第1話 私が見えるのか

 ――そして、十五年の月日が経った。



 午前七時を過ぎた頃、遮光カーテンの隙間から僅かに光が差し込む。そんな薄暗いワンルームマンションの一室で、彼女は目を覚ました。また昔の夢にうなされたのだ。彼女は枕元の目覚まし時計を手に取り、その時刻を確認した。そして呟いた。


「また、こんな時間に……。今日、遅番なのに……」


 時計が手元から転げ落ちた。彼女は二度寝を決め込む。出勤は午後二時だ。まだ六時間は寝れるというのに、何故かいつも目が覚めてしまう。


「寝ないと……。今日も仕事が……。早く、寝ないと……」


 そう呪文のように唱えながら、彼女は枕に顔を埋めた。



* * *



 一方、そのワンルームマンションからほど近い通学路では、ひとつの事件が起こっていた。


「おっはよー、早苗さなえ


 青みがかった黒髪の少女が、元気よく待ち合わせ場所の書店の前に駆け込んだ。手には白い学生カバン。紺色の制服――彼女らの所属する天堂中学校のものだ――を身にまとっている。その胸元には一年生の証である黄色いリボンが揺れていた。


 それを、赤髪の少女――早苗が笑顔で迎えた。彼女の胸元にも、夏樹同様に黄色いリボンがしっかりと結び付けられている。


「あー、おはよー、夏樹なつきちゃん」


 挨拶を終え、共に登校しようと歩み出した刹那、夏樹と呼ばれた少女がふと気づいて早苗の頭の上を見る。すると、そこにはバレーボール大の黒鳥が鎮座していた。早苗はそれを気にする様子も無く、ただニコニコと微笑んでいる。夏樹は、彼女の頭上の黒鳥を指さして問いかけた。


「えと、頭に乗っけてるの、何それ……? カラス?」


「あー、これはねぇ――」


 早苗が口を開こうとするや、その頭上の黒鳥が喋り出した。


「ほう、私が見えるのか?」


 夏樹が驚いて一歩下がる。


「うわぁ、喋った! カラス喋った!」


「そうそう、喋るんだよ。このカラスさん」


 その黒鳥は一見、カラスのように見えた。だが、普通のカラスとは異なり、その瞳の奥は金色に輝き、羽はやや白みがかっている。黒鳥は、再び口を開いた。


「騒がしい娘たちだな。しかし、ふむ……二人か。悪くない」


 夏樹は、その黒鳥をまじまじと観察し、呟いた。


「うわ、マジで喋るカラスだ。信じらんねー……」


「すごいよねー。しかも、触れないんだよ」


「え……マジ……?」


 早苗の言葉に耳を疑った夏樹。恐る恐るその頭上の鳥に右手を伸ばし、黒い羽に触れようとした。しかし、その身体に触れようとした右手は、不思議と空を切った。あるべき感触を掴めず、夏樹は違和感と共に「あれ?」と口にした。見ると、黒鳥の身体が半透明になり、夏樹の右手と重なっている。夏樹は思わず叫んだ。


「わあ!! 透けた! 鳥が透けた!! なにこれ! ありえねー!!」


「ね!? すごいでしょ!? すごいでしょ!?」


 夏樹がさらに黒鳥の身体に手を伸ばし、その不思議な現象を幾度も幾度も確認した。早苗が、夏樹の反応を楽しんで笑顔ではしゃぐ。

 黒鳥は、彼女らの行動を諫めて言った。


「楽しんでいるところを悪いが、少し自重した方がいい。私の姿も声も、周囲の人間には認識できていない」


「え、つまり……?」


「お前たち二人は、現在周囲の人間たちから”気の毒な娘たち”という認識を受けている、ということだ」


 ふと見ると、すれ違う女子高校生たちが彼女らの様子を見てくすくすと笑っている。「やあだ」「なにあれー?」「中二病ってやつー? ほんとにあるのねー」なんて囁く声も聞こえた。

