Chapter5

 教官職は激務でこそないものの、連日一定の教導を課せられていた。故に、ミイナは毎日フィギュライダーのコックピットに収まり、新米の温い攻撃を適当にかわし、それが終われば、自分のデスクに戻って報告書を書くことに従事することになった。


 元来、身体を動かすことは得意なミイナだが、じっとしていることが苦手な彼女にこの作業は堪えた。

 殊に、報告書を書くのは苦悩の極みである。

 いつもならウィリアムに任せていた仕事を自分でやらねばならず、結果的にそれだけで半日近くかかってしまうミイナには、ほんの僅かな暇もない。


 それでも、やっと訪れた丸一日の休日は、彼女を狂喜乱舞させるに十分なものだった。

 珍しく仕事をきっちり前日に終わらせたミイナに死角はない。朝六時に起床し、シャワーを浴びる。

 鏡の前で、身をくねらせながら確認した尾と耳の毛並みは良好だ。身だしなみを整えて、ミイナはある決心のもとに一人部屋の士官室を出た。


 ミイナの胸中は、今、燃えに燃えているのだ。と言うのも、前日、いつも通りメリッサのハンガーで悶々としていた折、彼女が教えてくれた。

 曰く、《ワイバーン》の全面整備を行うから、どの機体も明日は動かせない。


 つまり、教導も中止。ミイナの仕事はなし。


 上から正式に通達が降りた際には、ミイナは思わず野生に戻ってそこらを駆けずり回ってしまった。


 今日のミイナの作戦はただ一つ。

 作戦内容は、ウィリアムを誘って、街へ行くこと。

 目的はただ一つだけ。

 私は、彼と一緒にいたい!


 ミイナは女性兵舎を飛び出した。三階の窓から、である。

 体重が無いみたいに着地し、そのまま軽いステップで駆け出す。息切れを起こさない強い身体が、ミイナの思いを受けて疾風の如く疾駆した。

 

