真夏の風邪と、ほっこりぽかぽか卵スープ

絢瀬桜華

第1話


 朝起きた瞬間に身体の怠さを感じて、私は熱っぽい溜め息を吐いた。

 このところ、確かに体調はよくなかったし、あまり夜更かししたり無理したりしないように気をつけてはいたのだが、それでもだめだったらしい。学生はもうすぐ夏休みとなる七月中旬、完全に夏風邪をひいた、と自覚した私は、スマホを手繰り寄せて連絡先を選び出す。途中で休日なのに両親がいない理由を思い出し、私はスマホを床に放り出すともう一度溜め息を吐いた。

 そういえば、今週は両親ともに仕事がどうしても抜けられない、と言われていたのだった。

 だが、私がご飯を作らないと、おばあちゃんは自分では作れない。土曜日の今日は、なごみさんだってお店がある。せめておばあちゃんだけでも近所の人に頼まないと、と重い身体を必死になって起こすと、もう九時を回った頃だということに気付いて三度溜め息を吐くことになった。

 幸いなことに、おばあちゃんはまだ起きてはいないらしい。今のうちに、と着替えて隣の家のインターホンを押す。はいはい、と言いながら出てきてくれた馴染みのおばちゃんにあの、と声を掛けると、私の顔を見るなり慌てて玄関から出て来たおばちゃんに肩を掴まれた。

「和子ちゃん、顔色真っ白! 大丈夫!?」

「……そんなに悪かったですか……」

 体調が悪い自覚は大いにあったが、鏡を見ている余裕もなかったから顔色は確認していなかった。

 慌てて家の中に連れ込もうとして来るおばちゃんを止め、違うんです、と言葉を重ねる。どうしたの、と問いかけてきたおばちゃんに一拍置いてから、私は口を開いた。

「おばあちゃんの面倒、頼んでもいいですか……」

「それくらい頼まれるわよ! 和子ちゃんはどうするの」

「私は、一人でも……」

「だーめーよ! とりあえず布団で寝てなさい! おばあちゃんはこっちに連れてきて面倒見ておくから! 朝ご飯は?」

「すみません、まだです……」

「和子ちゃんは食べられそう?」

「……たぶん、むりかも……」

 思ったよりも、具合が悪い。

 はいはい帰るよ、とおばちゃんに支えられながら自分の家に戻り、布団に押し込まれる。その足でおばあちゃんを起こし、隣の家に連れて行ってくれたおばちゃんに心の中で感謝しながら布団を頭まで引き上げる。頭は痛いし身体は重い。喉が痛いとか鼻水が出るとかそういったことはないが、怠い方が辛い気がする。

 風邪をひいたのはいつ振りだろうか。少なくとも、こっちに来てからは一度も引いていない。から、風邪薬もなにもないだろう。なんてタイミングの悪い。

 とにかく寝てなね、とおばちゃんの声がする。それに頷いたかどうかも定かではないうちに、私は再び眠りの国へ引き込まれていっていた。


***


 目を覚ますと、十五時を少し回ったところだった。

 そういえば熱を測っていなかった、ということに気付き、のそりと布団から這い出す。と、いつの間に誰が置いたのか、枕元にお盆に載せられたポカリスエットと体温計。気付けば、枕も氷枕に変わっている。

 おばちゃんだろうか、といつもより数段鈍くなっている頭で考えながら、ありがたく用意されていた体温計を手に取って腋に挟んだ。台所の方から、なにやらとんとんとリズムのいい音が聞こえてくる。おばあちゃんは大丈夫だろうか、急だったから混乱していないといいのだが。ぴぴ、と音を鳴らした体温計を抜き取ると八度四分。まだまだ高いようだ。

 キャップを一度開けてあったポカリスエットを口に含み、一息つく。トイレに行こう、と立ち上がると、くらりと眩暈がした。どうして今更、疲れでも溜まっていたのだろうか。

 よたよたと壁を伝いながら、少し遠いトイレまで歩く。途中にある台所、その後ろ姿を何の気なしに眺めながら用を足して同じ道を戻る。二度目のその背にあれ、と漸く違和感を感じて、私は台所の入り口で立ち止まった。

