君との間合い、一足一刀

REIA

1 平凡な俺と女王

 剣道の試合会場は正方形。そのなかに描かれるのは、中央を示すバツ印と、それを挟んだ二本の開始線のみ。小学生も、高校生も、バツ印から開始戦までの距離は同じだ。

 小学生には開始線から中央までは少し遠く、大きく一歩踏み込まなければ、同じように前進してくる相手の剣先と交わらないのだが、怖さや駆け引きなど知らなかったあのころは、すぐに剣先が相手とぶつかって打ち合いになったものだ。

 高校生になった今は使い竹刀も長くなり、手足も伸びたのでほんの少し前に出るだけで剣先が交わる――そのはずなのに、俺が交えたい相手の剣先はずっと遠くて、打ち合いになるどころか、間合いにも入れない。

 相手が開始線にもおらず、試合場の外にいるときは、どうしたらいいのだろう。


 互いの剣先が交わる中央点ーー一足一刀の間合いまで、たったの一五センチなのに。


  * * *


 剣道部の新人戦地区大会が行われる市営体育館の風通しは抜群に悪い。一筋の風も吹き込まない残暑が満ちた体育館のなかは蒸し暑くてたまらない。

 今はまだ会場設営校の生徒たちがいるだけなので幾分マシだが、もう少しすると暑苦しい装いの高校剣士たちがわらわらとやって来る。そうなると人口密度が一気に上がり、ただでさえ空気の澱む体育館は蒸し地獄になる。

 熱いし面倒臭い――心ではそう思っていながらも、会場設営担当である矢島高校剣道部の一員である以上は、きちんと仕事をこなさなければならない。きちんとやらねば顧問の叱責が飛んでくるので、手を抜くわけにはいかなかった。

 部活指定のシャツを汗だくにしながら、同じ学校の同級生・伊藤信二いとうしんじ早田宏太そうだこうたと三人組になって会場を作り上げる。ひとりが幅跳びなんかの飛距離を図る長いメジャーで位置取りをし、それに沿ってラインテープを引っ張るのがひとり。メジャーとラインテープの先をキープして、真っ直ぐかどうかを見極めるのがひとり、という役割分担だ。


武田たけだ、ちゃんと持ってろよ!」


 声をかけられた俺は「わかってるよ!」と声を上げる。

 今日の試合会場は一辺が十メートル。出来上がった正方形の中央に、早田がバツ印をつけた。


「中央から一.四メートルのところに開始線。第三会場、出来上りぃっと!」


 開始線のテープを、中央点を挟むように貼り付けた伊藤が万歳をする。これで俺らの仕事は完了である。

 俺は、まだ試合が始まらない戦場の開始線に立ってみた。

 試合になり、竹刀を構えて蹲踞して主審の号令を聞くのはこの開始線だ。高校生が使う竹刀は三八さんぱちと呼ばれる一一七センチメートルのもの。開始線で構えると、竹刀の先から中央のバツ印まではおよそ一五センチ。これは、双方が一歩ずつ踏み込めば剣先が交わる距離、いわゆる一足一刀の間合いというやつで、開始線の位置は打つには遠く、かといって集中力を切らすことのできない絶妙な距離なのである。

 でも、俺が相対したい相手との剣先は、ここでは絶対に交わらない。

 そんなことを考えていると、ごつんと頭を小突かれた。


「何をぼんやりしてんだよ、武田。会場設営で熱中症とか、しょうもないこというなよ? うち、人数ギリギリなんだから」


 後ろからどついてきたのは、伊藤である。


「そんなアホなこと、言わねぇよ。マッスーにどやされるのなんて嫌だし。武者震いだよ」


 マッスーというのは、増岡ますおかという我が部の顧問である中年男性教諭だ。すらりと背が高く、中年なのに若々しく精悍。自身も剣道を嗜み、僕たち部員を日々しごいているからか、メタボリック症候群に悩まされている様子はない。怖くも尊敬できる顧問であり、今日の大会会場設営責任者でもある。ゆえに、僕らが会場設営に駆り出されているというわけだ。

