第6話 弥生さんは、おいくつなんですか

 暗闇が校舎を覆い、校庭に一つだけある街灯には、昨夜同様に多くの羽虫が集っていた。二人は、その下にしゃがみ込んで弥生を待っていた。しばらく黙っていた二人だったが、その傍らが、おもむろに口を開いた。


「来ないね……」


「うん」


 一言だけ答えて、夏樹が校舎の時計を見た。時刻は十一時を過ぎようとしていた。




 すると、眩いヘッドライトの灯りと共に、一台の黒いスクーターが校庭に滑り込むように駆け込んできた。そのライダー――弥生が、赤いヘルメットを脱ぎながら、慌てた様子で二人に声を掛けた。


「ごめん、遅れた! 待った!?」


 例の“プレミアムフルーツゼリー”の一件が影響し、彼女は今夜も残業だったのだ。なお、件のゼリーは六百個を他店へ振替えることに成功し、残り六百個は百九十八円で絶賛販売中だ。四百円も値引きすることに店長は不満顔だったが、弥生が無理やりねじ込んだのである。


 一時間以上待たされ、やや疲労が見えた二人だったが、それでもそれを匂わせないような態度を取った。昨夜見たあの強烈な魔法が、まだ脳裏に残っていたのだ。この恐ろしい大先輩――弥生の機嫌を、絶対に損ねてはならない。それが二人の共通認識だった。


「いや、全然。あたしら、待つのは得意だし……」


「う、うん、二人で話してて、時間とか気にしてないから」


 額に汗を浮かべながら取り繕う二人を、弥生が訝し気に見つめる。


「あら、そう……?」


 すると、彼らの頭上から声がした。クロウが街灯の上から一部始終を眺めていたのだ。


「彼らは一時間は待っていたぞ。そのうち三十分は互いに無言だった」


「ちょ、そこのカラス! 余計なことは言わなくていいから!!」


 夏樹が、すかさずその声の主を注意した。




 二人のやり取りを気にすることなく、弥生がヘルメットを脱いで、スクーターの座席の上に置いた。そして街灯の上のクロウに問いかけた。


「で、二人のカードは補充したの?」


「すでに五枚ずつ与えた。現在、二人とも六枚のレベル1魔法を所持している」


 彼女は両手の黒いグローブを外し、ポケットから銀色の指輪を取り出した。左手の中指にそっと嵌めると、その指輪がきらりと光った。彼女がまたクロウに声を掛けた。


「あたしの今日の分も補充しといて」


「了解した」


 そう言うと、クロウが街灯から舞い降り、弥生のスクーターのハンドルの上に着地した。弥生が補充するカードを羅列する。


「昨日使った分と、アブソリュート=キューブを一枚ね」


水の極大魔法アブソリュート=キューブか。珍しいな。何に使うのだ」


「その二人、水と炎の属性持ちでしょ? 炎の極大魔法ノヴァ=ストライクは昨日見せたから、今度は水の極大魔法も見せてあげようと思ってね」


「ふむ。偉そうに先輩面とやらをしたいわけだな」


「何で、そういう発想になるのよ……」


 己の善意が斜めから見られたことに少し腹を立て、弥生がクロウを睨みつけた。 

 そんな視線など意に介さず、クロウがそのクチバシで彼女の右手の指輪に触れた。すると、その指輪が一瞬だけ黄金色に輝いた。非常に簡素な儀式ではあるが、これにて一日一回限りのカード補充が終了した。


 これらのやりとりの間、早苗と夏樹の二人は“気をつけ”の姿勢を崩さずに、その大先輩の声が掛かるのを待っていた。弥生はそんなことに気付きもせず、何気なく二人に声を掛けた。


