第8話 この店が好きなのよ

 午前六時、またも弥生は目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。その文字盤を見て、ベッドの上でひとり溜息を吐く。


「もう……。休みなのに、またこんな時間に目が覚める……」


 いつからだろうか、彼女は一日四時間しか眠れなくなってしまっていた。それでいて、起床時には常に激しい頭痛と疲労感に襲われるのだ。彼女の身体は明らかに睡眠を求めていたし、頭でもそれを理解していた。だが、彼女の意思や本能とは関係なく、何故だかその目は冴える一方だった。




 彼女はベッドの上で、ゆっくりと片手を上げる。その手の指輪が、朝日に照らされてキラリと光った。その光の様子を眺めながら、彼女は呟いた。


「帰りたいなあ……」


 自分の部屋に居るにも関わらず、そんな言葉が口を突いて出た。今、過ごしているこの部屋、そしてこの時間は、本来の自分の居るべき場所ではないと、無意識にそう感じていた。

 彼女はゆっくりと目を閉じる。身体がより睡眠を欲していたのを感じたが、やはり眠りに落ちることはままならなかった。彼女は、またひとつ溜息を吐いた。




* * *


――土曜日の昼下がり。早苗がその展開に感嘆の声を上げた。


「ほ、ほぉー。そう来たかあ……」


 彼女はさらにページを捲り、その文章を読み進めていく。紙面では、また驚きの展開が繰り広げられ、早苗はその内容に「おー」「なんと!」「やった!」など、いちいちリアクションを取りながら、そのページを捲っていった。

 ここは街の商店街にある小さな個人経営の本屋――桂木書店の一角。彼女は“ライトノベル”と書かれた棚の前で、異世界転生ものの小説を一心不乱に読み耽っていた。立ち読みであることにまったく気後れせず、また周囲の人目もまったく気にすることなく、彼女はその文面に夢中となっていた。かれこれ一時間は読み続けている。

 だが、さすがに疲れてきたのか、彼女はその重心をわずかにずらした。片足に体重を乗せ、もう片方の足を休めようという意図だ。すると、いつの間にか隣に立っていた人物に、その肩が、どん、とぶつかった。


「あ、す、すいません……」


 慌ててその人物に謝る早苗。見ると、そこには黒髪の少女が立っていた。早苗はその見知った人物の名を呼んだ。




「あれ、霜亜来そあらちゃん……?」


「……こんにちは」


 霜亜来が静かに口を開いた。早苗が本を片手にそれに応える。


「こんにちはー。霜亜来ちゃんも買い物?」


「違うわ」


「あ、じゃあ。立ち読みだあ。あたしと同じだねえ」


 早苗がにこやかに言うと、霜亜来はまた表情を変えずにそれを否定した。


「それも、違うわ」


 ふと見ると、霜亜来は“桂木書店”と刺繍されたエプロンを身に着けていた。その手には、ボールペンとクリップボードを握っている。早苗がそれを見て首を傾げた。


「え? え? その恰好は……?」


棚卸たなおろししてるの」


「た、たなおろし……?」


「在庫のチェックのことよ」


 そう言って、彼女は目の前の棚の本を一冊ずつ抜き出し、裏表紙の数字を逐一手元の紙に書き込んでいく。唖然とする早苗。霜亜来が作業を進めながら口を開いた。


「……ここ、私の家だから」


「ええー!?」


 目を丸くする早苗。ふと、霜亜来のフルネームを思い出した。彼女の出席番号は早苗のすぐ後なので、それはよく覚えていた。“桂木かつらぎ 霜亜来そあら”だ。




「そ、そか、ここ、“桂木書店”だ……! 霜亜来ちゃんちなの!?」


 霜亜来が黙って頷いた。早苗がその手元の本を慌てて閉じて、申し訳なさげに口を開いた。


「ご、ごめんね。私、立ち読みばっかりで……」


「別に構わないわ。時々、買っていってくれてるのは知ってるから」


 霜亜来がまた表情を変えずに、手元の書類に数字を書き込みながらそう答えた。その言葉に、早苗が慌てた様子で反応する。この桂木書店で彼女が購入する書籍は、彼女にとってやや後ろめたい、立ち読みすら憚られる類のものであったからだ。



