第16話 恥知らずの蛇め
その日の昼下がり――
スーパーマーケット天堂のバックルームに、弥生の声が響いた。冷静であるようにと自制しつつも、その声色には強い怒りの感情が込められていた。
「な、ん、で、販売期限ギリギリの牛乳が、三ケースも倉庫にあるんですかねぇー?」
彼女に向かい合った一人の若い男性社員が、陰鬱な表情で、覇気なく返事をする。
「はぁ」
ただでさえ休日出勤で苛立っている弥生が、彼の様子に、その柳眉を逆立てて言った。
「あたしが休みの間、ちゃんと売場と在庫見てました?」
先日休みだった彼女が出勤してみると、彼女の売場はまるで整理されておらず、雑然とした状況だった。さらに、在庫管理も滅茶苦茶な状態で、先に売り切るべき古い商品が倉庫にあるにも関わらず、新しい商品が売場に出ているという有様だ。
彼女はその事実に気付くと、すぐさま上司である古川主任の元へ詰め寄った。彼女が不在の時は、彼が責任を持って売場の管理をしなければならないのだ。どう考えても、それは為されていない。職務怠慢もいいところである。
だが、彼女の激しい抗議に対して、彼はいつものように、ただ気の抜けた返事を繰り返すだけだった。弥生の問いかけに、彼はまた「はぁ」と返事をした。
弥生がその苛立ちを抑えきれず、ぼりぼりと頭を掻く。
「いや、『はぁ』じゃなくてさ、他に言うことがあるんじゃないの?」
その言葉にも、彼はまた「はぁ」と答えた。さすがに弥生の我慢も限界だ。彼女は、怒りで身体を震わせ、彼を睨みつけた。
「……いや、違うだろ?」
彼女が聞きたいのは、そんな気の抜けた返事ではなく、心からの謝罪と反省の言葉だ。だが、この男はそれがまるで他人事であるかのように、誰とも視線を合わせることなく、ただ覇気のない返事を繰り返すのみである。
弥生が怒りを抑えきれず、その右拳をぎゅっと握りしめて振り上げようとした。すると、その腕を抑えて、傍らの石川夫人が口を開いた。
「駄目よ、三浦さん。ちゃんと言葉で伝えないと」
石川夫人のお陰でなんとか自制心を取り戻した弥生が、一度、ふう、と深く息を吐いた。そして、また古川主任に対して言葉を掛ける。
「あのさあ、
(注:
古川はまたぼんやりと立っているだけである。彼女の声が聞こえているのかどうかも分からない。そんな様子に、また彼女の怒りは逆なでられたが、それでもなお言葉を続けた。
「なんでそれが出来ないのかって、聞いてるんですよ……?」
「はぁ」
古川はまた気のない返事をした。弥生はまた深く溜息を吐いた。何故、このような男が自分の上司なのか、と運命を呪いながら。
古川は入社三年目の正社員である。どこぞの国立大学の大学院を卒業したらしく、そこでMBAとかいう資格を取得したらしい。スーパーマーケット天堂の社長は、彼の履歴書のその項目を見た瞬間に採用を決定したらしく、入社試験も採用面接も形式だけのものをスルーさせ、見事入社と相成った。そして、入社初年度からこの店の日配主任へ配属が決まったのだ。
だが、その勤務態度たるや、怠惰の一言。いざ仕事をしようとしても、何度も同じミスを繰り返す有様で、またそれを反省する様子も無い。その部下である弥生たち熟練のパート職員らからは、“無能”の烙印を押されていた。そしてその無能主任の犯したミスの後始末のほとんどが、弥生の身に降りかかるのである。
言いたいことは山ほどあるが、一体どう言えばこの男に響くのか。弥生がそう頭を悩ませていると、通路の奥から古川を呼ぶ声がした。
「おーい、古川君。レジが混んできたから応援頼むよ」
店長の声だ。レジ打ちだけは得意な古川は、また「はぁ」と返事をすると、すたすたとその場を離れて売場へと向かった。弥生は一人うな垂れて、首を振った。
そんな彼女に石川夫人が声を掛ける。
「ごめんね、三浦さん。私が居れば良かったんだけど、私も昨日はお休みだったから……」
「いいのよ、石川さん。豆腐も、昨日入荷の奴がそのまま残ってたんでしょ?」
豆腐担当の石川も、また主任のいい加減な在庫管理の犠牲者であった。彼女にも言いたいことは山ほどあったろうが、弥生の背後でただ沈黙を守っていた。弥生はそんな彼女の忍耐強さに、尊敬の念を抱いていた。
石川が笑って口を開く。
「そうなのよ。困ったものよね。あの主任」
弥生もまた力なく笑顔で返した。一旦この場を離れてしまうと、古川はこの先、退社時間までのらりくらりと弥生を避け続けるだけだろう。これ以上彼に構っても、ただ時間を浪費するだけである。
やることは山ほどある。売場の整理と補充、在庫の整理、発注作業に、廃棄処理。あんな役立たずに構っている暇は無いのだ。差し当たって、大量に残っている豆腐を、今日中に売り切らなくてはならない。彼女は石川に申し出た。
「豆腐の見切り、手伝うわ」
(注:見切り=見切り販売のこと。この場合は、豆腐の値下げ処理に係る作業)
