クマさんパンツは憎しみの引鉄(トリガー)
『美香!先生から聞いたぞ!』
六年前。
会津若松市。
とある夏の日。
帰宅した当時小学五年生の蛯名 美香を待っていたのは、哀しみを色濃く含んだ、父親の怒声だった。
『学級裁判など何を考えているんだ!?独裁者にでもなった気か!?』
『…………』
『…お前に咎められた男の子達の…保護者の方々からも電話があった』
『…………』
美香は暫く、硝子のような瞳で父を見つめ……いや、睨め上げてから、言った。
『彼等はクラスの女の子を虐めました』
口を静かに開け、小学五年生とは思えない冷静な口調で、美香は淡々と言ってのけた。
『彼等はその子を虐め、クラスの調和を乱しました。許せません』
『な…!?』
『どうやら、男子達は親に自分達の非を言わなかったようですね。良いでしょう…!』
美香は嗤った。
その顔面には、大人でさえ絶句する程の、不退転の決意を帯びた気迫が浮かんでいた。
『彼等には改めて…自らの愚行を、その親には自らの子供の恥を…思い知って貰います…!』
美香のその眼光の先には、家の奥に鎮座する仏壇があった。
そこには、美香の祖父や祖母の遺影に混じって、槍を携えた少女の古惚けきった写真があった。
美香の眼光と、写真の少女の眼差しが克ち合う。
『ひいお祖母様。貴女様がその命と引き替えに守ろうとした会津の秩序を…私は…私も…守っていきます…。その為には……如何なる手をも……』
****
これ見よがしに、黒板いっぱいに書かれた、佳奈美を咎める謎の怪文に時緒は唖然とした。
佳奈美がカンニングをしたと?
一体、誰が書いた?
「朝一番に来たら…こうなってたんですゾ…」
学級委員長の権田原 淳が、狐につままれたような声で言う。
予想外の出来事に、時緒の口はぽっかり空いて閉まらない。
時緒だけではない。
芽依子も、真琴も、伊織も、律も、正文も。
一年三組クラスメート全員もーー。
皆、口を開け、黒板前で立ち尽くしていた。
(う〜〜ん、グミ食べたいにゃ〜〜…)
ただ一人、黒板に書かれている佳奈美当人だけが、呆けた顔で窓の外に広がる青空を眺めていた。
「誰だよ…こんな事書いたの…」
「俺じゃないぞ!」
「私じゃないわよ!」
「誰もこのクラスの奴なんて言ってないでしょ!」
やがて、教室内に、ぴりぴりとした、嫌な雰囲気が立ち込める……。
まるでサスペンスドラマだ。クラスメート全員が互いを犯人と疑い、己の無罪を証明することに必死な様子だ。
「皆様、落ち着いてくださいまし」
教室に凛と、芽依子の声が響いて、クラスメート達は一様に押し黙った。
《鶴の一声》とは、まさにこのこと。
「何という呆れた慌てぶり。それでも数々の英傑を生んだ、この会津の学生ですか!」
そうきっぱりと言い放つと、芽依子は黒板消しを携え、黒板に書かれた怪文を消す。
その流麗な芽依子の動作に、クラスの男子共はついつい見入ってしまう。特に芽依子の胸や尻に。
「はぁ……」
怪文を消し終えた芽依子は、手に付着した白炭を払いながら溜め息を一つ。
「皆様、よくよく考えて下さい。佳奈美さんがカンニングなんて、この一年三組の生徒に書ける筈がありません」
「「え?」」
時緒を先頭に、クラスメート全員が首を傾げた。
当の佳奈美は、ベランダに出現したトカゲを追いかけ回していた。
「良いですか?佳奈美さんは……、」
芽依子が言いかけた、その時……。
「騒がしいですわね?予鈴はもう鳴ってますわよ」
教室の扉が開いて、時緒達には聞き慣れない声が響いた。
廊下と教室の境界を跨ぎ立つその少女と姿と名が、生徒会副会長である蛯名 美香その人だと認識することに、時緒と芽依子は数秒の時間を要したのだった。
****
美香はつかつかと教室を我が物顔で闊歩するとーー
「騒ぎの原因は何ですの?」
と、クラスメートの輪の中心に立っていた芽依子を冷めた眼差しで見遣る。
途中、美香はベランダではしゃぐ佳奈美を睨み付けた。
怨嗟と侮蔑。
「「…………」」
その眼光に宿る負の感情を、時緒と正文は、確かに感じ取った。
(…何だ?この
(嫌な気迫だ……)
時緒と正文は互いの顔を見合わせたのち、美香に訝しみの視線を送る。
その傍らで、芽依子がーー
「実は……」
佳奈美への怪文が黒板に書かれていた旨を、ありのまま美香へと説明した。
その説明は無駄を省いた簡潔ながら嘘偽脚色は無く、芽依子の一文一句にクラスメート達は同時に大きく頷いて見せる。
「ふぅん……」
美香は、興味が無さそうに鼻を鳴らしながら、縦ロールに巻かれた自分の長髪を弄ぶ。
「……ふ……」
一瞬、美香の唇が嗤いの形に歪んだのを、時緒は見逃さなかった。
「確かに…見過ごせない事案ですわね?」
「では…、」
「でも!」
芽依子の言葉を、美香がぴしゃりと遮る。
「その佳奈美さんて、実際に成績の悪い方なのでしょう?」
「え…?」
芽依子の顔が曇り、対象的に美香は冷酷な印象を周囲に抱かせる笑顔を浮かべる。
「素行もあまり良くないみたいだし、実際にカンニングを行なったのではなくて?」
美香の言葉に教室内が騒めく。
佳奈美への疑念、ではない。
「いきなりしゃしゃり出て何言うか!」
怒り心頭の律の怒号が、クラスメートの総意を代弁していた。
「佳奈美がそんなことする訳がない!」
美香はその冷笑を、芽依子から律へと向けた。
「あくまで予想ですわ。声を荒らげないでくださる?うるさい小バエさん。いえ…背が高いから大バエさんかしら?」
「な!?この…っ!」
律の顔がみるみる紅く染まっていく。
ポニーテールを振り乱し、律は美香へと詰め寄ろうとした。
だが。
「律、やめろ」
正文が律を腕で制する。
「…っ!離せよハゲ!」
「手を出した時点でお前は負ける」
「離せ!」
「…………」
「はな…ひゃんっ!?」
突然律は素っ頓狂な声をあげる。
それもそのはず。
正文の手は律の挙動を制するだけではなく、律のその胸をにぎにぎと揉んでいたのだ。
「…………」
「わ、わかった…!退く…ひゃっ!?」
「…………」
「ひ、退くから!私を制するついでに胸揉むのやめろ!!」
「律…またデカくなっなぁ…」
「うるさいっ!!」
!!!!
