第5話 翼が生えていたような
天堂中学校の正門をくぐると、正面に校庭が見えた。まるで昨夜の騒動が無かったことであるかのように、それはいつも通りの姿で生徒たちを迎えていた。夏樹が感嘆の声を上げる。
「おおー、すげえ、あの大穴が塞がってるぞ……?」
「ホントだ。綺麗さっぱり無くなってるねえ」
あれだけの大穴を一晩で修復できるものかどうか、不安に思っていた早苗だ。いつもと変わらない校庭を見て、安堵の溜息を吐いた。
夏樹が興奮した様子で校庭へ駆け出した。大穴のあった場所で飛び跳ねてみるも、その大地はいつものように彼女の体重をしっかりと受け止めていた。
「すげえなあ。あんな穴が直っちゃうんだもんなあ」
夏樹がはしゃいでいると、早苗が心配そうに呟いた。
「でも、
「心配とか要らねーだろ。あの姉ちゃんなら、ささっとやってしまいそうじゃね?」
そう言って、笑いながらまた夏樹は何度も大地を踏みしめた。
夏樹がひとしきり校庭を走りまわった後、彼女らは笑い合いながら校舎へ向かった。その道中、早苗が校舎脇の花壇のあたりで動く影に気が付いた。
「あれ?」
早苗が思わず足を止めた。夏樹もまた立ち止まり、早苗を見つめる。
「どした?」
「今、なんかそこに白いのが……」
彼女が見たのは、子犬ほどの大きさの白い物体だった。彼女がその正体を把握する間もなく、それは素早く移動して花壇の影に隠れた。その存在に気付かなかった夏樹が、笑って彼女を茶化す。
「何だ? 校舎裏のウサギでも逃げ出したってか?」
「小学校じゃないんだし、そんなのいないよ」
「冗談だよ」
そう言って、夏樹がまた笑みを浮かべ、再び歩を進めた。早苗は首を傾げ、先ほど一瞬だけ視界に入った、その白い物体の記憶を呼び起こそうとした。
「ウサギのような感じじゃなかった。地を這うようなあの動き方、何だろう……?」
早苗は、もう一度花壇の方角を見つめた。しかし、先ほどの影は、もうどこぞへと立ち去ってしまった後だった。
下駄箱で上履きに履き替え、二人は教室へ向かった。早苗はまだ何か思い詰めたような顔つきをしている。夏樹がそれに気づき、声を掛けた。
「何だよ。まだ校庭で見た“白いの”を気にしてるのか?」
「うん、今思うとね、なんだか変なんだけど……」
早苗が宙を見上げた。
「――その“白いの”に、翼が生えていたような気がしたの」
* * *
教室の扉が開くと、早苗が勢いよく教室へ飛び込んだ。そして室内を一瞥し、そこに誰もいないと見るや、右手の人差し指を天高く掲げて、勝ちどきの声を上げた。
「へへー、今日も一番乗りー!」
「良かったねえー。一番乗りだねえ」
早苗が手を叩いて称賛する。だが、この日の栄冠は夏樹のものではなかった。
「あ、あれ!?」
教室の中にはすでに人影があったのだ。カーテンの影に隠れていたそれに気付き、夏樹はすっとんきょうな声を上げた。早苗もその姿を確認し、また声を上げた。
「あ、
その少女は黒板の横の窓際で、外を眺めていた。彼女は二人に気付くと、ゆっくりと振り向く。その長い黒髪が静かに揺れた。
早苗が彼女に声を掛ける。
「おはよー、
その少女――霜亜来は、小さく「おはよう」と言葉を返した。窓から注ぐそよ風に、白いカーテンがゆらゆらと揺れる。それが廊下からの朝日を反射して、彼女の白く透き通った肌をきらきらと輝かせた。
夏樹が悔しそうに天を仰ぐ。教室に一番乗りすることは、彼女にとって毎朝のライフワークになっているのだ。
「くっそー! 二番手かあー!!」
「2ゲットおめ、だねえー」
早苗が手を叩いて、また称賛の言葉を送る。彼女にとっては一番も二番も共に称賛に値するのだ。だが、夏樹がそれを聞いて目を丸くした。
「ん? 2ゲット梅? 何それ?」
「あああ、今のは忘れていいから」
早苗が慌てて手を振った。
夏樹が自分の席に向かいながら、霜亜来に声を掛けた。
「でも、今日は珍しく早いなー。いつも遅刻ギリギリなのにな」
「今朝は、父さんが早起きだったから」