「あー、えと、何を買っていったかまでは、知らないよねえ……?」


「……いつも、この棚の本を買ってるような気がするわ」


 そう言って、霜亜来は早苗のすぐ隣の棚を指さした。“ボーイズラブ”の表記があった。思わぬところで耽美趣味を見抜かれた早苗の顔が紅潮する。


「うわわわああわ、違うの違うの。決してそんな趣味があるわけじゃないの」


 酷く狼狽えた様子の早苗に、霜亜来がキョトンとして顔を向けた。そして言った。


「この棚、買っていく人は多いから、特に変な趣味だと思わないけど」


「え、うん、そうだよね。そうだよね? 変な趣味じゃないよね?」


 早苗が耳まで真っ赤にして、言葉を連ねる。霜亜来は、そんな彼女の様子など素知らぬ顔で、また作業を再開した。そして、小さく声を出した。


「でも、読んだことないから、よく分からないわ。今度、読んでみるわね」


「いやああああ、読まなくていいよ。読まなくていいからね!?」


 早苗がそれを阻止すべく、必死に訴えかけた。霜亜来はそんなことなど何処吹く風で、黙々と作業を進めていた。




 結局、早苗はその異世界転生ものの小説を購入した。怒涛の展開の最中で立ち読みを中断してしまった早苗は、その話の続きがどうしても気になってしまったのだ。

 彼女は買ったばかりの文庫本を手に、嬉しそうにその店を後にした。


 霜亜来がレジに入金していると、店の奥から中年の男が顔を出した。彼女の父親だ。その手には、赤ボールペンと競馬新聞が握られていた。彼は霜亜来に問いかける。


「お、霜亜来、今のは友達か?」


「ううん、クラスメイトよ。一冊、売れたわ」


 そう言って、彼女はレジのドロアーをガシャンと閉めた。桂木書店の店主でもあるその男は、また競馬新聞を眺めながら口を開いた。


「ちゃんとお礼言ったのか?」


「……忘れてたわ」


 霜亜来が宙を見上げた。


「じゃあ、今度言わないとな」


「うん」




 そして、彼女はクリップボードを手に取り、そこから一番上の書類を外して父親へ手渡した。


「棚卸、そこの棚まで、終わったから」


 そう言って、彼女はまた別の棚へと向かい、作業を再開した。それを見て、男が申し訳なさそうに口を開いた。


「手伝わせてしまって、すまないなあ。父さん、いつか一発大きいのを当てることができたら、こんな店はとっとと売っぱらって、お前に楽な暮らしをさせてあげられるんだがなあ」


「そういうの。別にいいよ、父さん」


 そして、霜亜来はまた宙を見上げた。


「……私は、この店が好きなのよ」




* * *



 午後九時を過ぎた頃、校庭では弥生による魔法教室が始まっていた。慢性的な睡眠不足の弥生であるが、人前では努めて元気そうに振舞っている。


「レベル0魔法には、こういうのもあるわ」


 そう言って、弥生が校庭の地面に向けて手をかざした。




「――“力魔法フォース”!」


 弥生がそう唱えると、地面がえぐれてバレーボール大の土がふわりと浮きあがった。彼女がかざした手を動かすと、それに合わせて、その土塊もまた空中を自在に飛び回った。


 脇で見ていた早苗と夏樹が感嘆の声を上げた。


「おおー!」


「すごい! 魔法っぽい!!」


 弥生が魔力の供給を止めると、土塊は自然と落下した。弥生が得意げに説明する。


「手を触れずに物体を操作する“サイコキネシス”的な魔法ね。ま、これは扱いが難しいから、使いこなすには練習が必要よ。戦いでは必須というわけではないから、そのうち覚えていけばいいわ」


 二人が元気よく返事した。


「「はい! 弥生お姉さま!」」


「……いや、普通に“弥生さん”でいいから」


 “フレンドリーで優しい先輩”を目指す弥生だったが、まだまだ二人との心の距離は縮まりそうにない。

 一方、彼女の魔法にいたく感激した早苗が目を輝かせ、さらなる力魔法フォースの発動を要求した。


「今のやつ、すごかった! もっと見たいです!」


 弥生にとって、力魔法フォースは非常に地味な魔法という印象しかなかったため、早苗の反応は意外だった。見ると、夏樹もまた期待の目で彼女を見ている。


「もう、仕方ないわねえー」


 弥生はそう言って、照れくさそうに笑った。




 そして五分後、校庭の上空では無数の土塊が浮き上がり、それらは輪になって踊るように舞っていた。調子に乗った弥生が、次々と土塊を浮上させたのだ。結果、校庭の地面には、無数の抉られた跡が残ることとなった。そんなことはまるで気にせず、笑顔で次々と土塊を浮上させていく弥生。夏樹が慌てて校庭の惨状を指摘した。


「ちょ、壊してる壊してる! めっちゃ校庭壊してる!!」


 早苗が泣きそうな顔で、弥生に懇願する。 


「あああ、弥生さん、もういいです! ごめんなさい、もういいんです!」


 ――その後、三人は暫くの間、校庭の修復作業に勤しむ羽目になった。

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