夏がはじまる
猪苗代町、七月一日、午前十時ーー。
澄み切った蒼穹の下、平沢庵の女将、
結わえた長い黒髪と、先代女将から受け継いだ紫の和服が、流れるように風に揺らめく。
これが文子のリラックス法。折角忌々しい台風が去って晴れ切ったのだ。かっ飛ばさなくては損である。
別嬪号の原型、〈カワサキ・ニンジャzx-6r〉の黒曜色のボディーが、安達太良山の白い山体を映して白銀に輝く。
『列島を縦断した台風八号は、本日未明に日本海にて温帯低気圧へと変わりました。東北全域は台風一過の快晴となり、気象庁は例年より二週間ほど早い
ステアリングに取り付けたラジオから流れるニュースに、文子は上機嫌に口笛を吹いた。
梅雨明けとは即ち、繁忙期の到来だ。
「がっぽり稼ぐわよォ!」
心地良い山風に吹かれながら、鼻息を荒くした文子は独り意気込むと、ウィンカーを出して大きなT字路を左折、視線左にスキー場の看板が見える。
国道一一五号線から県道二四号線に入れば沼尻ーーそして、文子のホームタウンである中ノ沢温泉街だ。
いつもならば、緩やかな坂の上に在る平沢庵に帰るのだが、今日は違う。
郵便局前のY字路を右に曲がり、そのまま暫く一本道を女将文子は風と共に駆けた。
左手には立ち並ぶ旅館から温泉の湯気が上るのが見え、右手の森からは小川のせせらぎが聞こえてくる。
せっかちな太陽はもう夏の様相を見せ、陽光を反射する山々の鮮やかな緑が文子を楽しませた。
「今年の夏は色んな意味で熱くなりそうね!」
陽気に、文子は堪らず独り言ちる。
文子は夏が好きだ。人も動物も植物も、活気燃ゆる夏が大好きだ。
「おっと!」
気が早り過ぎて、文子はつい目的地を通り過ぎてしまいそうになった。
後続車、対向車が無いことを確認すると文子はUターン。
【達沢不動滝】
看板が示す方向へ、深い森の中へと、文子は別嬪号を進ませる。
「ふーふーん……」
文子の陽気な鼻歌はエンジン音と共に沼尻の深緑の山々に響き、やがて、消えていった……。
****
達沢不動滝とは、中ノ沢温泉街から車もしくはバイクでおよそ五分。岩肌に沿って簾のように、川水が美しく流れ落ちる景勝地である。
昔は修験者の拓離場でありーー。
数年前までは、時緒と正直の修行場でもあった。
(懐かしいわね。よく
木道を渡って文子が辿り着いた時、其処にはーー
「…………」
「…………」
二人の男がいた。
一人は文子の夫にして正文の父ーー平沢庵社長、
そして、もう一人はーー。
厚手トレンチコートを纏い、チューリップハットを目深く被った
時緒にルリアリウム・カリバーの召喚カードを渡した大男だった……。
「何?アンタ?まだいたの?ヨッちゃん昨日猪苗代出たわよ? 」
大男に対し文子は呆れ笑いを浮かべるが、大男は「……問題無い」と静かに頷いた。
「いや問題あるでしょうよ。どうしたデカブツ?息子が
意地の悪い笑みで文子が問うと、大男は岩に体育座りして、急に肩を震わせながらすすり泣き始めた……。
「…ッ、カリバー…使ってくれた…!カリバー使ってくれた……!」
「うわぁ……泣いちゃったわコイツ」
「俺……もう……死んでも良い……!」
大男の目から涙が溢れ落ちて、沢へと溶けていく。
「
くつくつと笑って……やっと
「あら…?」
我が夫を見て、文子は顔を強張らせた。
眼鏡の奥の正直の瞳には、静かに、だが激しく、闘志の炎が宿っているのを見て取れたからだ。
「
「いや……その
文子が固唾を呑む中。
「……時緒が、あそこまで頑張るなんて……!」
ひゅうん。風を斬って、木刀が滝を薙いだ。
「悔しいな…!見事だったよ…!」
次の瞬間、滝が……滝の水流が……!
