俺んとこ来ないか?



 五月の春風が女の肌を撫でる。


 遥か遠くに見える安達太良あだたらの白い山頂が眩しく照って、視界の山景を淡く彩った。



「…文子フミちゃん?そんな所にいたのかい?」



 木漏れ日が差す楠の木の枝の上で……。


 眼下から聞こえる男の声に、女は煙草の煙を目一杯肺に吸い込むと、吸い殻を携帯灰皿へとしまった。



「駄目ね。ここからならエクスレイガのバトルが観れるかもと思ったんだけれども…」

「猪苗代町から中ノ沢温泉ここまで山いくつあると思ってるんだい」



 女は見下ろしはしない。


 見下ろさなくても、その声の主は我が夫であることは十二分に分かっていた。



「お客様がね、出る前に女将キミの顔が見たいとさ。キミのおかげで素晴らしい旅行になったって」

「OK!」



 女は颯爽と木の上から、地面へと音一つ立てずに飛び降りる。


 矢張り。


 そこには女の夫が、 《平沢 正直ひらさわ まさなお》 が、柔らかな笑顔を浮かべて立っていた。



「戦いと聞くと…昔のことを思い出すかい?」

「分かる?」

「そんな顔をしてる」

「初恋を懐かしむ美女みたい?」

「初めて敵を斬り殺した快感ときを思い出した凶戦士みたい」



 眼鏡の奥の、清流の如き真っ直ぐな瞳を細めて正直まさなおは笑う。



 おんなは。


 《平沢 文子ひらさわ ふみこ》 は、「あら酷い」と言って肩を竦めた。



「でも正解」



 そして文子は、その会津美人な顔をサディスティックな笑顔に染める。



椎名 真理子野ザルとの昔を思い出しちゃってたのよ。ほらナオさん…思い出すでしょう?」



 恍惚と加虐の念が入り混じったどす黒い雰囲気を放出しだす妻に、正直まさなおはやれやれと肩を竦めて苦笑した。



「学生の頃、ゴールデン・ウィークって言ったら……あのクソザル……椎名 真理子が率いるチームとの喧嘩でしょ?楽しかったわぁ……!逃げ出したり、命乞いする真理子の手下たちを千切っては投げ、投げては千切り……」

「周辺一面、死屍累々の地獄絵図だったねぇ……。ただでさえ赤い酸川が不良君たちの血で更に紅く……、というか僕も真理ちゃんのチームにいたからね?あの頃のフミちゃんには酷い目に遭わされたよ」



 態とらしく、正直は溜め息を吐くと、文子は目を輝かせ、頬を健康的な朱に染めた。



「そうなの!ナオさんてば……幾ら私が【斬糸蓮線ざんしれんせん】で何度も何度も八つ裂きにしても直ぐに起き上がって来るんだもの!まぁ……見た目によらずタフな……そんなナオさんに私は惚れたんだけど…」

