第27話 さすがに見逃せない
“スーパーマーケット天堂”の寿司作業場の扉が開き、そこから弥生が顔を出した。
「おーい、闇の王」
彼女の声が室内に響く。一人を除き、その作業場の全員の視線が弥生へと注がれた。唯一振り向かなかったその人物――扉から最も離れた壁際の作業台で、包丁を握っていた少年の手が、ぴたり、と止まった。
「闇の王。返事しろ、おーい」
弥生がその背中に向けてさらに呼び続けるも、彼は反応しない。彼は震える手で包丁を握り直し、赤身の塊へその刃先を入れた。
寿司売場担当の木内夫人が、首を傾げて弥生に語り掛けた。
「あの……、三浦さん? 誰を呼んでるのかしら?」
「そこでマグロ切ってる、闇の王よ」
弥生が少年の背中を指さすと、作業場内の全員の視線が彼に注がれた。木内が怪訝な顔でその名を確認した。
「あ、ああ、土屋君のこと?」
「土屋じゃなくて、闇の王よ」
弥生が悪魔の笑みを浮かべて口を開く。少年の背中がプルプルと震えた。
木内が「闇の王なの?」と問うと、弥生は平然と「ええ」と答えた。そして、また彼の背中に向けて声を掛けた。
「闇の王、聞こえてるんだろ? こっち向けよー」
さらに弥生が呼ぶも、彼は答えない。作業場の全員の視線を浴びながらも、黙々と手元のマグロの柵を、握り寿司用に薄くスライスしていくだけである。そのうち、弥生が痺れを切らし、その本名を呼んだ。
「土屋くーん?」
「はい! なんですか? 三浦さん!?」
本名を呼ばれると、新は即座に弥生の元へ駆け寄った。その顔には満面の笑みを湛えている。木内が目を丸くして問いかけた。
「土屋君、闇の王だったの?」
「や、やだなあ! え、演劇ですよ。そういう役をやったことがあるだけですよ!」
即座に上手い言い訳を思いつき、それを口にする新。弥生がそれに感心した様子で、口元に笑みを浮かべて口を開く。
「ま、そういうことにしといてやるわ」
「え、えと、何か御用ですか?」
バイト先では“人当たりが良く、仕事の出来る好青年”で通している新である。これ以上、彼女に“闇の王”に関わる事柄について口を開かせては敵わないとばかりに、彼はすぐさま本題へ切り込んだ。
弥生も忙しい身であり、この闇の王に構っている時間がさほどあるわけではない。彼女もまた、すぐさまその本題を口にした。
「あんたの仲間に、伝言を頼みたいのよ」
「……伝言?」
「あたし、今夜は木更津で同窓会があるから、多分、十二時まで来れないのよね」
一方的に言葉を連ねる弥生。この間、新はただ「はあ」と一言だけ相槌を打った。
「もしも暴れたら、後が怖いわよって伝えといて」
そして、弥生が新の目を睨みつけて威圧した。
「……あんたにも言ってるんだからね?」
弥生が顔をぐいと近づけて、語気を強めた。新の目が泳ぐ。
「それは、重々承知してます……」
「OK。じゃあ、頼んだわよ」
そう言い残し、弥生が作業場から姿を消した。――と、思ったら、彼女はまたその扉を開けて戻ってきた。最後に一言だけ伝えなければならないことがあったのだ。
「あ、木内さん。今日からそいつ、闇の王って呼んであげてよ。気に入ってるみたいだから」
「ちょっ……!?」
狼狽える新。弥生はそれだけ伝えると、またすぐ作業場を出て行った。まるで嵐のように現れて立ち去って行った弥生に、木内を含めた寿司作業場の面々は呆気に取られた。
やがて、木内が口を開いた。
「あ、じゃあ、闇の王さん。次は巻き寿司用のサーモンお願いね」
そう言って、彼女が彼の横に解凍したての薄桃色の切り身を置く。さらに、作業場の面々からも新に声が飛んだ。「それ終わったら、鯛も切ってね、闇の王」「闇の王、鯵もお願いね」などと、その場にいた全員が新のことを“闇の王”と呼び始めた。新は大いに戸惑った。
