2話 夢の入口

 北海道・日高ひだか地方――

 サラブレッドの生産数は年間約8000頭。

 日本の競走馬生産牧場の60%以上がある日本最大の馬産地で、育成施設やセリ市場などの専門的な施設や関連産業が集まる。


 新千歳空港から父の運転するレンタカーで走る車窓にはキレイな放牧地が広がり放たれている馬たちは自由に草を食んでいた。後部座席から眺める景色は俺を飽きさせる事なく流れていく。まずは担任の友人である高校教師の古畑さんに会うために高校に向かう。目的地までは約90キロ。普段は車に乗ると眠くなる質だが高鳴る胸は俺から睡魔を遠ざけているようだった。


「遠いところからよく来たね。疲れたっしょー」

 高校の玄関ホールで出迎えてくれた古畑さんは少々強面なガタイの良いおじさんだ。

「初めまして。鈴村晴臣です。俺の為に時間を取っていただいてありがとうございます。よろしくお願いします」

 しっかりと頭を下げた俺は今までに経験したことのない様な緊張を味わっていた。高鳴っていた胸のドキドキは未来が決まるかも知れない状況に見事なまでにかき消されいく。噛まずに言えたと内心自画自賛していると古畑さんが俺の肩をぽんぽんと叩いた。


「はい、よろしくねー。いいよ、うん!悪くない挨拶だ。義理人情に厚く、礼節がとても大事な業界だ、良いも悪いも、どこかで話す言葉は誰かの耳に入っていると思って話せ、と言われる様な世界だから」

 古畑さんは俺の挨拶に満足気で、握手をしながらニコニコしていたが俺には恐ろしい話をしている様にしか聞こえなかった。


 牧場での約束までまだ時間があり校内にある応接室で話をする事になった。

 両親も交えて少しのあいだ他愛無い話をし、ふいに古畑さんが俺に尋ねる。


「ところで晴臣君は競馬が好きなの?」

「競馬というよりサラブレッドが好きです。小学4年の時に日本ダービーの競馬中継を見て、それで勝った馬が本当にキレイで一目惚れしました」

「へぇ4年生でかー……ははは!こりゃ驚いたなーいやー参ったなー。あ、そろそろ牧場に向かおうか!」

 掌で額をぺちぺちと叩きながら驚いてた理由は聞かされないまま20分ほど車に乗り牧場に向かう。きれいに伸びる上り坂をのぼった先に牧場の看板が見えてきた。後ろには両親が乗る車もついてきている。



 須永すながファーム――


 看板を左折し敷地に入っていくと平屋建ての家がいくつかあり、2階建ての大きな建物も目に入った。古畑さんはこの大きな敷地の中には、独身寮や家族用の社宅があり従業員が暮らしているのだと説明してくれた。遠くには厩舎きゅうしゃも見える。

 途中でいくつかある曲がり角には「事務所」「第一生産部」「第一育成部」「第二育成部」「従業員寮」と書かれた木製の看板があり、それぞれの方向を指し示していた。端から端まで歩いたら一体何分かかるのだろうかと驚いた。看板に従い車が事務所の方に進路を変えると窓から身を乗り出して大きく手を振る恰幅の良い男性の姿が見える。


「あれがここの社長さんだよ。須永敦さん。面白い人でしょ?きっとびっくりするよ」

 そう言ってニヒヒと笑う古畑さんも手を振るので、助手席に座っていた俺は少し迷ってからぺこりと頭を下げた。


 案内されるままに入って行くと事務所には大きな窓ガラスがあり牧場内が見渡せる様になっていて、奥の方には馬が走るダートトラックも見える。

 両親に挟まれる形でソファに座ると目の前に2つ並んだ一人掛けソファに古畑さんと社長が座る。

 俺が挨拶をすると両親も同じように挨拶をして社長と少しの雑談をし始めた。喉の渇きは感じたが、出してもらったお茶に手を出す気にはなれず、緊張感はまた俺の胸や頭を刺激して少しの息苦しさを感じた。