霜亜来はまた窓の外を見ながら、小さく応えた。その表情は、いつもどこか寂し気だ。
「そっかー。くっそー、校庭で遊ぶんじゃなかったなあー」
まだ二番手の悔恨を引きずりながら、夏樹は机にカバンを置いた。そして、窓越しに校庭をちらりと見る。校庭の上空には、昨日と変わらず巨大な光球が浮いていた。その光に眉をひそめて、彼女は口を開いた。
「いやー、しかし、今日も相変わらず眩しいなあー、あれ」
「……あれ?」
霜亜来が夏樹に目を向ける。普段、あまり感情を表に出さない彼女が、少し驚いたような表情をしていた。それを見て、早苗は慌てて夏樹の肩を叩いた。
夏樹は、早苗の行動の意図が汲み取れずに「うん?」と一言だけ反応した。すぐさま、早苗が霜亜来に言う。
「あ、今のはね、夏樹ちゃんは、“朝日が眩しいなー”って、そういう意味だからね?」
そして夏樹も早苗の意図を掴んだ。スフィアが見えているのは、夏樹と早苗の二人だけなのだ。霜亜来とまるで噛み合わない会話をしていたことに気付き、夏樹も慌てて言葉を付け足した。
「そ、そうそう、朝日のことだよ。朝日が眩しいなー、ってさ」
そう言って、彼女は窓の外を指さした。残念ながら、教室の窓は西向きだ。朝日とは完全に逆の方向であり、言い訳としては非常に苦しい。だが、霜亜来はそんなことはまるで意に介さず、また窓の外を見て、小さく呟いた。
「そうね。朝日も眩しいわね」
* * *
――午後二時十五分、“スーパーマーケット天堂”のバックルームにて、出勤直後の弥生は目の前の光景が信じられず呟いた。
「何よ、これ……」
そこには、段ボール箱の山、山、山……。一体いくつあるのだろうか。大量の段ボール箱が冷蔵倉庫内に積まれていたのだ。決して広くはないその倉庫の半分以上が同じ箱で埋まっていた。
「何よ、これえーーー!!!!」
弥生はもう一度、その言葉を口にした。今度は、銀河の彼方に届くくらいの大声で。
その声に呼び出されたかのように、弥生の背後に一人の中年女性が現れ、おずおずと声を掛けた。
「あ、えーと、三浦さん?」
弥生が勢いよく振り返ると、そこには同僚の石川夫人が立っていた。彼女は弥生同様にパートタイマーで、日配部門の発注担当者だ。ちなみに、弥生の担当は牛乳やジュースなどのチルド飲料、そしてチーズ・バターなどの酪農品だ。石川は豆腐や蒟蒻などの
石川が弥生に事情を説明する。
「これね、主任が発注ミスしたらしくて……」
そう言って、石川は深く溜息を吐いた。弥生が倉庫の中を見渡しながら呟く。
「何個あるのよ一体……。これじゃあ、夜便で届く牛乳が入らないじゃないの……」
「十二個発注したつもりらしんだけど、千二百個あるのよ……」
「せん……」
予想だにしなかった数量に、思わず絶句する。段ボール箱には、“プレミアムフルーツゼリー”と大きく記載されていた。その下には“12個入り”とも。すなわち、この倉庫内には、百箱の段ボール箱があるというわけだ。弥生が気を取り直し、手を震わせながら石川に問いかける。
「と、当然、返品するのよね、これ……」
「それが……」
石川が目を伏せた。弥生は答えを推測した。
「まさか、出来ないの!?」
「主任がメーカーさんに電話したんだけど、無理だったらしくて」
石川がまた溜息を吐いた。弥生がその箱の表記を確認しながら口を開く。
「これ、賞味期限は……?」
「十日間よ」
「十日で千二百個か……。土日を二回挟むし、売場次第ではなんとかいけるか……?」
顎に指を当て、弥生は必死に計算した。長年の経験により、彼女はどの商品が一日でどれだけ売れるのかを瞬時に判断できるのだ。だが、それを計算するために最も肝心な数字が欠けていたことに気付き、それを石川に確認した。
「あ、売価は?」
「
「ご……」
また予想だにしなかった数字が飛び出し、弥生は再び絶句した。それは余りにも高価すぎた。通常、一人用のフルーツゼリーであれば、どれだけ高くても三百円くらいが相場だ。だが、その値段であっても一日二、三個売れるのが関の山である。
