暁の灰
八年前のことであるーー。
灰の父は灰が生まれて間も無く病で他界した。故に灰は父の姿を遺影でしか知らない。
灰は母と、父方の祖父母によって、ここ会津若松で育てられた。
暮らしは何不自由無かった。
ただ、夫を病で亡くした所以か、灰の母は灰を少々厳格に鍛えた。
強い身体になるように。病に負けないように。
行儀の作法、身体の鍛錬は子どものすることにしては少々過酷で、平手打ちが灰の頬を腫らすことも珍しくはなかった。屈強であった会津志士の所縁を組んでか、灰を日新館の剣術道場へと通わせもした。
『貴方なら出来る』
それが、灰の母の、呪文のような口癖であった。
厳しいが……。怖いが……。
それでも、自分の側に居てくれる母を、灰は心の底から愛していた。大好きだった……。
幼いながらに母を喜ばせたいと思った灰は、同学年の友達と遊ぶこともせずに、一心不乱に剣術へと打ち込んだ。
数年後の夏休み、九歳になった灰は会津若松市で開催されたスポーツチャンバラの大会へと出場する。灰を教えた師範からの推薦を貰ったからだ。
「勝者!西郷 灰くん!」
そして、出場せた灰は相対する子ども達を、次々とその鍛え抜かれた剣腕と不屈の精神で打ち伏せた。同年代の少年少女では、勇き鋼の意思を持った灰には手も足も出なかった。
「やったわね灰!次勝てば灰が最年少の優勝者よ!絶対に勝つのよ!」
興奮気味に笑う母に、灰は疲労に肩で息をしながら……頷いて見せた。
灰は嬉しかった。
優勝出来ることではない。
自身が勝てば母が喜んでくれる。
そのことが、灰にとっては何よりも嬉しかった。
「会津若松代表、西郷 灰くん!前へ!」
「はい…!」
気を抜けば浮かれてしまう。
子どもならばごく当たり前の感情を無理矢理に押し殺し、灰は舞台へと立つ。
相手は誰か…?どのような猛者か……?
「猪苗代代表!
「あいっ!」
元気で舌足らずな返事が聞こえてきて、会場が和やかな笑い声に包まれた。
とことこと可愛いらしい足音と共に舞台へと現れ、そして灰の前へと対峙したのは……。
「しいなときおですっ!よろしくおねがいしますっ!」
満面の笑顔で頭を下げる、小さな少年だった。
****
「疾いぃぃぃぃァッ!!」
つん裂く決意の迸りを置き去りにして、灰は時緒目掛け疾駆する!
強靭な筋肉から成る凄まじいスピードが灰の身体の残像を生み出し、夕陽に染まる宙に軌跡を描く!
身を低く跳ぶその姿は、獲物を狙う隼の如く!
時緒を狙い定める灰の眼光に、揺らぎは無かった!
時緒と灰の其々の木刀が再びぶつかり合い合い、発生した衝撃が二人の身体を、そして周囲の空気を震わせる!
「あぁっ…!?」
最初に苦悶の声を上げたのは時緒であった。
今の灰の腕力は、猪苗代の猪すら締め上げる時緒の力をも凌駕していた。
「ぐ……がぁっ!!」
灰の腕の筋肉と疾走の慣性から成る高エネルギーの撃は、時緒の防御を完全に圧殺し、木刀ごとその身体を、およそ三メートル後方へと吹き飛ばした。
時緒の身体がアスファルト上を転がる。
「時緒くん!?」
「椎名くん!?」
芽依子と真琴の叫びが、鈍痛に身体を蝕まれ、ブラックアウトしかけた時緒の意識を繋ぎ止める。
時緒は全身をバネなしてジャンプ。無必要に見えるバック宙三回転で灰から受けた衝撃を発散して、無事着地する。
「……懐かしいな」
戦闘体勢を解くこと無く、灰は木刀を印の形に構え、視線の彼方、時緒を見遣る。
「八年前も…俺はこの構えでお前と戦っていた」
「え……?」
時緒は苦悶の表情の中に、灰の言葉へ対する疑問を混ぜた。
八年前?はて……自分は八年前に灰に会ったことがあるのか……?
八年前……記憶が一新されて以降の……一番古い……記憶?
「……矢張り、か。随分と前の事であるしな。それに……」
そう呟いて、灰は微かに嗤った。
時緒に対してではない。
「
「西郷先輩?僕は……」
戸惑いながらも、八相の構えを取る時緒を、灰は嬉しく思った。
戦闘態勢を崩さない。この戦いを、放棄していない。
まだ、まだまだ、戦える!
****
八年前ーー。
「…………」
スポーツチャンバラ大会の舞台の上。
気がつくと、灰の身体は膝を付いていた。
今まで持っていた競技用のゴム刀は灰の手には無く、舞台の端で中央が垂直にひん曲がった状態で、がらくたと化して虚しく転がっていた。
「勝者!椎名 時緒くん!!僅か八歳!最年少優勝者、誕生です!!」
審判の声と観客の歓声が、状況が理解出来なかった灰に総てを教えてくれた。
灰、お前は敗けたのだ、とーー。
「おにーちゃん!ありがとーごじゃいましたっ!!」
目の前に、小さな手が差し出された。
「おにーちゃんすっごくつよかった!!」
灰が見上げると、対戦者の少年が。『ときお』という名の少年が、汗まみれの笑顔で、握手を求めていた。
「…………」
敗けた。敗けた。敗けた。
母の期待に、応えられなかった。
薄ら寒い哀しみを感じた灰は、時緒の握手に応えること無く、観客席を見た。
能面のような青白い顔になった母の顔と、失望した母と目が合ってーー。
灰の総ては、敗北という闇へと堕ちていった。
それからというものーー。
灰と母の会話は減り、母も灰へ鍛錬を課すことは無くなった。
灰に失望したのか、鍛錬を強要した己を恥じたのか、灰自身は分からない。
そして、スポーツチャンバラ大会から三年後。
灰が十二歳の秋。
いつしか灰の母は家の外に男を作り、灰の前から、家から、会津若松から、その姿を消したーー。
****
今でも灰は思う。
あの日、もし自分があの少年に、『椎名 時緒』に勝っていたら。
母は今も自分の側に居てくれただろうか?
自分を愛してくれただろうか?
答える者は誰もいない。
母を『
だから、灰は思い知る。
解答は自分で探すのだ、と。
だからこそ。
「はああああああああ!!」
「西郷先輩!僕は先輩とは……がああああっ!?」
灰の剣戟を鳩尾に受け、再び時緒の身体が宙を舞った。
しかし、灰の追撃は止まらない。
体勢を整えることすらままならない時緒の身体に、尚も灰の冷たい連撃が突き刺さる。
「やめてっ!やめてぇぇぇぇ!!」
「真琴さん!危険ですから近づかないで!!」
外野の女二人が何やら叫んでいるが、灰の知ったことではない。
美香から田淵 佳奈美とその仲間達の排除を命じられた時ーー。
その仲間の中に時緒の名を確認した時ーー。
『運命』という
灰は盲信する。狂信する!
『椎名 時緒』を倒せば、己の過去を清算出来ると……!
灰の
もうすぐ、もう少しで片がつく!
母さん!母さん!
今度こそちゃんと勝つよ!
『しいな ときお』を倒すよ!
続く
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