 俺の武者震いという言葉に、早田が笑った。


「お前、高校の公式戦は初だもんな」

「そうだよ、悪いか」

「悪かない、悪かない。夏までは三年だけでチーム組めてたんだ。補欠だったオレらだってほとんど出番なかったし、同じようなもんさ。緊張するよな」


 剣道の団体戦は五人で一チームが基本だ。夏の大会で引退した三年生はちょうど五人いたが、俺たち二年生以下は二学年合わせて、ようやく五人。地区大会も三回戦進出を目標とする、ごく平凡な戦績の学校である。

 平凡な学校ではあったが、だからこそ、目標を果たそうと俺たちは互いの尻を叩きあって稽古に励み、今日を迎えていた。


「ほら、そろそろ他の奴らが来るぞ。いいよな、あいつら。試合前に体力使うことがなくて」


 気が付けば、観覧席もフロアも、徐々に人が増えてきていた。人が増えるにつれて、試合前特有のピリピリとした緊張感が体育館内に満ちていく。

 そのなかにあって、ひときわ大きくざわりと空気が揺れた。会場の視線が、自然とフロアの入口に注がれている。つられた俺も一緒になってそちらを見た。

 会場中の視線を一身に浴びているのは、赤いジャージを羽織った女子の一団。地区女王・海星かいせい女子高校である。

 その先頭を歩く女子の姿にどきりとした。ショートカットの髪に、つり上がった小さめの勝気な瞳。きゅっと口元を引き結んだ、不機嫌そうな表情の女子は相澤恵梨あいざわえり。海星女子の主将は、小学校、中学校と共に稽古に励んできたかつての戦友であり、俺が好意を抱き続けている相手で、片思い歴はかれこれ四年半だ。

 凛とした空気を醸す相澤は相変わらず綺麗で、女子のくせに格好良いよな――などと思っていたところに「こーら、何を喋くってるか!」と女子特有の、きゃぴきゃぴ声で呼ばれた。

 ひょっこりと俺たちの視界に入ってきたのは、本田麻衣ほんだまい。俺と同じ高校の剣道部に所属し、相澤ともかつての部活仲間であった女子だ。

 本田も俺たちの視線を追い、海星女子の一団を見つけたようだ。


「あ、海星女子だ。まさに女王! って感じだよね。恵梨ちゃんも主将が似合ってる」

「喋りに行かないのか?」

「試合前だし、行かないよ。だって、近寄りにくくない? あの威圧的な赤ジャージ。あー、怖いっ」


 本田の気持ちは正直、分からなくもない。赤の集団は会場内でも特に目立ち、そのうえ地区内では近年負けなしの最強ぶり。赤ジャージが怖いと、委縮してしまう弱小校もあると聞いたことがある。


「今回も海星女子に優勝持って行かれるのは間違いないね。そんで、今日の個人戦優勝はきっと恵梨ちゃんだよ。二年生なのに、夏の大会でベスト四だったんだから」


 諦め口調で本田が言う。「そんなことないだろ」と言ってやりたいところだが、俺たちだって海星女子の圧倒的な強さは理解しているので、慰めにもならないことを言うのはやめた。


「設営係は舞台前に集合!」


 舞台上の本部から、マイクを通した増岡の声がかかる。顧問の声に躾けられている俺たちはぱっと体を翻し、指示を出していた顧問のところへと駆けた。

 設営係の解散が告げられ、矢島高校の部員たちが増岡の前に集まると、すぐさま次の指示が飛んできた。


「男女とも、すぐに着替えてアップしろよ」


 審判員の正装であるグレーのスラックスを履いた増岡に揃って返事をした俺たちは、すぐさま試合に向けて動き出す。


「早くしねぇとアップするスペース、なくなるぞ」

「はい!」


 主将の伊藤を先頭に、荷物置き場にしている観覧席に上がった。作ったばかりの会場を見下ろすと、すでに防具姿の他校生たちで埋まりかけている。

 急いで防具と袴を持ったところで、斜め下に海星女子が見えた。

 女子にしてはハスキーな声で号令をかける相澤は、悔しいがやはり格好良い。同時に、相澤が遠い存在になったとことを思い知らされ、俺は密かに眉を潜めた。

 高校生は男女混合で試合をすることはなく、特別なことがない限りは稽古も男女別。別々の高校に通う俺が相澤と見える機会など、万が一にもありはしないのだ。

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