同様の感想を抱いたのだろう。石川は段ボール箱の表示を恨めしそうに見つめ、呆れるように呟いた。
「ほら、“プレミアムフルーツゼリー”だし、値段の方も“プレミアム”なのよ」
そして、また大きく溜息を吐いた。弥生は暫く固まっていたが、やがて気を取り直し、苛立った様子で口を開いた。
「どう考えても無理でしょ……。で、主任は? どこいった!?」
「それが、メーカーさんと電話した後、“急にお腹が痛くなった”と言って――」
「……トイレ?」
「いえ、早退しました……」
「あんの、バカ主任!!!!」
そして弥生は、倉庫の壁を思いきり殴りつけた。石川の肩がビクッと震える。弥生が殴ったことで、倉庫の壁に拳大の穴が開いた。が、それは二人にとっては最早どうでもよいことだった。なんせ、そこにはすでに無数の穴ができていたのだから。ちなみに、その全てが過去に弥生が殴りつけて出来たものである。
怒り収まらぬ様子の彼女に、石川がおろおろと指示を仰ぐ。
「ど、どうしようか……?」
弥生は、一度ふーっと息を大きく吐き出した。そして、冷静に指示を下した。
「石川さんは、もう一度メーカーに電話して! 全部は無理でも、せめて半分は引き取ってもらえないか交渉して頂戴。あと、手が空いてる人に、畜産前の平台エンドを全部空けるように伝えて!」
そして彼女は、小走りで倉庫を出て言った。
「あたしは、店長に
小走りで事務所への廊下を駆けながら、彼女は小さく呟いた。
「……もう! 余計な仕事ばっかり増える!!」
* * *
――夕刻、終業のチャイムが鳴り、天堂中学校の正門から続々と生徒たちが出てきた。黒髪の少女――
正門から数百メートルほど歩いたころ、彼女は誰かに呼び止められて足を止めた。
「やあ、学校は終わったのかい、霜亜来?」
彼女は周りを見渡したが、それらしい影は無かった。すると、声はさらに続けて彼女を呼んだ。
「ここだよ」
――声のした方を見やると、そこには細い路地があった。その中へ二、三歩ほど進んだところで、彼女は声の主の姿を確認した。そして彼女は口を開いた。
「ミド、ここで何をしているの?」
そこでは、一匹の白蛇が彼女を待っていた。その長さは一メートルほどで、背には白い翼を宿していた。その翼を持った白蛇――ミドが霜亜来の問いかけに答えた。
「新しい使徒を探していたのさ」
「学校で?」
霜亜来は無表情のまま問いを重ねた。一方、ミドは非常に流暢に、そして感情たっぷりに言葉を連ねる。
「いや、学校はダメだね。あの忌々しいカラスや、その魔法少女たちに気付かれずに行動するのが大変なんだよ」
「カラス……。あのクロウとかいう鳥ね」
「そうだよ、そのカラスだよ。あれがうろついてるせいで、ろくに勧誘もできやしないんだ」
白蛇は語気を強め、そしてくねくねと身体を動かし、怒りの意を示した。霜亜来が興味なさげに小さく口を開く。
「大変なのね」
「まったくその通りだよ。生徒を使徒にするのが一番手っ取り早いのにさ」
「そうなの?」
「そうだよ。スフィアの真下で長い時間を過ごせば、それだけ魔力の伸びしろが増えるんだ。だから、あの中学校の生徒が使徒になるのが理想なのさ」
雄弁な白蛇は、さらに言葉を続ける。喋れば喋るほどに、その赤い瞳が生き生きと輝くように見えた。
「なのに、クロウの奴、あの学校を我が物顔で飛び回ってるんだ。本当、邪魔だよね」
ひとしきり愚痴をこぼすと、ミドは霜亜来をじっと見つめて口を開いた。
「まあ、君が使徒になってくれれば、それが一番理想的なんだけどね」
「考えとくわ」
「またその答えかい? ボクはそろそろ良い返事が聞きたいよ」
「今日は買い物があるの。また今度ね」
会話もそこそこに、霜亜来は路地を後にした。そして彼女が一度だけ振り返ると、ミドの姿はいつしか消えていた。
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