「二十年前……空から沙奈ちゃんが落ちて来なかったら、君とマリちゃん、どちらか果てるまで喧嘩してたんだろうなぁ……。くわばらくわばら……」



 しゃなり、しゃなりと近付き、胸元に指先で"の"を描く文子に、正直は照れながら、その肩に手をーー



正直旦那さん、文子女将さん、ストロベリっている所を失礼します!」



 突如、音一つ立てずに、橙色の着物を纏った若い女が一人、文子の背後に姿を現した。


正直まさなおは慌てて手を引っ込める。



「……何?ハルナちゃん?」



 正直の胸に"の"を描きながら、文子は平然とした態度でハルナと呼ばれた女を見下ろした。



「正面玄関に地上げ屋が来ております。関東の【悪本組】構成員。数は三十人。"即刻店を畳み、この土地を我等に明渡せ。さもなくば暴れるぞ"と…」



 ハルナの報告に正直と文子はーー



「やれやれ。書き入れ時に…」



 面倒臭そうに天を仰いだ。



「如何いたします?」



 顔色を伺うハルナに、文子は爽やかな笑顔で親指を下に向けた。



「お客様のご迷惑…いえ、ちょうど良い見世物になる様に…全員血祭に上げちゃいなさいな」



 文子の命に、ハルナは氷の微笑で頷いた。



「はっ!イノシシ狩をしている"ナルミ"も呼び戻し、対処いたします……!」

「宜しくねハルナちゃん。かつて世界中のギャング組織を潰して回っていた貴女達【地獄姉妹ヘル・シスターズ】……その華麗な技でお客様達を楽しませて頂戴」



「お手柔らかに頼むよ」頭を下げて礼をする正直に、女は両の拳を合わせて礼を返すとーー



「これにて失礼!」



 残像を残して、消えた。


 と、同時に、正直の携帯端末が電子音を奏でる。


 正直まさなおは咄嗟に携帯端末を起動、画面には【通話 正文】と表示されていた。



「もしもし?どうしたんだい?……うん。……うん。……うん。……ああ、一向に構わないよ?連れておいで。……ああ、時緒もね。うん。うん。じゃあ準備して待っているよ」



 通話機能を切り、正直は端末を再び着物の懐へと入れた。



「誰?正文?」



 妻の問いに、正直は笑って頷いた。



「文ちゃん、もしかしたら、少し面白いことになるかもよ?20年前みたいに」

「…………」



 文子は無言のまま、その美しい笑顔を邪悪に染める。


 春風が、文子の長い黒髪を撫でた。




 ****




 イナワシロ特防隊基地の直ぐ傍らに大きな山桜の樹が在る事に時緒たちが気付いたのは、その樹が薄い桃色の花々を付けてからのことだった。



「外だー!外で食うぞー!!」

「「わ〜〜〜〜!!!!」」



 ゴールデン・ウィーク。やや陽が傾いた午後四時。


 外にそんな立派な山桜があるのに、基地内で食事をするような無粋者はイナワシロ特防隊にも、時緒たち仲良し倶楽部にも存在しない。



「さあ!カウナさんも!」

「うむ!さあ共にゆこうリツ!」

「貴様に命じられんでも行くわ」



 駐車場にブルーシートを広げて、時緒達は先刻佳奈美と麻生が買い占めてきた握り飯の山を囲む。


 半泣き状態の整備班や、守衛も加わり、輪になって桜を観ながら食べる握り飯は、コンビニの大量生産品とは思えない美味さだった。




ほほへほぉところでよぉ



 握り飯(シャケ)を頬張りながら、真理子はカウナへと尋ねた。



もひはい?」握り飯(梅)にかぶりついていたカウナが首を傾げる。



はふはふんカウナ君ほーからほほほまふん今日からどこ泊まるんふぎほまふはうち泊まるか?」

もふはばいふぁんへーべふ僕は大歓迎ですぶえべーはんねえ姉さん?」

べえはい



 握り飯(ツナマヨ)を口に放り込む時緒に、芽依子は同意する。


 余程空腹だったのか。握り飯(昆布)(タラコ)(韓国カルビ)を可能な限り口に詰め込んだ芽依子の顔面は、隣で握り飯(辛子明太子)を食べる真琴の頭の倍以上に膨らんでいた。



ふぐふむ…」



 二個目の握り飯(梅)に手を伸ばしながら、カウナは考える。



もいまうまもおいカウナモぼひぶぷぶいふぇうぼ飯粒付いてるぞ



 口をもごもご動かしながら、律はカウナの頬に付いた米粒を取り、放った。



「ふごごっ!?」



 米粒は放物線を描き、たまたま延長線上に居た佳奈美の鼻穴に吸い込まれ、消えていった。


 カウナは悩む。


 可能ならば愛する律の家に、地球の寺社に泊まってみたいが、律は嫁入り前である。嫁入り前の娘の家に泊まり込むなど宇宙道徳に、ルーリアの騎士道に反する。破廉恥にも程があった。


 どんどん膨らんでいく芽依子の顔面を視界の端に映しながら、カウナは考える。


 するとーー。



「…ぼえんぼぼぼばいば俺んとこ来ないか?」



 ふと、正文が挙手をしたので、時緒たちは、特にカウナは驚いた表情で正文を見た。


 握り飯(豚角煮)を齧る正文は未だ手を上げながら、自信に満ち満ちた顔付きでカウナを見ている。



ぼえばはぼふみぇばぼはんだ俺様の家は旅館だぼいはうば来いカウナふぃっとふぁぼふぃいぼきっと楽しいぞ

「…………」



 カウナは黙ったまま、どこか勘繰るような、どこか可笑しいような面持ちで正文を眺め続けた。



「…ぼふぇにそれに…んぐ…お前には話しておきたいことがある」

「……!」



 正文のその一言に、カウナは決心した。


 律のことか。そう確信したカウナは自らの胡座をぱちんと叩きーー



ぼふぉふぉふぇは心得たふぃははほふぇあぎばぼー貴様の世話になろう!!」

もむうむ…!」



 そしてカウナは正文と、漢同士の暑苦しい握手を交わす。



ぼーぼい尊い…!!」



 その様に、薫は再び昏倒し、真理子はその薫をシートの端に退かす。


真理子は「ふぅ……」と一息……。



「【平沢庵】か…。面倒くせえことになりそうな予感…」



 今自身達が居る場所、裏磐梯から北東の方角、薄らと見える安達太良山の白い雄姿を見上げて。



 真理子は二十年前、死闘を繰り広げたとある女の姿を思い浮かべる……。



「最近会ってねえから……嫌味言われるぞ……文子のヤロー……」







 続く

 

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