 夏樹は赤面し、黒鳥の身体に向かって繰り出した右手を、誤魔化すようにそっと制服のポケットに収めた。


「は、早く言えよな、そういうことは」


「今後、気を付けよう」



 夏樹が紅潮した鼻の頭をぽりぽりと掻く。


「で、何なんだよ? 早苗、何でこんなやつ頭に乗っけてんだ?」


「それが、よく分からないんだよねー? さっき突然話しかけられてさ、一緒に行く、って言われただけで」


「へえ……」


「でも、重くはないんだよね。頭の上に触ってる感触はあるのに……、なんか変な感じなの」


 早苗は、自身の頭の上をぽんぽんと撫でた。確かに、黒鳥が頭上に乗っているにも関わらず、彼女の髪型には乱れた様子が無い。黒鳥が口を開いた。


「私は質量を持たない存在だからな。ところで、名を聞いてなかったな?」


 問いかけられ、早苗がすっと答える。


「あ、上月こうづき 早苗さなえです」


 早苗が答えたので、夏樹も釣られて答えた。


「え、宇野葉うのは 夏樹なつき、だけど?」


 二人の名を聞き、その黒鳥は一度だけ頷いた。


「上月と宇野葉か。では、二人で私を学校へ連れて行ってもらおう」




 早苗と夏樹が顔を見合わせた。夏樹が口を開く。


「勝手なこと言うカラスだな。一人じゃ行けないのかよ!?」


「お前たち二人と共に行くことに意味があるのだ。それと、クロウだ」


「あん?」


 夏樹が聞き返した。黒鳥は再び己の名を告げた。


「私の名だ。クロウと名付けられている。今後はそう呼びたまえ」


 早苗が口を開く。


「あ、名前あったんだねぇ、カラスさん」


「クロウだ」


「ごめん、クロウさん」


「”さん”は不要だ。謝罪も必要ない。無駄は少しでも省きたい。私も、お前たちのことは”さん”抜きで呼ばせてもらう」



 夏樹は訝し気な目でクロウを見つめた。思わず本音が口に出る。


「なんだコイツ……」


「コイツではない。クロウだ」


 クロウが訂正する。夏樹は、その淡々とした口調が気に入らなかった。


「訳分かんねーな。何でこんなのと一緒に学校に行かなきゃならないんだよ?」


「見せたいものがある。百聞は一見に如かずと言うからな。それと、拒否しても無駄だ。お前たちに私を排除する手段は無い。私はお前たちと共に学校へ行く」


 早苗は笑顔で応えた。彼女はクロウに対して特に悪い感情は抱いていないようだ。


「私は別に構わないよ? 重くないし、お喋りしながらだと楽しいしね!」


「つか、なんで早苗の頭の上に乗ってるんだよ? 飛べばいいんじゃねーの?」


 夏樹が強い口調で問いかけると、クロウは澄まして答えた。


「いくら私の姿が鳥型といえど、飛ぶという行為は、宇野葉が思うよりも遥かに大変なのだよ」


「何だよ、そんな恰好なのに飛べないのかよ、お前」


「飛べないとは言っていない。ただこちらのほうが効率が良いのだ。それと、クロウだ。私の名だ」


「あー、はいはい。分かりましたよ、クロウさん」


 夏樹が皮肉たっぷりの口調で彼の名を呼んだ。クロウがすかさず言葉を返す。


「さっき上月にも言ったが、”さん”は不要だ、宇野葉」


「くそー、なんかムカつくなコイツ。ほんと、愛想のないカラス!」


「クロウと呼べと言っているだろう。同じことを何度も言わせるな、宇野葉」


 夏樹が再び早苗の頭上に右手を繰り出す。その鳥の首根っこを掴んでやろうとしたが、その右手は何度も空を切った。早苗が少し怒った様子で注意した。


「もー、人の頭の上でケンカしないの!」




 ほどなく、二人と一匹は天堂中学校の正門前に到着した。その正門からは、左手に三階建ての白い校舎と体育館、正面には校庭が見える。さらに、その日はもう一つ見えたものがあった。校庭の上空に浮かぶ、巨大な白い光球だ。それは校舎すら凌駕するほどの大きさで、太陽と見紛うほどの強い白光を放っていた。


 早苗と夏樹は、上空の見慣れぬ物体を見上げてあんぐりと口を開ける。


「何、これ……?」


「こんなのあったっけ?」


 クロウもまた上空の光球を見上げながら口を開いた。


「あれはスフィアだ。この星の持っている力が溢れだし、あの座標で固定されたものだ」


「へえー、大きいなあ。それに、キレイだね」


 早苗が素直な感想を口にした。夏樹が慌てた様子でクロウに問いかける。


「つか、いつの間に学校の上にこんなの浮かべたんだよ? お前がやったのか!?」


「それは違う。これはお前たちが生まれる、ずっと前からここにある」


 クロウが淡々と答えると、早苗が驚いて言った。


「そうだったの!? じゃあ……、あたしが今まで気付かなかっただけかぁ」


「上月は理解が早くて助かる」




 夏樹が身を乗り出して口を開く。


「いやいやいや、絶対嘘だろ!? こんなの無かったってば!!」


「宇野葉、認識の問題だ。そこにあると思えば、それは存在する」


「意味わかんねーよ!」


「私は、あのスフィアの一部だ。私の姿を認識し、会話したことで、あれが見えるようになったのだ」


 それを聞き、早苗が頷いた。


「へえー、なんかよく分からないけど、納得したかも」


「上月は理解が早くて助かる」


「早苗、今ので納得できたのか……? すげぇな……」


 夏樹がぽかんと口を開ける。身体から力が抜けたのを感じた。


「――さて、ここまで送ってくれたことには礼を言う。それでは、質問の時間だ」


 クロウが早苗の頭上から飛び降り、校庭に降り立った。その金色の瞳を二人の顔に向けて語り掛ける。


「上月、宇野葉、魔法を使いたいと思ったことはないか?」


 早苗と夏樹がきょとんと顔を見合わせた。クロウは、さらに言葉を繋いだ。




「――私と契約すれば、あのスフィアの力、思い存分使わせてやろう」

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