だが、その一方で、彼は一度弥生の言葉を心の内で反芻し、そして小さく微笑んだ。
「そうか、今夜は三浦 弥生が不在というわけだな……!」
そう呟き、口元を歪める新。するとすぐさま、彼の背後から「闇の王、マグロまだかしら?」と声を掛けられ、彼は慌てて包丁を握りなおした。
* * *
同刻、下校中の少女たちが天堂商店街へと差し掛かった。その一人――早苗が問いかけた。
「ところで、霜亜来ちゃんって、いつレベル3の魔法なんて覚えたの?」
霜亜来が少し宙を見上げて、考えに耽る。やがてその目を早苗に向け、問いに答えた。
「分からないわ。最初から使えてたから」
「マジかよ……。生まれつきってやつかあ? 不平等だよなあ」
夏樹が少し不満そうな表情を浮かべた。霜亜来が彼女の顔を見つめ、口を開く。
「先に蛇の使徒になったことが影響したんだと思うわ。クロウもそう言ってたから」
「ってことは、あたしらが蛇の使徒になれば、魔力上がるのか!」
素晴らしい思いつきを口にした夏樹。その表情がパッと明るくなった。だが、早苗が彼女のプランの多大なる欠点を指摘した。
「それだと、弥生さんを敵に回すことになるけど……?」
「すまねえ、今のは忘れてくれ」
夏樹が激しくその頭を横に振った。
とりとめの無い会話を続けながら、歩を進める三人。ふと、夏樹がまた新たな思い付きを言葉にした。
「あ! 霜亜来が蛇の使徒ってことはさ、もしかして、あたしらの味方の魔獣も作れるんじゃないのか?」
「おおー、夏樹ちゃん、賢い!」
早苗が手を叩いて称賛するも、霜亜来が無表情で頭を振った。
「多分、無理よ」
「ええ? 何で?」
「ミドが許可しないと、魔獣は生まれないのよ」
「ミドって、あの白蛇か? くそー、良い考えだと思ったのになあ!」
夏樹が頭を掻き、悔しそうに天を仰いだ。
そんな折、商店街の一画にある、とある店の前まで来ると、ふと霜亜来が歩みを止めた。その店の看板を見つめて口を開く。
「あ、このクリーニング屋さん……」
「ん? クリーニング屋がどうした?」
突然立ち止まった霜亜来に気付き、夏樹と早苗も歩みを止めた。霜亜来がじっと見つめているのは、“クリーニング店 いぬい”と書かれた黄色い看板だ。そして、彼女が二人に視線を移し、警告を発する。
「ここ、気を付けた方がいいわ」
そう言うが早いか、クリーニング店のガラス戸が勢いよく開いた。中から、クリーニング店の制服を着た従業員が飛び出し、そして叫んだ。
「上月 早苗!!!」
名を呼ばれ、早苗が振り向く。夏樹はその姿を見て、驚愕の叫びをあげた。
「うわ、出た! 金髪!!」
店内から現れたのは、蛇の使徒 乾 月比古であった。彼の父親が店主を務めるこのクリーニング店で、彼は従業員として働いているのだ。月比古は目に涙を浮かべ、想い人である早苗に襲い掛かった。
「来てくれたのか、早苗ーー!! 俺は、俺は嬉しいぞお!!」
そう叫びながら、彼は早苗に抱き着いた。あまりに突然のことに、早苗が驚き、悲鳴を上げる。
「わああああああ!?」
背筋に液体窒素を流し込まれたような、強烈な寒気が走り、早苗の身体が硬直した。そのまま魂の抜け殻の様になってしまった早苗に、月比古はその頬を密着させて、さらなる歓喜の言葉を口にした。
「会いたかった! 会いたかったぜ、早苗!! こんな所で出会うなんて、運命ってやつかあ!!?」
すると、彼の頭に小石が投げつけられた。
「こら! 早苗から離れろ、この変態金髪野郎!!」