律の華麗な回し蹴りが弧を描き、正文の後頭部へと炸裂。
正文は呻き一つあげず、その長身を空中で二回転させて昏倒した。
「副会長様?続けて?どうぞ?」
正文を蹴ったことですっきりした律は美香に発言を促す。今度は美香が絶句した。
「も、もう良いですわ…」
すっかり白けてしまった美香は咳払いを一つして、踵を返す。
「兎も角、この件は生徒指導の先生にも報告させて頂きますので!失礼しますわ!」
あくまでも佳奈美をカンニング犯扱いするか!
クラスメート達は、理不尽に対する怒りの気迫を、教室を後にしようとしている美香の背中へとぶつけ続けた。
すると。
「あーっ!補習の美香ちゃんだ!!」
佳奈美の空気を読まない、人懐こい叫びが響き渡った。
****
「は、はぁぁぁ!?」
仰天だ。美香は怒りを通り越して仰天してしまった。
この蛯名 美香が、この生徒会長副会長が、補習?
補習授業受講者などという、低脳で愚鈍な輩と、同列に見られたのだ。
「あ!?ああぁっ!?」
屈辱のあまり、前後不覚に陥った美香は足を滑らせ盛大に転倒。
そのスカートの中に履いていたものを、勢い良く露わにしてしまった。
「く、クマさんパンツだ…!」
「なん…だと!?」
「副会長が…クマさんパンツ!」
「嘘…だろ!?」
周囲が騒然となる。
お気に入りの熊のキャラクターがプリントされた下着を、時緒達一年三組生徒全員と、丁度廊下を歩いていた生徒、教職員に、美香はさらけ出してしまったのだ。
「え?え?カ、カナちゃん?補習って?」
あたふたした真琴の問いに、佳奈美は満面の笑みで頷く。
「私が補習した日に会ったんだ!副かいちょーなのに補習なんて、美香ちゃんも大変だねー!!」
「多分…違うと思うよ?」
間抜けな笑顔を見せる佳奈美の他所に、美香はスカートを抑えながら、ゆるりと立ち上がり周囲を警戒の表情で見回す。
「田淵 佳奈美…!わ、私に恥をかかせましたわね!!」
そして、怒りに震える歯をかちかち鳴らしながら、佳奈美を睨んだ。
凄まじい怒りの気迫に、時緒と芽依子は思わず身構える。
「よくも…よくもこの私に恥を…!もう…もう我慢なりませんわ…!」
「美香ちゃん【タレックマ】のパンツ履いてるんだね!私も履いてたよ!小学生まで!」
「く、くあああああああああああああ!!」
甲高い悔恨の叫びを残し、美香は教室から去っていった。
憤怒の感情にその身を焦がしながらも、大股で、歩きながら。
『廊下は走ってはいけません』
怒りの形相の美香は撤退する。校則を遵守しつつ。
そういう所だけを見れば、美香は清く正しく、生徒の鑑、生徒の代表に値する者であった。
****
田淵 佳奈美はカンニングなどしない。
芽依子の言葉の真意を、更に詳しく解説してみせたのは、五分後にやって来た一年三組の担任、小関教諭だった。
「佳奈美がカンニング?絶対ねえな!タチの悪い悪戯だ!!」
小関教諭は間抜けた笑顔で、きっぱりと断言して見せた。
「だって考えてみろ…!カンニングしてまで赤点取る奴なんか居るか!?」
一年三組生徒全員、納得した。
そうだ。その通りだ。
佳奈美はカンニングしない。馬鹿だから。
佳奈美は不正をしない。そんなにずる賢くもない。
「んなくだらねえデマに惑わされてねえで!ホラ!ホームルームすっぞ!ホームルーム!」
そうだ!佳奈美は馬鹿だからカンニングなんてしない!馬鹿万歳!
クラスメイトは問題が払拭された、すっきりとした面持ちで、小関教諭の出欠点呼に意気揚々と応えていく。
「…あれがうちの副会長か…ハッ!反吐が出そうだ…」
「こら、口が過ぎるよ」
背後から聞こえる正文の声に、時緒は振り向かず応えて苦笑した。
「もしかしたら…黒板に怪文書いた奴…あの女かもな…」
サディスティックな微笑を浮かべる正文に、時緒は「まさか!」と否定を述べる。
だが……。
「…………」
時緒の胸の中で、原因不明の騒めきが未だに踊っていた……。
続く
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