2 思いもよらぬ再会
新人戦の個人戦の日程が終わるころには、日が傾き始めていた。設営担当校はほんの少しだけ片付けと掃除をしてから、学校に戻るので疲れていても遅くなる。道場で増岡の話を聞いてから解散になったが、明日のための準備などやることは意外とあった。
ジャージ姿の俺は、道場の出入口ともいえる大きな窓の縁に腰かけて竹刀の整備をする。ささくれを丁寧に削り落とし、蝋燭を塗っていると、本田が「竹刀削り貸して」と寄ってきた。
「いい加減、自分のものを買えよ」
「だってお小遣いから出すの、嫌なんだもん。借りて済むのなら、お小遣いはスイーツ買うのに使いますぅ」
ぷくと頬を膨らめる本田に「太るぞ」と返したらと、「失礼な!」とむくれたが、このやりとりもいつものことだ。気にせず
シャッ、シャッ、と竹刀のささくれを削り始めた本田が、「そういえば」と話を振ってきた。
「しかし、今日の決勝は驚いたね。まさかあの恵梨ちゃんが負けるとは」
本田の一言に、俺は密かに眉を潜めた。
今日の個人戦、女子決勝の組み合わせは、予想通りに勝ち上がってきた相澤と、同じ海星女子の選手だった。どちらが勝っても優勝トロフィーは海星女子に渡るのだが、その相手が実力拮抗の二番手ではなく、明らかに相澤より格下の三番手選手。誰もが相澤の勝ちを予想していたのだが、優勝したのは相澤ではなかった。相手側の旗が上がった瞬間は、会場が大きくどよめくほど、誰も予想していなかった展開だった。
もちろん、俺ものその試合は見ていた。相澤の動きはいつも通りで、決して悪かったわけではない。偶然の打突が一本になることがたまにあるが、相手の技はまさにそれ。相澤からしたら運が悪かったとしか言いようがないもので、交通事故に遭ったも同然である。
しかし、勝負の世界は厳しい。実力の一本だろうと、交通事故の一本だろうと、重みは同じで、審判に認められれば、勝敗を左右する。
「まぁ、そういうことだってあるだろ」
竹刀の
俺の
しかし、他校生の俺は励ますチャンスどころか、話しかけることすら出来なかった。
* * *
校門で伊藤たちと別れ、家に向かって自転車を走らせた。
すっかり陽が落ちた暗い道を進んでいると、よく知った音が聞こえてきた。パンパンと打ち合う音は、帰路の途中にある小学校の体育館で響いている。
「そっか。今日は稽古の日だったな」
水曜日と土曜日の夜は、通っていた剣道教室の稽古の日だ。懐かしくなった俺は、開いていた正門からこっそりと敷地のなかへ入っていく。左手に見える体育館は煌々と明るく、ちびっこ剣士たちが懸命に稽古に励んでいた。
小学生の稽古は男女混合だ。あちこちで開かれる大会も男子の部と女子の部に分かれることは少なく、チーム自体が男女混合。だから、相澤とも稽古をしたし、試合もした。チームメイトであり、ライバル。互いに負けず嫌いで、必死で稽古をした記憶がある。
あのころは負けたくなくて必死だったな、と懐かしんでいると、「あ」とハスキーな女子の声がして振り返った。
そこにいたのは、相澤恵梨。大きなリュックを背負い、同じように自転車を引いている。ツリ目を丸く見開き、上下赤のジャージ姿で立っていた。
「こんなところで何してんの、
シンゴ、と呼ばれて心臓が大きく跳ねた。小学生のころからの知り合いである相澤は、俺のことを下の名前で呼んでいたし、俺もそうしていた。だが、中学に入ったころに気恥ずかしくなったのか、相澤は俺を名字で呼ぶようになっていったので、彼女の声でこう呼ばれるのはかれこれ四年半ぶりである。おそらく、剣道教室の懐かしい空気にあてられたのだろう。
「そっちこそ、どうしたんだよ」
しかし、あのころのようには呼べない俺は、曖昧な言い方で誤魔化した。
「別に。音が聞こえたから、何となく」
「僕もそんな感じ」
「懐かしいなぁ、剣道教室。あのころは楽しかったな」
暗い校舎を仰ぎ見た相澤が言った。
「ね、まだあのベンチあると思う?」
「ベンチって……。俺が落ちて、顔面傷だらけになった?」