***


「あら、偶然ですわね、ミニック少尉」


 忘れたわけではない。ないが、よもやここまで彼女が執拗とは夢にも思わなかった。怒りよりも先に、呆けたほどである。


 にっくきアネット・ウェルズリーが、自慢の肢体を見せつけるような流麗な私服に身を纏い、男子兵舎の壁に身を預けて立っていたのだ。


「ウェルズリー……さん、何でここに」


「今日の訓練は中止でしょう? それで、少しお出かけをしようかと思いまして」


 アネットが優雅に笑う。彼女の口調は嫌に丁寧であるが、どう考えても階級が上のミイナに対して使う言葉ではない。

 つまり、アネットがミイナに抱いている感情が決してポジティブなものではないということだ。


「それじゃあ、はやくと行けばいいじゃない。外出許可くらい、私が書いてあげるよ」


 そんな感情の機微を、ミイナは本能で読み取っている。

 負けるもんか、と気持ちを奮い立たせては見たが、少し声が上ずった。


「生憎と、連れがおりますの。今日はその方とお買い物に行く予定でして」


「へ、へぇ。そうなの」


「ええ。ところで、少尉殿はどなたをお探しになられているのかしら?」


 アネットが目を細めた。上品なのに、ミイナには不快に見える笑顔。それに、何もかも見透かされているようで、思わず口を噤んだ。


「私、私は――」


 と、兵舎のドアを開く音。二人はほとんど同時に、音のする方に顔を向けた。

 珍しく私服を身にまとった男。ミイナが触れたくてうずうずする金髪をした男。ずっと一緒に戦ってきた、相棒であるはずの男。


「ウィリアム!」


「スペンサー様!」


 二人同時に、表情がほころぶ。嬉々とした声音で叫んだ。

 だが、悪い予感は当たるものだ。案の定、この高飛車な少女もまた、彼を待ち望む一人だった。


 ミイナは思わず、アネットをジト目で睨んだ。だがアネットは意にも介さない。自信満々に勝ち誇った表情。

 ミイナには怪訝さだけが残る。

 ウィリアムは、そんな二人の前に歩を進めた。ミイナを見、次いでアネットを見、その表情はどこか浮かない。


「……よう」


「おはよ!」

「おはようございます」


 またしても同じタイミングで二人の挨拶が重なる。

 ミイナは、今度こそはと先制すべく、ウィリアムの腕を取った。


「ねえ、今日休みでしょう? だったらこの前の約束、遊びに行こうよ!」


 基地の近くに大きな街がある。そこなら、目一杯遊べるところがあるはずだ。

 何なら、眠くなるのを我慢して、博物館だとか、美術館を見て回ってもよい。とにかく、彼の隣を歩きたいのだ。今まで当たり前だと思っていて、けれど、そうではなかった大切なことを、今こそ噛み締めたい。


 それが、自分にとって掛け替えのないものだと分かったから。


 だが、ウィリアムの反応は鈍い。何か苦しげに唇をかみしめて、その表情は冴えない。

 そういえば、気のせいだろうか。いつもはもっとラフな格好のウィリアムが、今日に限ってずっと着飾っているように見えた。身なりを整え、フォーマルなスーツに身をまとい、まるでパーティーにでも出席するように。

 普段はガサツで、無精ひげも気にしないようなウィリアムが? そんな、あり得ない。


 だが、紳士然としたその男は、間違いなくあのウィリアムだ。

 ミイナの知らない、ウィリアムだ。


「ねえ、ウィリアム?」


 上目使いにおずおずと声をかけるミイナ。

 だが、彼の瞳に映るのは――


「……すまない」


 肘に絡められたミイナの手を、ウィリアムは引き剥がした。いつも頭を優しくなでてくれた、あの手で。


「……ウィリアム?」


 あまりに頑なな態度。今まで見たことのない冷たい眼差し。


「スペンサー様、どうかお先に行っていてくださいな。私は、少尉殿とお話が」


 ウィリアムは戸惑いつつも頷き、兵舎の向こうへと去って行った。残されたのはまた、ミイナとアネットの二人きり。

二人の表情はほとんど真逆だった。勝ち誇った笑顔を見せるアネット。ミイナはうつむいて、奥歯を噛み締める。これがどういう状況か、互いに理解しているから。


「ウェルズリーさん、ウィリアムに何を言ったの?」


 ミイナは震える声で問いかけた。


「何を言った、なんて人聞きの悪いこと。別に何もしていませんわ。そう、強いて挙げるなら、生来の交遊を深めただけ、かしら」


 アネットの言い様は、どこか演技じみていた。うっとりと、自分の役柄を愉しむように。

 今まで、ミイナの中で積み上げられてきたものが、一気に崩れたような衝撃だった。何故なら、今の彼女を形作るのは、他でもないウィリアムなのだ。それ故に、ウィリアムとて、自分の事を特別に扱ってくれていると思っていた。というよりも、確信に近かったと思う。


けれど、現実はそうではなかった。


 ひょっとしたら。と、ミイナの脳裏を嫌な思いが駆け抜けていく。少し考えただけで、体中の力が抜けて、へたり込んでしまいそうになる。でも、止まらない。

 ひょっとしたら、自分は、ウィリアムにとって特別でもなんでもない。ごく平凡な存在なのではないか、と。


 それは、嫌だ。


「少尉殿は、何か勘違いをなされているようね」


 不意にアネットの声が耳を突いた。彼女の声は、明らかにミイナを蔑む口調だった。

 それが分かっていたから、ミイナは肩を震わせる。何故か、分かったのだ。アネットが言おうとしていること。

 つまり、ミイナ自身も長く考えないようにしていたこと。


「あなたは亜人で、スペンサー様は人間なの。お分かりですか? そもそも、住む世界が違いますの」


 アネットの高飛車な笑い声は、さながら勝利宣言だった。

 ミイナは言い返せない。言えるものか、そんなことはずっと昔から分かっていたのだから。

  

 でも、もう限界だ。


 ミイナの心の中で一本だけ残っていた、か細い柱が、ぽきりと折れる音がした。


「せっかくだから、今のうちにはっきりしておきましょう。ネコごときじゃ、スペンサー様に釣り合わないの」


 アネットの声が遠のいていく。ミイナには、もう何が何だか分からなかった。

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