爆音と共に木っ端微塵に斬り砕かれ、巻き上げられた水が周囲に雨となって降り注いだ!
鮮やかな虹が、正直と文子の間に掛かる。
「
「自分だけの剣を見つけて欲しいとか宣って時緒ちゃん破門にしたの、何処の誰でしたっけ?」
態とらしく言って見せた文子の皮肉に答える事無く、
「こりゃあ……冗談抜きで僕もうかうかしていられないな……!」
まるで中学生めいた、うきうきと気迫を放つ正直に、文子は態とらしく大きな溜め息を吐いて苦笑する。
「ちょい
正直は聞いていない。
男はいつでも、何歳になっても子供なのだ。
青春真っ盛りなのだ。
文子は、そう思うことにした。
「時緒がカリバーを…!カリバーを……!持ってきた甲斐があったなぁ……!」
未だに大男は、文子の傍らでおいおい泣いていた……。
****
「正文さんは寝る時何を着けて寝るのですか?浴衣ですか?パジャマですか?」
「ふっ…!決まっているだろう芽依子嬢。シャネルのNo.5だ……!」
「……聞かなきゃ良かったです……」
その日は土曜日で、午前中で授業が終わった時緒達猪苗代仲良し倶楽部の七人は、皆一斉に磐越西線の車両から猪苗代駅のホームへと降りた。
時緒達は皆ワイシャツ姿の夏服だ。台風一過のやや蒸し熱い陽気が、猪苗代の少年少女達を開放的にさせる。
「にゃにゃ〜〜っ!!」
佳奈美に至っては嬉しさのあまりホームで側転する始末だ。
「……ところで椎名くん?」
「んん?」
夏服のミニスカートに慣れない真琴がやや赤面しながら、欠伸をする時緒へと問い掛けた。
「体調は大丈夫?」
「何の?」
「ほら……台風の時戦ったって。な、何だっけ?……しねんこー?」
「しねんこー?……ああ!思念虹ね!」
時緒は真琴ににっこり満面の笑顔を見せた。真琴のハートをいとも容易く高揚させる、少年の笑顔だった。
「実は昨日まで頭痛が続いてさ、卦院先生から貰ってた薬飲んでたんだけど……今日はもう元気さ!ありがとね!」
「……そっか…!うん…!良かった…!」
真琴ははにかんで頷いた。時緒が元気ならばそれで良い。元気ならば、真琴は幸せだった。
「それで!?」伊織が時緒にアームロックを掛けながら質問する。
「 エクスレイガに新武器なんて聞いてねーぞ!何だよカリバーって!?対戦したお姫様は!?会わせてくれよ!!」
「声がデカい!!」
時緒は立てた人差し指を自分の唇に押し当て伊織を嗜める。その背後で、芽依子がぴくりと顔を強張らせた。
「ルリアリウム・カリバーなら無いよ」
「何で!?」
「戦いが終わったら……来た時と同じように飛んでっちゃったのよ」
「つまんねー!」
唇を尖らせる伊織を無理矢理引き剥がして、今度は律が時緒へと詰め寄った。
「で…?」
「で?」
「その…暴走したお姫様とやらは…?お前が助けたんだろ?」
「それは……」
時緒が律の問いに答えようとした、その時ーー
「 トキオうゅーーっ!! 」
甲高い子供の声が猪苗代駅の駅舎内に響き渡り、時緒達だけでなく、駅員、客、全ての人間が駅入り口に注目する。
少女だ。
亜麻色の長い髪に【戦ったもん勝ち】とプリントされたシャツを着た幼い少女が、仁王立ちして時緒を睨んでいた。
「何してるのぅ!?早くかえってくるってゆったじゃーん!あたしとあそぶのョーーッ!!」
どかどかと蟹股で走りながら、少女は時緒の背中目掛けジャンプし、しがみ付く。まるでノミのようだ。
「トキオー!あそぶー!うゅゆ〜〜ん!!」
時緒は苦笑しながら、すっかり気圧された真琴達に向かって、背中の少女を顎先で示して言った。
「え〜と……この娘さんが例のお姫様です。
時緒の傍らで、何故か芽依子は恥ずかしそうに項垂れていた……。
続く
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます