月は東に日は西に 〜変人VS魔人〜
時緒は、自身の怒りの荒波の中で溺れていた。
もう嫌だ。もう嫌だ。
時緒は灰が許せなかった。
しかし、何よりも……。
怒りに身を任せてしまった自分が許せなかった……。
激情を抑え込もうとすると、待ってましたとばかりに灰が真琴を平手で打ち払う光景が何度も何度もフラッシュバックし、その度に新たに溢れる怒りに時緒は沈んでいく。
嗚呼、自分は何処までも愚かなのだろうか。
先月に芽依子に暴言を吐き、今度は御覧の有様だ。
時緒はさめざめと涙した。
勝手に怒って、勝手に泣いて。
こんな自分勝手な己が、時緒は何処までも何処までも許せなかった。
(ああ、もう…良いや……。こんな
時緒は自虐に嗤った。
もう、どうなっても良い
いっそこのまま暴れ狂い、芽依子にも真琴にも白眼視される存在になってしまえば良い。
諦め、怒りの海に時緒は身を委ねようとした。
『待たせたな……!』
何処からか、正文の声がした。
****
「あがっ…!あ……ぁ……ぐ……」
ぐちゃり、と音を立てて、灰は地面へと力無く倒れる。
身を裂くような激痛に、灰は二度三度気絶しかけた。
しかし、鍛錬と時緒への恨みによって鍛えられた灰の屈強な精神は、その苦痛とは裏腹に気絶することを許さず、時緒の責め苦を受け続けるという皮肉な現実を灰に与え続ける。
「や、やめてくれ……やめてくれぇぇ……!」
地面を不様に這う灰に、傷だらけの木刀を構えた時緒はゆっくり、ゆっくりと歩み寄る。
「……この程度で済むと思うな……」
「ぐっ…!この…バケモノめ……!」
苦し紛れに灰は近くに落ちていた石を掴み、時緒へと投げつける。
しかし、時緒は投石を事もなさげに木刀で振り砕いた。
猪苗代の大自然で遊ぶことで培われた時緒の反射神経は、甲子園球児の豪速球ですら簡単に打ち返す。
「…っ!?」
万事休す。
灰は恐怖、戦慄し、そして、確信した。
これが椎名 時緒の実力だ。
今までその穏和な理性で制限されていた戦闘能力が、邪魔な
これが、この恐ろしい姿こそが、あの椎名 時緒の真の
「た、助けてくれ…っ!」
恥も外聞もか殴り捨て、灰は懇願の叫びを迸らせる。
時緒ではなく、
「助けてくれっ!椎名を止めてくれっ!!」
「…っ!」
芽依子は気絶した真琴を芝生に横たえると、一目散に時緒へ向かって低く跳んで走る。
灰に頼まれたからではない。しかし、そう見えるタイミングだったと思うと、芽依子は酷く不愉快に感じた。
「時緒くん!やめて!やめるんですよ!」
芽依子は背後から時緒へとしがみ付く。
「は・は・は……!」
しかし、当の時緒は歩みを止めない。その身体の体温は、芽依子の絹肌に汗が滲む程熱いのに、発散される気迫はまるで冷凍庫に押し込まれたかのように寒々しいものだった。
制服越しとはいえ、自身の豊満な胸を押し付けているにも関わらず、時緒に動揺の素振りは無い。
所持するアダルトコミックの内容から時緒の性的嗜好を識っていた芽依子は、現状の時緒が正気でないことを再確認した。
時緒は芽依子を引き摺りながら、灰へと辿り着き、満身創痍の灰目掛け木刀を振りかざす。
木刀の軌道の先には、灰の脳天。
このまま、今の時緒の力で木刀を振り下ろせば、灰の頭蓋は粉砕されてしまうーー!
「や、やめろおぉぉぉぉっ!!」
「時緒くんっ!駄目えぇぇっ!!」
灰と芽依子の絶叫がユニゾンする。
(私が殴れば
唯一の解決策を芽依子は思いついたが、同時に、幼い頃の時緒を思い浮かべてしまう。
芽依子のトラウマ。炎に飲まれる時緒の小さな身体ーー!
(そんなこと…出来る訳がない!!)
