第15話 知らんと言ったら知らん

 木曜日の下校道、早苗と夏樹は桂木書店の前に差し掛かった。ここは二人の登下校ルートの分岐点であり、朝は二人の待ち合わせ場所、夕刻は別れの場所となる。

 その店頭では、黒髪の少女が竹ぼうきを持って掃き掃除をしていた。“桂木書店”と刺繍された、緑色のエプロンを身に着けている。早苗はその姿を確認すると、笑顔で彼女に声を掛けた。


「あ、霜亜来そあらちゃん、おっつかれー」



 その少女――桂木 霜亜来は、ふと顔を上げて「お疲れ様」と呟くように答えた。夏樹が口を開く。


「お、霜亜来は今日も家の手伝いかあ。ホント、偉いよなあ」


「お店が綺麗になってくの、楽しいから」


 霜亜来が少し顔を赤らめて答える。夏樹とは極力目を合わせようとしない霜亜来だったが、夏樹はそれに気づく様子は無かった。霜亜来の言葉に早苗がうんうんと頷いて、相槌を打った。


「あー、なんかそれ分かるかもー」




 通り際、ふと夏樹が店内を一瞥した。そして、その視界に入ったものを確認するように、それを二度見した。驚いた様子で早苗の肩をトントンと叩く。


「おい、あれ……」


「私も、こないだ部屋の掃除をね――」


 早苗はそれに気付く様子がなく、霜亜来との会話を進める。夏樹の声が大きくなった。


「おい、早苗!」


「ん? どうしたの夏樹ちゃん」


「あれ見ろ、あれ!」


 夏樹が店内を指さす。言われるがままに、早苗が店内を覗き込んだ。


「んん?」


 八割がた立ち読みオンリーとはいえ、この店に通いなれた早苗にとっては、普段と変わらない桂木書店の店内だ。十五畳ほどの広さに、大人の背丈ほどの木製の棚が二列。店の奥には小さなレジカウンターがあり、その奥は桂木家の居住スペースになっている。レジカウンターでは、いつものように店主が椅子に腰かけて、スポーツ新聞を読み耽っていた。


 夏樹がその店主を指さし、彼の服装に注視した。


「あの変な和服、どっかで見たことないか……?」


 桂木書店の店主は和服を愛好しており、ほぼ毎日を着流しで過ごしている。彼の所持している長着には奇抜なデザインのものが多いが、その日は黒い布地に龍の紋が白く刻まれたものを着用していた。

 霜亜来もまた店内を覗き込んで口を開いた。


「あれ、父さんよ」


「だよね。店長さんだもんね。霜亜来ちゃんのお父さんだよ」


 早苗が同意して夏樹に言う。この店の常連でもある早苗にとっては、店主が和服姿であることに、一切違和感は無かった。


 二人の言葉が聞こえたのかどうかは分からないが、夏樹はずかずかと店内に足を運んだ。そのままレジカウンターへと詰め寄る。

 店主はそんな彼女に驚いた様子で、慌てて新聞でその顔を隠した。夏樹がその隙間から店主の顔を覗き込もうとするが、彼はすかさずその僅かな隙間すら自らの身体で塞ぎ、顔と紙面を密着させた。新聞がくしゃっと音を立てた。

 なんとかその素顔を確認できないかと、夏樹がその周囲をうろうろとしていると、店主が声を上げた。


「な、何かな? 霜亜来、このお客さんの相手をしてあげなさい!」


 霜亜来が竹ぼうきを店頭の片隅に置き、店内へ入る。夏樹が店主に問いかけた。


「……何で、顔隠してんの?」


 店主は顔と紙面を完全に密着させながら、動揺した様子で答える。


「い、いや、ちょっと気になる記事があってねえ。ほら、霜亜来、早く!」


 霜亜来が怪訝な顔をして歩み寄った。


「宇野葉さん、どうかしたの?」


 霜亜来の問いかけに、夏樹は答えない。店内に暫しの静寂が訪れた。やがてそれは夏樹の言葉で破られる。


「――ドネスターク」


 店主の肩がびくっと震えた。その反応を見て、夏樹がまた声を上げた。


「やっぱそうだ! その声、ドネスタークだろ!!」


「い、いや、知らん! そんな名前の人は知らん!!」


 店主は激しく動揺した様子で、紙面に顔を密着させたまま首を振った。新聞は破れんばかりに引っ張られ、そして一方では押し込まれて、その紙がガサガサと乾いた音を立てた。夏樹が口元を歪ませ、さらに追及する。


「その変な和服も見覚えあるぞ!?」


「ほ、ほう……? まあ、ダンディーな着物だからな。ごくごくありふれた柄だよ、うん」


 あくまでもシラを切りとおす所存の店主に、夏樹は追及の手を緩めない。


「何で“ブラック大江戸団”とかいう変な名前になってんの?」


「うーん、それがどういう団体かは、皆目見当も付かないけど、おじさんはそれほど変な名前だと思わないなあ。むしろ、粋なネーミングセンスだと思うよ」


「いや、どう考えても変だろ? ここ、千葉県だし」


「そうかな? アクアラインも出来たし、木更津市周辺は、もはや江戸と言っていいんじゃないか?」


「んなわけねーだろ……。つか、ドネスタークだよな? その着物と、そのセンス、どう考えても、あのときのオッサンだよな?」


「知らん! そんな変な名前の人は知らん!!」


 まったく折れない店主に痺れを切らし、夏樹がその新聞をぐいと引っ張る。すでにしわだらけのその紙面が、ピリピリと音を立てて破れ始めた。それに気づいた店主が、そのままカウンターに突っ伏して叫んだ。