「……なごみさん……?」

「あ、和子ちゃん。体調どう? 熱測った?」

「えっと、まだ怠くて、熱は八度四分でした……けど、どうしてなごみさんが、」

 私、なごみさんに連絡入れたっけ。確かに時間的にお店は終わっている時刻ではあるけれど、一体いつ来たのか。

「林さんから、和子ちゃんが熱出して大変だって連絡があってね。林さんはおばあちゃんの方頼まれてるから、よかったら来てくれないかって。明日お店休みだったし、丁度テスト勉強の息抜きだって言ってみやびが遊びに来てたから後半の店番任せて、お昼前くらいから来てたの。勝手に上がっちゃってごめんね」

「いえ、なんか、わざわざすみません……」

「お節介なの知ってるでしょう? 気にしないで。それより、今何か食べられそう? 少しましになったなら、病院行ってもいいんだけど……」

 一応行っておく、と問いかけられて曖昧に頷く。言っておいた方がいいとは思うが、そこまで任せるのもいかがなものか。

「あ、遠慮はなしだからね?」

 と、思考を先回りしてきたなごみさんに、苦笑しながら頷く。そう言われることは何となく分かっていた。ここで遠慮した方がかえって失礼だろう、と思って、頼めますか、と問いかける。じゃあ行こうか、と何かを作っていた手を止めて軽く台所を片した彼女が私を支えて、保険証だけは持ってきてね、と声を掛けてきた。

 こくりと頷いて、財布ごと保険証を持つ。お金は多分足りるだろう、と財布の中を思い返して、なごみさんに支えられながら車へ。私の様子を見たなごみさんが眉を顰めて、大丈夫じゃなさそうだね、と小さく呟いた。

「ちょっと、正直、大丈夫とは言えないですね……」

「だよね。ご両親は今週は帰らないの?」

「仕事が抜けられないらしくて……」

「もしかして、今日の夜、一人?」

 躊躇いながらも、一つ頷いた。ゆっくりと車を発進させたなごみさんは、病院の場所は分かっているらしい。あまり遠くないところにある個人院で診察を受け、うとうとしながら会計に呼ばれるのを待っていると、なごみさんにそっと背中をさすられた。

「疲れちゃったんだね、きっと」

「迷惑、かけちゃって、ごめんなさい、」

「だから、気にしないの。分かった?」

「……はい、」

「それと、私今日泊まるからね」

「……はい、……はい?」

 ちょっと待って。今なんて言った。

「よし言質取った。ほら和子ちゃん会計呼ばれたから済ませて帰ろう。ご飯食べられそう?」

「え、いや、あの、えっと、たべ、ます」

「よろしい」

 訳の分からないままに会計を済まされ、同じ道を通って自宅へと戻る。混乱したままの頭は、上手く回路を繋いでくれない。畳の上に座らされて毛布を掛けられた私は、もうどうでもいいような気がしてきた、と思考を投げて大人しくなごみさんを待つことにした。

 なんだかんだ、頑固な人だ。本気で嫌がればやめてくれるが、私が本気で嫌がらないのを彼女はきっと分かっている、それに。

 熱が出ているせいか、少し寂しいというか、人肌恋しいというか。ちょっとだけ、甘えたいな、と思っている自分がいることを、心のどこかで分かっている。

 手持ち無沙汰になって、私はぼうっと台所に立つなごみさんに視線を向けた。

 何を作るのか、材料は持ってきたらしい段ボールから玉ねぎを取り出して、皮をむいている。半分にした玉ねぎを、薄くスライス。鍋に沸かしたお湯に生姜と玉ねぎ、鶏がらスープの素を入れてひと煮立ち。味を確認すると、水溶き片栗粉を用意してさっと回し入れた。くるくると焦げ付かないようにとろみのついたスープをかき混ぜて、今度は溶き卵。回し入れて再度かき回すと、出来たスープを大きめのお椀に入れてスプーンと一緒に出してくれた。