そして、今日も彼女の忙しい一日が始まった。
* * *
そして午後十時。天堂中学校の校庭に一つだけある街灯の下で、二人の少女が待ちぼうけを食わされていた。
「来ないね……」
「うん……」
二人の少女が宙を見上げて声を交わした。普段なら弥生が現れる時間であるが、恐らくまた残業になったのであろう。彼女のスクーターの現れる気配は無い。早苗が心配そうに口を開いた。
「大丈夫かな……? 昨日、随分落ち込んでたみたいだし」
「来なかったりして……」
夏樹がそう言って苦笑いを浮かべた。それを聞いて、早苗が面食らったような顔で言った。
「それは困るよ。大きな魔獣が来たら、私たちだけじゃ勝てないし……」
すると、街灯の上からクロウの声がした。
「心配ない。三浦はこの十数年間、一日たりとも休んだことは無い」
さらに待つこと数十分。二人はまだぼんやりと宙を見上げていた。上空のスフィアは、いつものように白い光を湛えている。先ほどまで街灯の上に居たクロウも、いずこかへ飛び去ってしまったようだ。
すると、不意に二人に呼びかける声がした。
「こんばんは。君たちとは、会うのは初めてだよね?」
聞きなれない声に、二人が驚いて辺りを見回すと、その足元には一メートルほどの大きさの白い蛇が鎮座していた。その背には、白い翼を宿している。夏樹が驚いて口を開いた。
「何だコレ……? 白い蛇……?」
すると、その声が聞こえたのだろう。校舎の屋上から、クロウの声が校庭に響いた。普段の彼の平静な口調とは異なり、それは強く感情が込められたものだった。
「白い蛇だと!? どこだ! どこにいる!?」
クロウの声を気にすることなく、その有翼の白蛇は、二人の少女に語り掛けた。
「やあ、僕はミド。あの忌々しい黒鳥と同様、スフィアの力の化身だよ」
見た目とは異なる、その柔らかい語り口に、彼らは驚いた。白蛇はさらに続ける。
「魔法少女って、本当に損な役目だよね。どんなに戦っても、全く見返りがないんだからさ」
そこまで話したところで、二人と白蛇の間に、クロウが割って入った。クロウが厳しい口調でミドを非難する。
「黙れ! 邪悪な白蛇め! 何をしに来た!?」
「黙るのは君だよ、クロウ」
ミドが静かな口調で彼を窘めると、二人の少女に向かって言葉を投げかけた。
「二人とも、蛇の使徒にならないかい? 僕の言う通りにすれば、願いを何でも叶えてあげるよ?」
夏樹と早苗が顔を見合わせた。ミドがさらに続ける。
「僕と契約して、蛇の使徒になってよ」
その言葉に、クロウが激高して叫んだ。
「何を言うか! この恥知らずの蛇め!!」
「何だい何だい!? 魔法少女が蛇の使徒になっちゃいけない理由なんてないよ!」
ミドがその身体をくねくねと動かして抗議した。
「何が蛇の使徒だ! スフィアを人に与えるなど、危険極まりないことがまだ分からんのか!?」
クロウもまたヒートアップしていった。その二匹は、さらに口論を続ける。
一方で、早苗が戸惑った様子で、夏樹に問いかけた。
「夏樹ちゃん、どうしよう……。願いが何でも叶うって……!」
だが、夏樹はその言葉に懐疑的だ。ただ一言、「胡散臭ぇ……」と呟いた。
クロウがミドと口論しながらも、二人の少女に言葉を掛ける。
「二人とも、あの蛇の言葉に耳を貸すな! 願いが叶うなど、嘘八百もいいところだ!」
互いにその正当性を主張し合いながら、ミドもまた二人に声を掛けた。
「嘘じゃないよ。考えてもごらん? あのスフィア、もうずいぶん力を貯め込んでしまってるんだ。誰かがそれを使ってあげないと、これまでのように、毎晩魔獣が出続けてしまうんだよ。かなり危険な状態だよね?」
それは二人が以前、クロウに聞いた通りの話であった。ミドが全く同じ話をしたことに驚き、二人はまた顔を見合わせた。ミドが話を続ける。
「だから、僕がそれを解放してあげるのさ。君たちの願いを叶えることでね」
「騙されるな! スフィアの力はそんなに容易く制御できるものではない!」
クロウの言葉に、ミドが彼を見据えて口を開く。
「それは、君がそう思い込んでいるだけだよ。そもそも、十五年前も君たちが邪魔しなければ全部上手くいっていたのにさ」
「あれは完全な失敗だ! 現に、
「あれは、ミエルネスの思いが足りなかっただけさ。彼の責任だよ。それに、あの姿なら世界征服だって叶ったはずなんだ。君たちが邪魔さえしなければね」
すると、突然彼らの間に一陣のつむじ風が舞い降りた。ミドの身体が、その魔力に弾かれて数メートル程吹き飛んだ。そのつむじ風の中から、声が響く。
「ミドに惑わされないで、二人とも」
その風が収まると、中から弥生が現れた。彼女は、ミドの言葉を否定して言った。
「スフィアは、そんな夢のような力じゃないわ」
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