「では、堅苦しい話はナシにしよう。晴臣君はここで働ける自信はある?」


 社長からかけられた言葉は短くもストレートな言葉で、一瞬何を言われたのかわからなかった。緊張で鈍る思考をフル回転させて自分の言葉を必死で探す。牧場に向かう車の中で古畑さんが「須永さんは相馬眼そうまがんもあるし、色々な人間をたっくさん見てきた人だ。小手先の話は通用しないよ。緊張するかも知れないけど自分の思う事だけをはっきり話しなさい」とアドバイスをくれていた。


「自信はありません。まだ自信がつく様な事をしていないし。でも、体力作りとか自分にできる準備はしているつもりです。夏休みの間の1日だけでも良いです。牧場の空気に触れられるなら、草抜きだけでもトラクターの洗車だけでも構いません。俺に出来る事だったら何でもやります」


 正直、頭の中は真っ白だった。溢れる思いに任せてたった今自分が言った言葉すらどこかに吹き飛んでしまった様な感覚になりながら、真っ直ぐに社長を見ることしか出来なかった。俺を見る社長の目は俺を見ているというより、目を通してその奥の心の中を見られている様に感じる。


「ふむ、君は良い顔をするね」

 人生で初めての褒められ方をして返答に困っていると古畑さんが笑いながら社長の肩を叩いた。


「この子面白いんだよ。ダービーで見たユキノサンライズに一目惚れしてこの業界を目指したんだって。僕もさっき高校でその話を聞いて面白くって」

「へぇそうなの?」

 目の前の大人2人はなにやらキャッキャッと笑い合っているが、俺たち家族は完全に置いてけぼりをくっていた。


「ユキノサンライズの生産牧場は知らないの?」

「はい、知りません。なんというか、馬に惹かれただけで、競馬には興味がなかったというか……」

 社長の質問はもっともだった。サラブレッドはみな何処かの生産牧場で生まれ、時期が来ると調教師のもとに預けられてレースに出る。さすがに「競馬に興味がない」はまずかったかとドキドキしていると、古畑さんが壁にかかった額を指さした。


「一番右の写真を見てごらん。誰かわかるかい?」

 言われた方向を見ると額がいくつか並んでいるが、大きな窓から差し込む光に反射していてその中身はよく見えていない。立ち上がって見えるところまで近付くと、美しい馬が先頭でゴールをきる写真だった。そう、紛れもなく俺の初恋の人、もとい馬だったのだ。


「これ、ユキノサンライズ!!」


「うちはサンライズの生産牧場だよ」

 明るく放たれた社長の言葉は頭の中で強めのエコーがかかりリピートされている。


「えっと、生産牧場ってことは、ユキノサンライズはここで生まれたって事で、ここで生まれたって事はここは生産牧場だから……えっと……」

 整理するために口に出してみたがおかしな事を言ってる気しかしなかった。両親は開いた口が塞がらないと言わんばかりに顔を見合わせ言葉を失っている。


「だめだー面白すぎてお腹痛いよ。こんな強運の子いる?」

 古畑さんはお腹を抱えて大笑いしている。


「すごいよ。本当にすごい事だ。僕は古畑君から中学生で牧場の職業体験をしたがってる子がいるんだけど興味ないか?とだけ聞いてた。そして、晴臣君は牧場の名前も聞かされないまま、惚れた馬が生まれたこの牧場に辿り着いた」


「奇跡的というか」

 自分でもがっかりするほど月並みな言葉しか浮かばなかったが、頭の中はまだ整理しきれてはいない。社長の言う通り俺は何も知らずにここに来た。勿論自分で望んだ事だったが、その結果は思っていた以上の大きさだった。


「この業界に奇跡や偶然はないんだよ。全ては必然だ。あとは自分の実力と運を引き寄せられる腕力かな。運も実力のうちと言うだろう?さて、職業体験はいつからにするつもりかな?」

「迷惑にならないなら今からでも大丈夫です!」


 思わず大きく挙手をしてそう言ったが自分の「運を引き寄せる腕力」とやらの事はよくわからないまま、社長の最後の一言で夏休みの職業体験が決まった。


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ターフを駆ける夢 草薙 至 @88snotra

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