敵は、今も唸り声を上げながら翼をはためかせるそれは、紛れもなく《ドラゴン》だった。
ウィリアムは懐から拳銃を引き抜いた。今日日、軍用としては珍しい回転式拳銃である。特別なのは弾丸で、装甲車程度なら撃ちぬける特製の貫通弾だ。もっとも、それでさえドラゴンに対しては豆鉄砲も同じだが。
さて、これでどこまでやれるか。ウィリアムが撃鉄を起こした時、先ほどまで人間を探して首をせわしなく動かしていた《ドラゴン》が、視線を一所に合わせた。何かを凝視している。
泣き叫ぶ声が聞こえた。それも、《ドラゴン》の視線の方角から。
現地民と思しき年端のいかない子供が三人、《ドラゴン》から逃げるように走っていた。
そうだ、走れ。ウィリアムは心の中で叫ぶ。奴らはお前たちに気付いたぞ。直に、その獰猛な口を大きく開けるだろう。そうなれば猛火により一瞬で焼き尽くされる。灰もの一つも残らない。さあ、走れ走れ。
涙と鼻水と血で顔をぐしゃぐしゃにしながら走る少年少女を見守るウィリアム。建物はもうすぐ、そこまで逃げ込みさえすれば。
だが、間に合わない。
《ドラゴン》の牙が見えた。同時に、赤く燃え上がる炎が牙の奥から膨れ上がった。
「ちっ――」
ウィリアムは迷わず構えた拳銃の引き金を引いた。一発、二発、三発。いずれも《ドラゴン》のもっとも柔らかなところ、眼を狙ったが、跳ね返された。
だが成果はあった。ドラゴンがウィリアムの方を向く。その間一髪で、子供たちは何とか逃げおおせたようだ。
ほっと安堵の息を吐くが、まだ危険が去ったわけでがない。
「あとは……俺がどう逃げるかだな」
今にも放たれそうな《ドラゴン》の火球をけん制するため、彼は残りの弾丸を立て続けに叩き込んだ。
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