「ご飯もの、食べられそう?」

「……まだ、無理そうです」

「だと思ったから、スープだけだけど。それ食べて、もらった薬飲んで、ポカリ飲んだらまた寝なね」

 小さく頷いて、スプーンでスープをひと掬い。確かにしっかりととろみの付けられたスープは、光に当てられているせいかきらきらと輝いて見える。ふうふうと息を吹きかけて熱を逃がしながら一口、じんわりと身体の芯から温まっていくように感じて、私はふと溜め息を吐いた。

 ────あったかい。

 このところ、バイトはしていても自分で作ることがほとんどだったから。誰かが作る、自分のための食事なんて、暫く食べていなかった。

 透き通った玉ねぎは、甘味を帯びている。とろみがついているから冷めにくいが、その分食べやすい。真夏なのに暑い、と感じていない自分に漸く気付いて、嗚呼本当に体調が悪かったんだと今更ながらに実感して。

 ぱたり、と自分の手に落ちてきた雫に驚いて顔を上げると、慌てて私に駆け寄ってきたなごみさんにどうしたの、と声を掛けられた。

「え、あれ、」

「どうしたの和子ちゃん、悲しくなっちゃった?」

「えと、そう、じゃなくて……」

 どうして私は泣いているのだろう。

 泣いている、と気付いてから、涙は更に溢れてきて仕方ない。止めようとして次々と落ちてくる雫を手の甲で拭うけれど、優しくその手を止められる。え、となごみさんの顔を見上げると、彼女は優しく私の頭を撫でながら、そうだね、と言葉を落とした。

「疲れちゃったんだね、きっと。和子ちゃんすごく頑張ってたもんね」

「────あ、っ」

 そんなこと、言われたら。

 止まらなくなる、と自覚して、私はスプーンを置くと両手で顔を覆った。よしよし、と抱き締めて頭を撫でてくれるなごみさんが、お疲れさまだね、と優しい声で囁いてくる。こくり、と頷くと、いつの間にか凝り固まっていた何かがゆっくりと解れていくのに気付いて、私はぱたぱたと涙を零しながら彼女の肩に顔を埋めた。

 疲れていたんだ、私。

 気付いていなかった。だって、知らない場所に一人で引っ越してきて、週末は両親が見に来てくれるけれど認知症のおばあちゃんの世話をしながら過去と向き合って。折り合いをきちんとつけられた、とは思ってもまだ学校には行けずに、なごみさんのお店でお世話になって。

 それでも、気付かないうちに、自分でもいっぱいいっぱいになっていたのだろう。

 真夏の風邪は、私の身体からの助けてのサインだった。それに私自身も気付いていなかったのに、なごみさんが気付いてくれた。そうしてかけてくれた言葉で、私は自覚することができた。

 なごみさんから離れて、残っている卵スープを口に運ぶ。ぽろぽろと零れ落ちる涙はそのままに、温かいスープを少しずつ、ゆっくりと、でも確実に。

「……っ、おいしい……」

 涙で震える声で、それでも呟いた言葉に、なごみさんが小さく笑うのが聞こえた。美味しい。優しい、味がする。頑張ったね、お疲れさま、……もう休んでいいよ、と。

 泣きながら卵スープを食べ切った私を、なごみさんはもう一度優しく、けれどしっかり抱きしめてくれて。温めのお湯と差し出された薬に、甘やかされているな、と笑って。

 ぽかぽかと温まっていく身体を、そっと布団の中に横たえる。次目が覚めた時には少しはよくなっていますように、と祈りながら、私の意識は闇の中に吸い込まれていった。

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真夏の風邪と、ほっこりぽかぽか卵スープ 絢瀬桜華 @ouka-1014

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