憑き物落とし


「んぐぅ………………、……、ママ……あと五分だけ……五分だけお願い……」



 芝生の上で、真琴は暫く寝言を呟き…、



「……はうっ!?今何時!?」



 そして、覚醒した。



 真琴は身体をくの字に折り曲げた状態で背筋のみの力で飛び起きる(所謂ジャックナイフ)と、慌てて周囲を見渡す……。


 視界が霞む。真琴は顔面に手を当てる。眼鏡が無い。


 尻の下には芝生の感触が。天を仰げば、夕焼けと夜が混じった空に、薄らと星々の光が見える。


 はて?何故に自分はこのような所で寝ているのかーー?



「やだ……夢遊病?」



 真琴は唇をむにゅむにゅ歪ませながら、一体自分に何があったか自答する。


 するとーー



「真琴さん!」



 革靴を鳴らして、亜麻色の髪を振り乱し、芽依子が真琴の方へと駆け寄って来た。



「芽依子さん……?なにが…ぶっ!?」



 真琴の言葉が最後まで紡がれることは無かった。


 涙目の芽依子に抱かれ、顔面をその豊満な胸へと押し当てられたからだ。



「まったく貴女って人は!」

「め、めひこひゃん!?」

「後先考えないで危ない人の前に出て!」

「は、はひ!?」

「貴女も時緒くんと同じですっ!無鉄砲なお馬鹿さんです!!」



 正直な所、芽依子が何を言っているのか分からない。


 何も覚えていないのだからーー。


 ただ。


 芽依子は言った。


 自分は時緒と同じだと。


 バニラめいた芽依子の体臭を鼻腔いっぱいに吸い込みながら、ただその言葉だけは、真琴は嬉しく思った。



「ごめん……正文」

「気にするな……相棒」



 そんな芽依子の肩の彼方で、真琴は信じられないものを見た。


 正文が、疲れ切った表情の時緒の、その身体を抱きかかえて立っていた。


 俗に言う、『お姫様だっこ』だ。



「僕は……僕を抑えられなかった。まるで悪夢だったよ……」



 悔恨の表情をする時緒の涙を指先で拭って、正文はキザな微笑を浮かべる。



「悪夢か……それは重畳、悪夢を見るのは心が健やかな証拠だからな」

「……茶化すなよ。馬鹿」

「……確かに暴走アレは褒められたものじゃあないが……」

「…………」



 正文の笑みが、気障なものから陽気なものへと変わっていく。



「お前は女の為に戦ったのさ……。その意気だけは忘れるな。意気だけは……な?」



 時緒と正文の間に流れる、他人の入り込む余地の無いような雰囲気……。



((な…なんか…正文さん(平沢くん)だけ……ずるい……!ずるい……!!))



