翡翠の底

 


 猪苗代町の避難シェルターは町立体育館の地下約五十メートルに建造されている。


 自動歩道で六つに区切られた部屋はその一つ一つがまるで体育館のように広く、避難してきた住民達は皆、思い思いにくつろいでいた。



「早く戦争終わらないかしら?お昼のサスペンス始まっちゃう」

「地球防衛軍も大変よねー。ルーリアに敵うわけないのに…」

「そういえば…おとといの避難アレはなんだったのかしら…?」

「俺、先週ドイツ行ってきたー!」

「あれ?ドイツってルーリアに占領されてなかったっけ?」

「されてたー!でも行くのも出るのも自由だった!スターフィッシュやオクトパスって間近でみるとめちゃかっけーのな!見てこれ!ルーリア人の女の子と撮った写真!」

「ぷっ!お前もルーリア人も凄えスマイルだな〜」



 地上で星間戦争が行われているとは思えないほど、和気藹々とした時間がシェルター内で流れているのは、宗教及び民族間紛争とはほぼ無縁な日本人の平和呆け所以か。


 それとも……。



「…………」



 神宮寺 真琴はシェルターの片隅で膝を抱え、淡いクリーム色の天井を只々眺めていた。



「………」



 天井を見上げようが、壁の有機ディスプレイテレビの中で不気味な色をしたパスタを汗だくで貪るコメディアンを見遣ろうが、真琴の脳内を占領しているのは、たった一人の少年の、申し訳なさそうな笑顔だった。



「椎名くん…大丈夫かしら?」



 真琴の独り言に、返答する者はいない……。



「わ〜い!このおにいちゃん、おもちゃとゲームもってる〜!」

「ほんと〜?かしてかして〜!」

「ボールももってる〜!ボールあそびやろ〜よ〜!」

「やめろよ!や〜め〜ろ〜よ〜!!貸してやるからわちゃわちゃすんじゃねぇよ!!それ借り物だから丁寧に遊べよなァ!ゲームやるなら音小さくしろ!オラそこぉ!ボール遊びは廊下でやれよォ!周りの人の迷惑だろぉ…ってそれ駄目ぇ!!油座選手のサイン入ってるから駄目ぇ!!かえしてぇ!!」



 隣で子供達に揉みくちゃにされている伊織を見守りながら、真琴は想う。


 今はここにいない、だが、ここにいて欲しかった少年を想う。


 時緒を、想う。




 ****




 寒い。


 眠い。


 怠い。


 寒い。


 眠い。


 蕩けてゆく意識の中、時緒は泥のように重い瞼を無理矢理こじ開けて、操縦席のスクリーンを睨みつけた。


 スクリーンには痛い程鮮やかな紫の装甲を纏ったルーリアロボが光刃を掲げている。


 動け。エクスレイガよ、動け。


 胃液まみれのディスプレイに突っ伏したまま、時緒はそう念じて操縦桿を握る。


 だが、グリップに取り付けられた結晶体が微かに光るだけで、エクスレイガが起き上がる事は無かった……。


「ぁぁ…」



 胃液のすえた匂いが漂う時緒の口から、哀しげな声が漏れた。


 嗚呼……これは罰だ。


 芽依子を泣かせて、エクスレイガを持ち出した罰なのだ。


 あのルーリアロボはそんな自身への断罪の徒なのだ。


 なにが”困った人を助けたい”だ。


 なにが”剣には心得がある”だ。


 結果がこれだ。


 今や自身の身体もまともに動かす事が出来ないでいる。


 一人勇んで駆けて、この有様。


 これでは道化だ。


 喝采どころか嘲笑すら起きない、出来損ないの道化ではないか……!