「そうそう」
「そうって、あれは誰かさんが驚かしたからだろ」
思い出した相澤は笑い、俺は苦々しく顔を歪めた。
あれは小学五年生、水曜日の稽古前のこと。早く到着した俺が袴姿で、背もたれのないベンチを平均台のようにして遊んでいたら、息を潜めてやってきた相澤に後ろから驚かされた。びっくりした俺は袴の裾を踏んでバランスを崩し、目の前のコンクリートにダイブした。辛うじて顔面強打は免れたものの、頬に大きな擦り傷を作って血だらけ。見学当番の父兄に「何してんの!」と消毒液をバシャバシャやられて悶絶したことを思い出した。
「あれは謝ったじゃん。あれがまだあるか、見に行ってみようよ」
あのころと同じように、軽い口調で誘われる。体育館で見た凛とした雰囲気はどこに吹き飛んでしまったのか、相澤は悪戯っ子の顔をしていた。
俺はというと――想い人の誘いに乗らないはずがない。先に動き出した相澤の後を追い、自転車を引いた。
あのベンチがあったのは、校舎を挟んで体育館と反対側。正門に一番近い、低学年の昇降口の傍である。行ってみると、それはまだ同じ場所にあった。水色のペンキは剥げかけ、木製ゆえに削れたり、ボロボロに朽ち始めている部分があったりしたが、俺が怪我をしたベンチに間違いなかった。
「ある! だいぶボロくなったね」
声を弾ませた相澤が、ベンチの傍らに自転車を止めて座った。自転車を手に立ったままの俺を見て、ぺしぺしと自身の隣を叩く。
「座んなよ。小さくてちょっと座りにくいけど」
む、と眉を寄せる相澤。こんなふうにくるくると表情を変える彼女を見たのは、高校生になってからは初めてだったが、こんなふうに誘うときは何かあるときだったと思い出す。
促されるままに自転車を止め、隣に腰かける。懐かしいベンチは小さくて、高校生になった俺たちには、確かに少し座りにくかった。
稽古の音を遠くに聞きながら、ちらと隣を見る。すっと通った鼻筋の横顔は、どこか一点をじっと見つめていた。街灯の光に浮かぶ綺麗な横顔に目を奪われていると、ぱっと相澤が俺のほうを睨んだ。
「今日の試合のこと、何も言わないの?」
俺が口にしなかった話題を彼女は自ら振ってきたが、こっちにだって言わなかった理由はある。
「だって、負け試合のことをあれこれ言われるの、嫌いだっただろ」
そう答えると、相澤は言葉を詰まらせた。
俺も相澤も勝負のある世界に身を置いているのだから勝敗を気にするのは当然だが、小学生は特にそれにこだわるお年頃。団体戦ともなると、特にそれは顕著になり、試合に負けた者に「お前が一本取れてたらなぁ」と平気で言える無邪気さと残酷さが、子供にはあるのだ。言われた敗者は悔しさから口を噤むことが多いだろうが、相澤は違った。「何よ!」と食ってかかり、取っ組み合いのケンカに発展して当時の指導員に叱られたこともある。
彼女もまた同じことを思い出したようで、不満げな声を漏らした。
「それ、小学校のときだし、言ったの真吾だし。今は反省しろって言われてるんだと思えるようになったわよ」
「それなら、暗い顔しないだろ。あのころが楽しかった、なんてことも言わない」
相澤が固まった。どうやら図星だったらしい。
「無理に話せってことじゃないんだ。聞いたところで、俺がどうこうできるとは思えないし。でも、腹に溜めてるものを全部吐き出したら、楽になることもあるんじゃないかな……って」
そう告げてちら、と見ると、顔をくしゃくしゃにした相澤が俺を見ていた。決勝後、面を外した瞬間に見えた、今にも泣き出しそうな顔と重なり、俺は息を飲んだ。
屋外のベンチに座っていることはわかっていたが、不思議と試合会場で相対している感覚に襲われる。開始線で竹刀を構えて立ち上がったものの、互いに動きだせずにいる――そんな感じだ。
俺が踏み込んで、いいのか?
いや、違う。今は、踏み込まなきゃいけないときだろう。
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