 芽依子と真琴は、何処までも何処までも悔しそうな眼差しで、正文を睨み続けた……。





 ****




 一方、猪苗代町、【水野呉服店】。



「ムムッ!?BLの気配ッ!!」



 薫は突如立ち上がり、周囲をギラついた目で見回すーー。



「薫ちゃん、仕事して」



 やっとこ『薫誘拐事件』から立ち直った夫の嘉男は店の帳簿を睨みながら、独り猛る妻をやんわりと嗜めた……。





 ****






「……ということがありまして」

「芽依姉さんも……ごめん!」



 アスファルト上で平身低頭する時緒に向かって、芽依子は溜め息を吐いたのち、疲れ切った微笑を浮かべた。



「本当にもう……!この借りは……また真琴さんとの三人デートで返してもらいますからね!」



 一方ーー。


 自分が灰に殴り倒されて気絶したこと。そして、その後の顛末を芽依子と正文から聞いた真琴はーー



「ぁが……」



 驚きのあまり、口をぽっかり開けたまま硬直した。



「神宮寺さん!?大丈夫!?まさか…倒れた時の後遺症が!?」



 時緒が慌てて真琴の背を摩る。


 時緒の手の感触が、暖かい感触が伝わり、真琴は天にも昇る気持ちになった。



「大丈夫だよ。ありがとう」



 真琴がそう言うと、時緒の手がゆっくりと離れる。


 本当はもう少し……もう少し摩って欲しかったが、贅沢は言ってられない。


 自分の為に、自分にされたことを怒って、時緒は暴れた。


 それは確かに褒められたことではない。


 だが、それでも……。



「ありがとう……椎名くん」

「やめて頂戴……。神宮寺さん……僕は……」

「うん。でも……ありがとうだよ」



 いけないこと。でも、嬉しかった。


 私の為に戦ってくれたーー。


 悲喜がごちゃ混ぜになった不思議な気持ち。


 この感情を形容する語彙を、真琴は持ち合わせていなかった。



「…………」



 時緒は自分を降ろすように正文へ目配せで頼む。


 正文は一瞬躊躇したが、やがて首を縦に傾け、ゆっくりと時緒の足を地に着けた。



「大丈夫か?」

「うん、歩ける」



 時緒は自分の足で、歩を進める。


 その先には、校舎の壁に身をもたれさせた灰がいた。



「西郷……先輩」

「…………」



 灰は時緒に見向きもせず、ただ疲弊しきった青白い顔でうずくまっていた。



「……ごめんなさい。本当に……ごめんなさい。先輩を……傷つけて……本当にごめんなさい……」

「…………」



 矢張り灰は応えない。



 呆れていた。灰は呆れ果てていた。


 あれだけの力をーー強靭な剣戟で圧倒しておいて、敗者に首を垂れるとは。


 時緒の頬を伝う涙が夕陽に照らされ輝いていた。


 椎名 時緒。何処まで馬鹿な奴なのだろうか。


 敗者に泣くな。敗者に謝るな。


 灰は、時緒と対話する事が、自分が、とことん馬鹿馬鹿しくなってきた。



「……生徒会室だ」

「え…っ?」



 絞り出すような灰の声に、時緒は驚く。



「行け。田淵 佳奈美は……生徒会室にいる。副会長が……直々に断罪すると……」



「矢張りそうか…!あの毒婦め…!」正文が舌打ちをした。



「行け……!田淵を助けたくば早く行け……!もう……俺の視界から……消えてくれ……!」

「せんぱ……」

「もうこれ以上……俺を……惨めにしないでくれ……」



 灰の言葉それは……時緒の気迫を見た、時緒への憎悪を失いかけた今の灰の、渾身の呪詛であった。



「教えてくれて……ありがとう……ございます……」



 しかし、時緒はそんな灰に向かって深く礼を……会津の男としての最低限、そして重要な拝礼をすると、校舎の昇降口へと駆けていった。


 正文、芽依子、そして真琴も時緒に続く。



「……神宮寺」



 最後に灰は、真琴を呼び止める。


「は、はいっ!?」と、真琴は慌てて振り向いた。



「……済まなかった。殴ってしまって……」

「…………」

「本当に……済まない」



 本当の所、今の真琴に、灰に構っている暇は無い。早く、時緒に付いて行きたい。


 しかし、その感受性で灰の哀しみを感じ取った真琴は、先程の時緒のようにお辞儀をして見せた。



「先輩も……痛かったでしょう……?」



 真琴は哀しげに言って、時緒の後を追った。



「…………」



 独り残った灰は、芝生にその身をゆっくりと横たえる。


 激痛はいつからか鉛めいた倦怠感へと変わり、灰を夕闇の中へと沈めていく。


 会津の初夏の夜風は、未だに薄ら寒い。



「馬鹿は……俺だな」



 灰は己を嗤う。



 事実、時緒に負けたことと、母が灰を置いて出て行ったことに、直接的な因果関係は無い。無いと思う……。



 ただ、己の不幸を、誰かに八つ当たりたかっただけなのだ……。



 を利用して……。



 意識が朦朧とする中、灰は過去を幻視した。



(しいなときおですっ!よろしくおねがいしますっ!!)



 幼い時緒は、真っ直ぐに透き通った目で、灰を見て笑っていた。


 見ていて、気持ちの良い笑顔だった。


 一瞬、友だちになりたいとも思った。



「椎名……やっぱり……お前を……剣道部へ……入部いれて……おけば……」




 一緒に剣の道を進んでいれば……。



「…………」



 会津若松の優しい風に包まれ、灰の意識は、疲労の彼方の闇の中へと、沈み込んでいった……。





 続く

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