Chapter7

 その少女は、ずっと外の世界を夢見ていた。


 少女は森の民である。木々の生い茂った山の中に集落を築き、獣を狩って日々の糧としてきた。

 彼女にとって、遊ぶことと狩ることは同じことである。けれど、物心ついたころから、ずっと胸の奥が満たされないでいた。


 山のしきたりである。決して、この集落から出てはいけない、と。

 二人暮らしの祖父は、少女にそれを厳命した。

 今はもういない彼女の父と母は、そのしきたりを破って外の世界に出て行ったのだという。そして、二人とも帰ってはこない。


 山の頂の、そこにそびえる最も高い木のてっぺんからだけ見える外の世界。木造ではない、鉄とコンクリートと煉瓦できた巨大な建物の群れを、少女はずっと眺めて暮らしていたのだ。

 いつまで待っても帰ってこない父と母は、ひょっとしてまだ、あそこにいるのではないかと。

 それだけではない。好奇心の塊である少女には、ずっと不思議に思っていることがあったのだ。


 外の世界にいるという、『耳のない人々』の噂。


 彼らが、あの広い外の世界でどんな暮らしを送っているのか。少女にはたまらなく不思議だったのだ。

 けれど、外の世界にツテもない。家族を置いていくこともできない少女は、ただ木の上から、そんな未知の世界に憧れを抱くほかなかったのだ。


 転機が訪れたのは、ある夏の暑い日。狩りの最中、暴れる地竜に出くわした時だ。

 何もしなければいたって大人しいはずの地竜がこれほど怒り狂うとは、いったいなにが起こったのだろう。


 隠れて様子を伺う少女の前に、そいつは突然現れた。

 すらっと背の高い男の人。けれど、その身のこなしは少しドンくさい。ぬかるんだ土に足を取られながら、息も絶え絶えに走る姿は、お世辞にも格好いいとは言えない。

 けれど、少女はそんな男の姿が気になって仕方なかった。


 だって、初めて見たのだ。

 少女の一族にはいない金髪も、蒼い切れ長の瞳も。

 それに、一目見て少女が叫びをあげた、その特徴。


「あの人、耳が……ない!」


 少女は一目散に、地竜へ向かって駆け出した

 横合いから飛び出した少女に、地竜も、男も驚いただろう。だが気にせず、少女は男の手を取った。

 地竜の牙からようやく逃れた時、ふと見合わせた彼の顔。


 少女は今でも覚えている。


 雪のように真っ白い歯を。


 三日月のような薄い唇を。


 太陽のような微笑みを。


 きっとその時だ。

 少女は、初めて恋をした。


***


 冷たいコンクリートの床が、ミイナの体温を徐々に奪っていく。


 狭く、真っ暗な営倉の隅で、ミイナは孤児のように小さく座り込んでいた。

 今のミイナに自由はない。手には手錠を、目の前には鉄の扉。


 当たり前だ。メリッサの前で、何を仕出かしたのか。本来なら、即刻憲兵隊に引き渡されて、過酷な取り調べを受けてもおかしくない。

 だが実際には、憲兵の一人も現れず、ミイナは一時間近くこの部屋で放置されている。


「……つぅ」


 右の頬が焼けるように痛んだ。レーザートーチは頬を掠めただけだが、それでも痛々しい傷になって残った。ガーゼのあてがわれた上から両手で触れると、ジワリと湿り気を帯びている。鉄の臭いがした。

 と、重々しい音を立てて鉄扉が開く。同時に、メリッサの疲れた声が狭い営倉に響いた。


「ああそうだ。奴らにはちょっとした喧嘩だと伝えておけ。いいか、絶対にミイナ君の話はするなよ……それから、オーバーホールは――ああ、うん。それでいい。改修作業の方を優先するんだ。頼んだぞ」


 携帯端末の電源を切るメリッサ。錆びた蝶番がギイギイと音を立てて、扉は再び、光に溢れた外への道を閉ざした。


 コンクリート床に滴った水の跡をずっと見つめていたミイナは、上目づかいにメリッサを見た。

 目の下の黒ずみが、前にも増して濃くなっている。髪はボサボサ、白衣も汚れてしわだらけだ。その瞳にはいささかの曇りもないが、怒り、呆れ、諦め、そのいずれともつかない苦々しい色を宿していた。


「愚かな真似をしたな。ミイナ・ミニック」


 硬質的な声音。とても友人に投げかける声ではない。


「トーチで何をしようとした。自殺か?」


 違う。だが、ミイナは答えなかった。それを言って何になるというのか。どうせ誰も助けてはくれないし、慰めてもくれない。馬鹿な奴、と哂われるに決まっているのだ。

 だから、ミイナは口を閉ざして目を逸らした。


「なんとか言うんだ……ミイナ・ミニック……!」


 激昂したメリッサがミイナの襟首を掴みあげた。ミイナが容易く組み伏せられたはずのメリッサが、今は恐ろしいまでの力で迫ってくる。その手は、かすかに震えていた。


「……知らない。知らないよ、そんなの」


 頑ななミイナに、メリッサは深いため息を漏らした。ミイナを離すと、彼女はその隣に座り込む。彼女の口元でフリントを擦る音がして、白い煙が立ち上った。


「ハカセ、くさい……」


「知らん。君がしらばっくれるなら、私も君の諫言は無視する」


 メリッサの薄い唇からドーナツ状の煙が昇っていく。狭っ苦しい営倉の中に、換気扇などある訳がない。室内は一気に紫煙で満たされた。


 ――それから、どれくらい経ったか。少なくともミイナはじっとしたままうずくまり、メリッサはその隣でうず高くタバコの吸い殻を積み上げていた。

 そんな頃、ようやくメリッサが口を開いた。


「なあミイナ君。私は君に一定の敬意を抱いているつもりだ。君が悲しむのなら、少しくらいは君の助けになってやりたいと思ってる」


 その声は、ミイナに掴みかかった時と打って変わって、ずっと優しいものだった。まるで自分の子供を慰めるように、慈しむように。

 ふと、思い出した。初めて彼女と出会った時の事を。


 三年前、まだ一歩兵に過ぎず、生身でウィリアムと共に戦っていた時のこと。定期の身体検査を受けたミイナとウィリアムは、見知らぬ男たちに護送され、ある施設に連れてこられた。その時、そこにいたのがメリッサ・スーと、そして二機の《フィギュライダー》。

 タバコを吹かしたメリッサがこちらを見るなり言った言葉を、ミイナは今も覚えている。


『君らが私の子供に乗るんだな。なら、君らも私の子供同然だ。よろしく頼むよ』


 最初、自分よりも背丈の低い少女が、いきなり何を言い出したのかと思った。だが、彼女が本当にミイナを気遣ってくれた。戦友はたくさんいても、友達と呼べる人のいないミイナにできた、初めての友人。


 ちんちくりんで、我儘で、ヘビースモーカーで。


 でも、大切な友達。


「駄目、なのかな」


 ミイナは今にも消えてしまいそうな声で言った。


「何が、駄目なんだい?」


「私、ウィリアムと一緒にいちゃ駄目なのかな」


 太腿に顔を埋めて呟く。くぐもったその声は苦悶に溢れている。まるで頬の傷の様だ。


「私は亜人で、ウィリアムは人間。ハナから出会っちゃいけなかったのかな。私とウィリアムじゃ、釣り合わないのかな」


 ミイナは自分の耳を弄る。顔の真横に着いているのでない、頭髪の中に紛れ込む、獣の形をした耳を。


「まさか、それでトーチで耳を? ……はぁ。なんてこった」


 メリッサが頭を抱えた。幼稚な事を、とでも思われたのだろうか。

 だが、ミイナにはひどく切実なことだ。この毛皮に覆われた三角形の両耳が、彼女の亜人としての特徴である。同時に、どう取り繕っても偽ることのできない、ミイナが純粋な人間ではないことの証。