 自虐の奔流が時緒の中をぐるぐると巡り、鼻孔を冷たい水が伝った。


 ……………。


 …………。


 しかしルーリアロボは、光刃を掲げたまま、微動だにしない。


 十秒経ったか。


 二十秒経ったかーー。


 


『やれやれ……』



 やがて、ルーリアロボは掲げていた腕を下ろし、光刃を消滅させた。



『トキオ、この戦い…一時預ける…。良いか?』



 砂嵐画面から聞こえるシーヴァンの柔らかな声色が……落胆を帯びた異星人の声が、濁り粘ついた時緒の鼓膜と脳を小突いた。





 ****





『うゅゆっ!?』



 ガルィースのスクリーンの中で、先程まではしゃいでいたティセリアが硬直していた。


 先程シーヴァンの言った事が理解出来ない、信じられないといった表情でーー。




 《大事な事なので二度言いました》



 出撃前、解放間際の捕虜から教わった地球の格言を思い出したシーヴァンは、今一度口を開く。



「トキオ、この戦い…一時預ける。ルリアリウムの特性を知らなかったのは君の不手際だが、例え敗北でもこのような結末では示しがつかないだろう…。私も、こんな形での勝利など嬉しくもない…。お互い…何も得られない」

『…ぅ……っ…!』



 トキオのくぐもった声がモニターから聞こえてくる。


 正直な所、シーヴァンはがっかりした。


 巨人の映像を初めて観た時の、あの興奮が台無しだった。


 折角、昨夜はカウナやラヴィーとの談笑を早めに切り上げて、コーコの淹れる美味い茶をも断って、ティセリアですら起きている時間に睡眠を摂ったのに。


 ガルィースの限界機動を予想して、朝食に出た好物の《魚竜肉と穀粒の炊き込みスルク・スァータ》を二杯だけにしたのに。本当は四杯ほど食べたかったのに……。


 巨人と満足して戦う為に自らに課した制約の悉くが空回りに終わり、シーヴァンは何度目かの失意の溜息を吐く。



「4日…いや、7日後にしておこう…。7日後、今日と同じ時間に来る。それまでに、トキオ…地球人よ…君が手にした力の使い途を…よく学んでおくと良い…」



 シーヴァンの言葉に真っ先に応えたのは、



『う…うぎぃぃぃぃぃ!!』



 時緒ではなく、ティセリアであった。


 その顔面を怒りで紅潮させて、ティセリアは地団駄を踏んだ。



『シーヴァン!?なにしてるの!?やっつけるってゆったじゃぁん!!なに勝手な事ゆってんのぅ〜!!?』

「ティセリア様、申し訳御座いません。手負いの相手を倒すなど、ルーリアの騎士道に…宇宙道徳に背きますが故……」



 騎士道、宇宙道徳。その語句の堅苦しさに、ティセリアは口をむにゅむにゅと歪ませた。



『ゔ、ゔゅ〜!そんなぁ〜…やっつけるって…!ゔ〜…』

「申し訳御座いません。御叱りは、後程…」



 あんぐり顔のティセリアに首を垂れて最大限の謝罪の意を示すと、シーヴァンは巨人から眼を逸らす。


 もはや、この戦いに意味は無い。


 もう、イナワシロこの地に用は無い。



 シーヴァンにとっては、些か残念ではあるが……。





 ****




「ま…待って…いか…な…いで…」



 ルーリアロボが背を向ける、その光景が操縦席のスクリーンに映った。


 時緒はスクリーンに手を伸ばす。力が入らない手を懸命に伸ばし、スクリーンのルーリアロボに乞いだ。



「ぼく…は…まだ…」



 ”僕はまだ戦える”。朦朧とする意識の中で時緒はそう言おうとした。


 勿論、嘘だ。


 敗北を認めたくない、単なる子供の幼稚な言い訳だ。


 だって、戦わなければ。


 勝たなければ。


 芽依子に、母達に、どんな面をすればいいのか……!