「知らんと言ったら知らんのだあーーー!!!」


 勢いよくカウンターにうつ伏せになった店主。小さなカウンターが、ぐらぐらと揺れた。その迫力に、夏樹が少し狼狽える。


「お、おい。何だよ?」


 夏樹が店主の身体をゆさゆさと揺らすも、彼の身体は決して起き上がりはしなかった。その身体を抓ってみたり、髪をぐいと引っ張ってみたりもしたが、彼の身体は微動だにしない。次いで、脇腹をくすぐってみようと試みた夏樹に、霜亜来が声を掛ける。


「無理よ。父さんは、一度そうなったら頑として動かないわ」


「どういう親父だよ……」


 夏樹が呆れた様子で溜息を吐いた。


 物理的に動かせないなら、精神攻撃だ。夏樹が、あえて店主に聞こえるくらいの声量で、霜亜来に耳打ちした。


「霜亜来知ってるか? お前の親父さん、夜な夜な学校で絶叫してる変態なんだぜ?」


「……そうなの?」


 夏樹に囁かれた霜亜来の顔が、僅かに紅潮した。それを聞いた店主の身体が、ぶるぶると震える。そしてカウンターに突っ伏したままで声を上げた。


「お、おのれ、魔法少女め……。霜亜来に妙なことを吹き込みおってえ……」


「ん? 何か言ったか?」


 すかさず夏樹が店主を見たが、彼の上半身は相変わらずカウンターに伏せたままだ。店主がそのまま、愛娘へ弁明した。


「い、いや、霜亜来。父さんは変態じゃないぞ? 断じて変態ではないぞ?」


 霜亜来が黙って頷いたが、彼にはそれを見ることは適わなかった。


 また店主の周りをうろうろとする夏樹。早苗が心配そうな顔で店内へ入ってきた。一方、父親の危機に、娘の霜亜来は無表情のまま、ただその場に立っているだけだ。

 夏樹がカウンターの前にしゃがみ込み、何かに気付いてニヤリと微笑んだ。そして早苗に声を掛ける。


「あー、早苗。油性ペン持ってるか?」


「え? あったかなあ……?」


 早苗が首を傾げながら、自らのカバンから大きなペンケースを取り出した。それを開けると、大量の色とりどりのペンが姿を現す。彼女はそれをかき分けながら「えーと、どれが油性なんだろ……」と呟いた。すると、それを脇から見ていた霜亜来が、「この赤いペンと緑のペンが油性よ」と指さした。早苗が感心して彼女を見る。


「おー、霜亜来ちゃん、よく分かるねぇ」


 霜亜来がその表情を変えずに小さく呟いた。


「ペンに小さく書いてるから」


 早苗が夏樹に「赤と緑、どっちがいい?」と声を掛けた。「緑のでいいや」と夏樹が答え、それを受け取った。緑のインクの中に、銀色のラメが入った油性のサインペンだった。


 夏樹がカウンターの前で中腰になる。その緑のペンのキャップを取って笑みを浮かべた。カウンターに伏せたままの店主の額が、僅かに露わになっていたのだ。先刻、それに気付いていた彼女が、そこへ文字を書き込み始めた。緑色のペン先が店主の肌に触れ、キュッキュッと高い音が店内に響く。


 そして、店主の額に緑色で書かれたのは『変』の二文字だった。夏樹が字を間違って覚えていたので、『態』が『熊』になってしまっている。早苗と霜亜来はその間違いに気付いたが、早苗はただ愛想笑いを浮かべただけで、また霜亜来は少し驚いたような顔をしただけで、共にそれを指摘しようとはしなかった。


 店主の額に間違った熟語を書き終えると、夏樹は店主の頭を一発だけ強めに叩いた。平手で叩かれた彼の頭が、ぱぁん、と気持ちいい音を響かせた。そして彼女は満足げに笑うと、緑のペンを早苗に返して、店の出口へと歩を進めた。


「じゃあなー、霜亜来。あと、ドネスのオッサン」


 夏樹が別れの挨拶をして、そのまま店の外へと出て言った。早苗もまた慌てた様子で、霜亜来と店主に向かってぺこりとお辞儀をすると、そのまま夏樹の後を追っていった。



 二人の少女が立ち去ったことを娘に確認すると、その店主――桂木 耕一郎はバッと顔を上げた。新聞のインクで、その頬が真っ黒になっている。そして、先刻夏樹に味合わされた屈辱を思い返し、怒りで身体を震わせながら歯噛みした。

 そんな父親の心の内など露知らずといった様子で、彼の額に刻まれた『変熊』の文字を見て、霜亜来が口を開いた。


「……父さん」


 耕一郎が娘の顔を見る。霜亜来が言葉を続けた。


「――変態だったの?」


「誰が変態だああ!!」


 叫ぶ店主。その様子に気後れもせず、霜亜来が無表情のままでただ一言だけ答えた。


「そうよね」


 その否定とも肯定とも取れない言葉に、店主は少しだけ首を傾けた。

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