夏樹が憤慨した様子で月比古へ抗議する。感動の再開を彼女に邪魔された月比古が、その眉間にしわを寄せて口を開いた。
「ん? 何だ手前は? 色気もクソもねえガキに用はねえんだよ!!」
「んな……、なにおう……!?」
色気が無いと言われ、カチンときた夏樹である。彼女自身でもちょっとだけ気になっていることを指摘され、わなわなとその身体を震わせた。
そして、彼女は、ふと目の端に映った、とある人物の姿を確認し、その人物を呼びよせた。
「――お、」
「おまわりさーん!!!!」
その声が商店街に轟いた。
すると、その彼方から白い自転車を駆り、驚くべき勢いで、一人の警官が駆け付けた。
「呼んだかい!? 少女たち!!」
警官が親指をぐっと立てて、爽やかに笑って見せると、月比古の顔色が変わった。
「げ、秋比古……!!」
現れた警官は、月比古の実弟である乾 秋比古である。彼は、実兄が早苗にしっかりと抱き着いている有様を見て、「兄貴……」と呟いた。そして、呆れた顔で言葉を続けた。
「それは、さすがに見逃せないなあ……」
そう言って、彼は月比古の元へ歩み寄った。彼が兄の身体に触れると同時に、ガチャリ、と金属音が響いた。
「な、何……!? 一体何の冗談だコレ!??」
月比古の両の手首にアルミ合金製の黒い手錠がはめられた。それを見た夏樹と霜亜来が目を丸くする。そして、それをはめた張本人たる秋比古が、冷静な口調で兄に罪状を告げた。
「未成年者略取誘拐、および強制わいせつの現行犯です。逮捕します」
「ま、待て、秋比古! 違う! これは愛だ! わいせつではない、愛なんだ!!」
必死に弁明を図る月比古だったが、秋比古はそんな言葉に一切耳を貸す様子はない。夏樹に向かい「犯人逮捕のご協力に感謝いたします!」と敬礼すると、夏樹もまた「ん!」と口を真一文字に結んで敬礼を返した。
「ちょっと待て! これを外せえ!!」
喚き散らす兄の肩をぽんぽんと叩き、秋比古が悪戯っぽく笑う。
「まあ、とりあえず交番まで行こうか。お茶くらい出すよ。手錠は外さないけどね」
そう言って、兄の首元を掴み、無理やり引っ張る秋比古。すると、ようやく我に返った早苗が、おずおずと口を開いた。
「あの、秋比古さん……」
「うん?」
秋比古が振り返る。
「とりあえず、三日くらい牢屋に入れておいてください」
早苗が無慈悲にそう告げた。普段から穏やかな彼女であるが、その時は珍しく静かな怒りに燃えていた。
「三日じゃ生ぬるいぜ。三年くらいくらわせてやってよ」
夏樹が悪魔の笑みを浮かべて、その言葉に便乗すると、秋比古がうんうんと頷いた。
「了解、了解。市民の訴えとあれば、仕方ないねえ、兄貴」
「違うんだ、早苗! そんなつもりじゃなかったんだあ!!」
月比古が、その身体を秋比古に引きずられながらも、必死に訴える。すると、早苗が微笑と共に、彼に言葉を掛けた。
「蛇の使徒を辞めるなら、許してあげますけど?」
口元こそ笑みを浮かべたものの、早苗の目には冷たく乾いた感情しか感じられなかった。それを目にして、己が行いを激しく後悔した金髪の男は、彼女の言葉を何度も心の中で反芻した。
「それは、いや、でも、しかし……、しかし、しかし、しかし!?」
愛を取るべきか、夢を取るべきか。心の中で自問自答を繰り返し、逆接の接続詞をいくつも口走る。すると、それを怪訝な顔で見つめ、秋比古が彼の身体をより強く引っ張った。
「何ブツブツ言ってんの。ほら、さっさと来ないと、鉛玉くらわすよ?」
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