「あ、あんたたち、名前聞いてなかったわね?」


「は、はいっ! 宇野葉 夏樹ですっ!」


「上月 早苗ですっ!」


 叫ぶような自己紹介。そして二人はまた背筋を正し、大先輩に向けての挨拶の言葉を同時に発声した。


「「よろしくお願いしますっ!」」


 二人は勢いよく弥生に頭を下げた。腰がぴったり九十度に曲がった、非常に敬意に溢れる、美しい一礼だ。その素晴らしすぎる拝礼に、弥生が苦笑いを浮かべて言った。


「そ、そんなに身構えなくていいわよ。取って食べやしないわ」


 あくまでも“フレンドリーな優しい先輩”であることをアピールしようとする弥生に、クロウが口を挟む。


「彼らの判断は、間違っていないと思うぞ」


「何でよ?」


 また弥生がクロウをキッと睨みつけた。




 弥生は、ゆっくりと二人に歩み寄り、少しかがんでその目線を二人に合わせた。そして彼女なりに優しく微笑んで、言葉を掛けた。


「夏樹と、早苗ね。よろしく」


 続けて、自らもその名を名乗りながら、二人と握手を交わした。


「三浦 弥生よ」


 まだ表情の強張っている二人に、弥生はさらに努めて優しく微笑みかけた。


「二人とも、中学生?」


 そのぶっきらぼうな口調の中にも柔らかい雰囲気を感じ、少し意外そうな顔を見せて早苗が口を開いた。


「あ、はい。一年生です」


「へえ……。ってことは、……十二歳?」


「私は十三です。夏樹ちゃんは、まだ十二」


「いいわねぇ、若いわねぇ」


 弥生が腕を組んで、感慨深げにうんうんと頷くと、またクロウが口を挟んだ。


「嫉妬か、三浦」


「うるさいわよ。バカ鳥」


 弥生がまたクロウに鋭い視線を送った。すると、夏樹がおずおずと口を開いた。


「あ、あの、三浦さんは――」


「弥生でいいわよ」


「弥生さんは、おいくつなんですか?」




 次の刹那、それまで優しく微笑んでいた弥生の表情が固まった。そして暫しの沈黙が空間を支配する。やがて、クロウが無言のままで翼をはためかせ、街灯の上に移動した。それは、さも危険物から距離を置くための行為であったかのようも思えた。


「あ、あれ……?」


 夏樹が、場の雰囲気が変貌したことに気付いて狼狽えた。隣の早苗に小声で問いかける。


「な、なんかまずいこと聞いたかな……?」


 早苗は無言のまま、ただ小さく頷いた。夏樹とは決して目を合わせずに。引きつった愛想笑いを浮かべながら。


 暫くの間を置いて、ようやく弥生の口が動いた。努めて優しく微笑んでいたつもりだったが、その口元は強張っている。彼女は、奥歯に物が詰まったかのように、非常にたどたどしく言葉を発した。


「え、えっと、に、二十一……」


「もうすぐ三十歳だ」


 すかさずクロウが口を開いた。弥生がそれにすぐさま反論する。


「違う! まだ二十八だ! いい加減なこと言うな、この馬鹿カラス!!」


「二十八も三十も同じだろう。そもそも七つもサバを読むとは、恥ずかしくないのか、お前は」


「うるさいうるさい! 誰のせいでこんな年まで魔法少女なんかやってると思ってるのよ!!」


 弥生が激高し、足元の小石をクロウに向かって投げつけた。当然、それが彼に当たることはないが、クロウは翼をはためかせてそれを華麗に避ける仕草をした。




 弥生がクロウを追いかけ回していると、それまで無言を貫いていた早苗が、目を丸くして夏樹に小声で囁いた。


「二十八だって……!」


 夏樹もまた、小声でその感想を述べた。


「マジかよ、オバサンじゃん」


 その言葉が耳に入った刹那、弥生の視線が夏樹に向く。その目の殺気に当てられ、夏樹の身体が硬直した。弥生が驚くべき速度で夏樹との距離を詰めると、その右手で夏樹の小さな頭をがっしりと掴み、あくまでも“フレンドリーな優しい先輩”として、努めて笑顔を保ちながら口を開いた。


「なーにか、言ったかなあ? この子供は?」


 弥生の目が笑っていないことに気付き、夏樹は恐怖に震えた。そして、その場を収める最適解を即座に脳内で導き出し、その単語を口に出した。


「い、いえ、すいませんでした。弥生……」




 弥生が一息ついた。校舎の時計の時刻を気にしながら、二人に語り掛ける。


「さて、時間無いし、始めるわよ。二人とも、魔法はどこまで教わった?」


 早苗が指を折りながら答えた。


「うーんと、修復魔法リペア治癒魔法キュア、それとファイアボールと、あと夏樹ちゃんのはウォーターショット? だったっけ?」


 夏樹がそれに言葉を続ける。


「うん。昨日教わったのは、それだけ」


 弥生が顎に手を当てて頷いた。そして、思い出したかのように次の質問をした。


「ん? 防御魔法ガードは?」


「まだだ」


 クロウが二人に代わって答えた。それを聞き、また弥生がクロウを睨みつけて言った。


「……アンタ、何で一番大事なのを教えてないのよ。そりゃケガもするわよ」


「昨晩は、教える前に月比古が来てしまったからな」




 すると、弥生が「あ」と大きな声を上げた。そして早苗に駆け寄り、その右腕に掴みかかって言った。


「そうだ、ケガ! あんた、昨日右手ケガしてたでしょ!? 見せなさい!!」


 突然のことに戸惑いながらも、早苗は右腕を弥生に差し出した。弥生が彼女の横に跪き、注意深くその右腕を調べる。昨晩、魔獣の爪に切り裂かれた彼女の肌は、その痕跡を全く残すことなく白く艶やかな様子を保っていた。弥生はそれを確認すると、「良かったあ……」と小さく安堵の溜息を吐いた。このとき、弥生があまりに強く握ったため、早苗の腕には赤く手の跡が付いてしまったが、それもやがて消えた。


「治癒魔法なら、お前に言われた通りに教えたぞ」


 クロウが口を開いた。普段淡々と話す彼にしては、少しだけ得意げに見えた。弥生は立ち上がり、腰に手を当てて満足げに頷いた。


「そっか。じゃあ、今日は防御魔法ガードから教えるわね」

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