 それを、切り取ってしまいたいとさえ思う程に、ミイナは思いつめていたのだから。


「……だから言いたくなかったんだよ」


「ああ! 違う! そうじゃない……そうじゃないんだよ」


 慌てて首を振るメリッサ。その勢いで眼鏡がずれ落ちる程だ。


「まったく、亜人と言うのはどうしてこう一途なのか……って、私も人の事は言えんか……」


「ハカセもって、どういうこと?」


 ミイナは小首をかしげた。獣耳を持たない、亜人ではないメリッサが、ミイナに何の共感を抱くと言うのか。


 メリッサは少し考え、しかし決意したようにミイナを見つめた。


「これを、見たまえよ」


 巻き毛の髪をかき上げるメリッサ。

 ほっそりとした横顔の、白い肌が露わになる。そこには、彼女の小さな外耳が顔を覗かせるはずだった。いや、事実あったのだ。

 だが、その耳はミイナの想像とは著しく異なるものだった。青黒く変色し、ケロイド跡のようにグズグズに荒れていた。しかも、その耳介はひどく歪で、欠損が見て取れる。

 まるで、鋭利な刃物で耳輪を切り落とされたような。丸みを帯びた輪郭が、そこだけ失われている。


「グロテスクだろう? だが、君がやろうしたことの末路だよ。これは」


 メリッサは気恥ずかしそうに言った。

 痛々しい傷跡である。既にその傷は塞がっているが、その色も、形も、もう元には戻らないのだろう。そのように、彼女が切り落としたのだろう。


「な、なんで……? ハカセがそんなことを……?」


 メリッサは普通の人間のはずだ。病気、あるいは戦傷? どちらにしても、彼女の言い草を聞けば分かる。それは彼女自らが切り落としたのだと。


「こう、自己紹介すればわかるかな? 私は……スーの森、メリエスの娘。メリッサ。メリッサ・スー」


 それは、森に生き、部族の伝統を誇りとする人々の名乗り。

自然を愛し、科学を忌避し、決して人間と交わろうとしない人々の末裔。


 その人々の名は――


「ハカセ……エルフなの!?」


 ミイナは素直に驚愕した。


 エルフ、森で生活する亜人。その特徴は長く伸びた耳だという。同時に、エルフは皆、目の覚めるような美形だとも。

 しかし、メリッサはどうかと言われれば、そのイメージからは大きくかけ離れている気がする。


「……君の顔で、大体どういう風に思っているか分かるよ。ああ、どうせ私はチンチクリンだろうね」


 メリッサの乾いた笑い声が響いた。心なしか、目も死んでいる。


「ちがっ、違くって……だって、ハカセはハカセでしょ? エルフとは一番遠いところにいる気がするよ?」


「うん。だから、森を出た」


 かき上げていた髪で再び耳を隠すメリッサ。事もなげに言うその表情は、どこか懐かしむようでもある。


「エルフはどちらかと言えば保守的な種族だ。でも私は、好奇心だけは旺盛でね。ある時、森に訪れていた調査隊の乗ってきた車が気になって……そのまま忍び込んでしまった」


「で、どうなったの?」


「調査隊で身元を引き受けてくれる人がいてね。そのまま、彼らと生活を共にした。今じゃ立派なエンジニアさ。もっとも――」


 エルフとしての象徴は失ったが。メリッサの自嘲じみた笑顔が、暗にそう言っている気がした。


「どうして、耳を切ったの?」


「この流れでそれを聞くのかい? ……まあ、いろいろあったのさ、君と同じようにね」


「そっか。そうなんだ……」


 頭は良くないという自覚はあるが、バカではないというミイナである。まして、メリッサの歩んできた道は、ミイナも一目散に走ってきた道のりだ。その苦悩は、きっと想像に難くない。


「私はね、ミイナ君。今でも、この行いが良かったかどうか分からないんだ。


「ハカセでも?」


「そう、天才の私でもね。私はエルフではなくなった。が、だからとて人間になったわけでもない。人間でもエルフでもない、中途半端な存在だ……」


 髪の上から、耳に触れるメリッサの顔を見ればわかる。後悔はしているのだと。それでも、彼女が間違いだったと断定できないのは、その先に続いている『今』があるから。


「ま、よく考えることだ。ウィリアム君がどうして君と共にいる事を良しとしたのか。答えはそれほど難しくないはずだがね」


 メリッサは立ち上がり、再び営倉の扉に手をかけた。


「食事を持ってくるよ。落ち着いたら、ハンガーに戻ってきたまえ」


 ミイナはまだ立ち上がれないでいる。色々な気持ちがぐるぐると一緒くたにかき回されている。まだ、どんな顔でウィリアムに会えば良いのかも分からない。


 けれど、メリッサの思いは確かに伝わったから。


「ハカセ……ありがとう、ね」


 立ち止まるメリッサは、後頭部をわしわしと掻いた。


「まったく、こういう事も年長者の務めかね……あまり私を心配させないでおくれよ?」


 うなじを赤くしたメリッサを、ミイナは少しだけ微笑んで見送った。

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