再び、時緒を傷付ける訳にはいかない。
打つ手無し。芽依子は時緒を抱き締める事しか出来ない自分の無力さに震えた。
そして……。
時緒の木刀が振り下ろされる……。
風と共に、灰を斬り砕こうと……。
「っ!?」
その時、上空から投擲された棒状の物体が時緒と灰の間の空間を割って入り、子気味の良い音と共にアスファルトへと突き刺さった。
「…………」
棒状の物体の正体は、校舎の各所に消火器と共に設置してある、不審者拘束用の刺又だった。
正気を喪失した時緒は、暫く刺又を目にしたあとーー
「……誰だ……!?」
憤怒の形相で、投擲されたと思われる校舎の上階を睨んだ。
居た。邪魔をした奴。
三階の窓の一つが開かれ、空いた箇所に人影が有る。視力両目ともに二.五の時緒が相手を捉えた。
すらりと伸びた長身。
端正過ぎる顔。
自身を見下ろすのは、
「時の字、なんて顔をしてやがる……」
正文だった。
****
「正文……さん?」
縋るような芽依子の声を鼓膜に記憶して、
「お嬢、この場は俺様が預からせて貰う…」
正文は三階の窓から下界に向けて跳躍する。
一般人ならば自殺志願者かと悲鳴を上げるが、正気を失った時緒、恐慌状態の灰、そして正文の実力を識る芽依子はそのようなことはしなかった。
事実、三階から飛び降りた正文は自由落下に身を任せながらも余裕綽々と宙返りを二回行い、アスファルトの地面へ音も立てずにしなやかに着地した。
「……まさ……ふみ」
暗い瞳で睨む時緒を見て、正文はニヒルな苦笑を作って見せた。
「時の字、その目をやめろ。その声色もだ」
「……正文、そこを退け」
「い・や・だ・ね」
自身へ向けられる時緒の怒りを感じながらも、正文は気取った足取りで灰の前に立ち、刺又を抜く。
「矢張り……俺様には
正文は一時自嘲気味に微笑むと、周囲を見渡す。
頬を腫らして、芝生に横たえられた真琴。
怒りに狂い魔人と化した時緒。
そして、ぼろ雑巾と化した灰。
「成る程、そういうことか…」
頭脳明晰、
時緒のこの異様は、
「消えろ。下衆」
ぺっと吐いた正文の唾が、灰の胸元で光る生徒会の一員を示すワッペンを汚した。
「…………」
灰に抵抗する気力は、もう残っていなかった。
「正文ぃ…!どけえぇぇぇっ!!」
時緒が身を屈め、全身をバネにして跳躍した。腕だけでなく、全身の筋肉を最大限に利用した一刀を振る。
時緒の全力の太刀を、正文は刺又で受け止める。!
自身を省みていない時緒の剛力に、受け止めた正文の筋骨がぎちぎちと軋んだ。
常人ならば、一瞬で全身の骨が粉砕されていただろう。
「正文ぃ!退けえぇっ!!」
「退かなかったら…どうする?」
「お前も…倒す!」
激怒と慟哭のごった煮になった、時緒の
「おいおい時の字、誘惑するなよ…。勃つじゃあないか…」
そんな時緒を哀しく思いながら、態と笑って見せる。正文は
優しい時緒が、これ程までに狂ってしまうとは。
「哀しいな…哀しいぜ…。時の字よ…」
正文は決す。
時緒を正気に戻す。絶対に時緒を取り戻す。
その為に…!
「がああぁぁぁぁっ!!」
「我流槍術…【
怒りを糧に繰り出された時緒の連刃!その疾風怒濤を!
高まる覇気を纏った正文が刺又を振り回し、その回転旋風が時緒の斬撃を弾き、吹き飛ばした!
「ぐうっ!?」
荒ぶつむじ風に、時緒の身体バランスが喪失した。足がもたれる。太刀筋がぶれる。
それでも時緒の怒りは消えない。
真琴の仇を討つ!真琴の仇を討つ!!
時緒の狂気の眼差しの先に、刺又を振り回す正文が居た。
正文を退けなければ、真琴の仇が討てない!
「があぁぁぁぁあっ!!」
だから、だからこそ時緒は剣を振るう。
全身全霊、憎悪の限りを尽くした、剣の連撃!連撃!連撃!
「フ…………!」
「…………な?」
その嵐の如き攻撃の怒涛を、正文はひらりと跳躍して躱した。
総ての攻撃を躱され、手空きとなってしまった時緒は、呆と空を見上げる。
「……お前の剣は優しさの剣だ……時の字」
東の空から昇った三日月を背負った、正文が
「誰かを護り、相手を想う、綺麗な剣だ。だからこそ強い。この俺様を凌駕する程に」
「まさ……」
「だが……優しさを失った……今の怒り狂っお前の我武者羅な剣に……俺様が敗ける道理は無い……!」
「ふみ……?」
「もう
時緒は、確かに感じた……。
今の今まで穏やかだった正文の気迫が一転、まるで高濃度酸素の燃焼の如く膨らみ爆ぜて、時緒を抑えつける!
正文が、その整った唇で、呟く……!
"天に
「槍の輝きが……お前の邪念を黄泉路へ誘う……!」
正文のその荒々しい気迫は、構えた
「我流槍術……【|阿修羅凰絶槍《あしゅらおうぜっそう】!!」
月光を翅に換えた正文は急転落下。穂先を中心に轟々と唸る竜巻と化した!
「ま・さ・ふみ…………!?!?」
豪雷旋風の突き一閃!
時緒は懸命に木刀で受け止めたが、それは束の間!
正文の全身全霊の技の前に木刀は、木刀に塗り固められた時緒の憎悪は一瞬で粉々に砕け散った……!
「ーーーーーーっ!?!?」
超高速の激槍の突貫が!その万物貫かんばかりの衝撃が!その精錬が!
「あ……ぁ…………ああああああああああああああああ!?」
時緒の総てを吹き飛ばす……!
身体も。
意識も。
怒りも。
総て。
何もかも!
続く
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