『…もう良い。トキオ…今はその身を休めろ…。君の剣は心地の良いものだ…。ルリアリウムに慣れろ。使い途を学べ。そうすれば…君は更に強くなれる』



 シーヴァンの声が聞こえる。優しい声だった。


 時緒じぶんが惨めに思える程に……。



『すまないな…私も手ぶらで帰るという訳にはいかなくなった。左腕これは貰っていく……』



 ルーリアロボが、斬り落とされたエクスレイガの左腕をひょいと掴むと、微かな風切り音を発しながら浮遊し始めた。



『トキオ…然らばだ。また会おう。次は……は……君と心ゆくまで戦いたいものだ』



 ルーリアロボが光を纏い天高く舞い上がる。


 やがて、その駆体は更に更に上昇、小さな光と粒となり、空の青の中へと消えていった……。



「ぁ…ぁ…ぅ…」



 戦えなかった事。


 相手に情けをかけられた事。


 悔恨のごった煮にとっぷり浸かりながら、時緒は光が消えゆく空へと手を伸ばし続けた。



「僕は…ぼく…は…」



 視界が暗くなっていく。


 鮮やかな色で満ちていたはずの世界が、段々とセピア色に褪せていく。


 甘く艶かしい泥のような睡魔に、時緒はもう抗う事は出来なかった。



「ぼ…くは…め…いこさん…を…たすけ…わら…っ…て、」



 ひとしきりの口惜しさを味わって…。


 時緒の意識は、深い深い眠りの底へと堕ちていった。





 ****







 


「あれ…?」



 時緒は首を傾げた。


 目の前一面に広がるのは森林だった。人間の秩序など施されていない原生林であったからだ。


 はて?自分は何故このような場所にいるのか?


 自分は今まで……。


 ……今まで?



「……何してたんだっけ?」



 時緒は腕を組んで、考えてみる。


 だが、頭の中が霧に包まれたかのようで上手く思い出せない。



「……」



 思い出せないものは仕方がない。


 そう割り切った時緒は改めて森の中を歩き出した。


 濃密な生の息吹溢るる深緑のパノラマ。


 なんと綺麗な光景だろうか。


 木々の葉は天頂の陽の光を反射してきらめき、足下の草花は涼しげな微風に可愛いらしく揺れている。


 ひよどりの美しい囀りに耳を傾けながら、時緒は緑葉のアーチを潜る。



「…うん?」



 木々の間隔が広くなり、強く差し当たる光が眩しくて、時緒は目を細めた。


 やがて、目が慣れた時緒が周囲を見渡すと……。



 そこは、翡翠色をした泉の岸辺だった。



(ここは…五色沼…いや…桧原湖?)



 波紋一つない水面には、遠くにそびえる磐梯山が鏡面のようにくっきりと映っていた。


 高く澄んだ蒼穹。翡翠色の泉。その狭間には磐梯山の、過去の噴火所以の荒々しい裏磐梯の雄大な姿。


 その美しいコントラストに見惚れ、時緒は口をぽっかり開けた阿呆面のまま只立ち尽くしてしまった。



「…時緒?時緒なの?」



 ふと、自分の名を呼ぶ声がする。


 真夏の夕暮れに吹く涼風めいた綺麗な女の声だった。



「時緒なのね?こっち…こっちいらっしゃい」



 声がする方向を聴覚で探しながら、時緒は辺りを見渡す。


 ーーいた。


 泉の岸辺、大きなケヤキの木の下に女性の姿が見えた。


 見知らぬ女性だ。


 色白の肢体に純白のワンピースを纏い、欅の根に腰を掛けて時緒に手招きをしている。


 麦わら帽子から垂れる亜麻色のロングウェーブヘアがさらさらとなびく様は、さながら西洋絵画の顕現であった。


 場の空気の流るるままに、時緒は彼女の元へと歩み寄る。


 風に漂う欅の香りと、恐らく女性のものと思われるバニラに似た体香が、何故だろうか?時緒には酷く懐かしく感じた。



「あの…何処かで…お会いした事が…?」



 女性は時緒の問いに応える事無く、その琥珀色の細め、時緒をまじまじと見ていた。


 嬉しそうに。それはそれは嬉しそうに。



「時緒、大きくなったわね。顔立ちなんかマリィそっくり…」

「ま、まりぃ?あの?それって…、」

「めっ!!」


 突然、女性が表情を険しくして時緒を叱りつけた。



「めっ、よ!時緒!…あんな無茶な事して!マリィ達にも迷惑かけて!」

「……はい?」

「変に力を入れすぎたわね?だから貴方、こんな”底”まで落ちて来たのよ?”ココはね?貴方みたいな元気で健康な子が来ちゃいけない所なんだから!私、心配で迎えに来たんだから!」

「は…はぁ…」



 時緒は分からない。


 無茶とは?迷惑とは?


 何故自分が叱られているのか?



「時緒、貴方…自分が今さっきまで何をしていたか覚えている?」

「…覚えてないです…」

「ほら御覧なさい!精神力を使い果たしちゃったから、貴方の脳が強制的に休眠しているのよ!?」



 女性は大袈裟に頬を膨らませ、憤怒の態度を時緒にアピールする。



「…ごめんなさいでした」取り敢えず時緒は女性に謝った。



「よくわかりませんが、僕…なんか嫌な事したのですね?言い訳に逃げるのは男が廃ります。ごめんなさい…!」



 時緒が頭を下げると、女性は溜め息を一つして、苦笑した。



「ううん…。まぁ…貴方に”頼んだ”のは…私だから…、私にも責任はあるのよね…。」


 女性もまた「ごめんなさいね」と、時緒に頭を下げ、そして、ふわりと柔らかな表情で微笑んだ。



「優しい子ね。そういう所もマリィそっくり…」

「あの…マリィって…誰の事ですか…?」



 時緒の疑問は膨らむばかり。


 この女性は一体何者なのか?


 このような女性ひと、このような綺麗な女性ひとは今まで見かけた事が無い。



「貴方のお母さんよ。真理子だからマリィ!あ、でもあの子の前でマリィ呼びはやめてあげてね?あの子ったら…そう呼ばれると恥ずかしがってヘソ曲げちゃうのよ?可愛いのに……」



 その時、ざあ、と音を立てて、女性の言葉を遮るような強い風が吹いた。背筋を強張らせるような冷たく強い風だった。



「いけない。時緒、もう少し貴方とおしゃべりしていたいけど…そろそろ戻らないと。貴方の身体が駄目になっちゃう」

「はい?」



 女性は「よいしょ…」と立ち上がると、時緒の手を優しく握った。


 女性の手は少し冷たいが柔らかく、触れ合っていると時緒の微かな強張りがほどけていく気がした。



(あれ?この手の感触…何処かで…?)



 そんな事を考える時緒をよそに、女性は森の端へ時緒を立たせ、その胸板へ手を添えた。



「時緒?良い事?戻ったら、ちゃんとマリィ達に謝りなさい。そして、自分の気持ちを言いなさい。大丈夫。きっと皆貴方を応援してくれるわ」

「僕は……一体何を……?」

「”メイ”の事……”娘”の事……宜しくね?」

「え……?あっーー?」

「娘にも……この星の戦いにも…貴方の存在は…とても重要なのだから……」



 とん、と女性が時緒の身体を押した。


 強い力は感じられなかったのに、時緒の身体は傾き、背後の森へと吸い込まれていく。



「あ、あの!貴女は…誰なんですかぁ!?」



 時緒の問いに、女性は小首を傾げ微笑んだまま。


 何処からか噴き上がった霧が、女性を包み込んでいく。


 時緒の視界が……真っ白に……染まっていく……。




「私は…《サナ》。



 いいえ、サナ本人の精神力がルリアリウムにこびりついた…只の意識の残滓。



 そして…。



 そして今は…。



 エクスレイガの《システム》…かしら?」





 続く

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