第90話 雪がまじりあう時:各々のクレオメ
日が沈みきって、サキモリ杯、そして学祭が終わりを迎えたものの、サンクトルム内の空気はいまだに非日常の中にあった。一般人はそのまま帰るかサンクトルム内の宿泊施設に泊まっていくが、多くの学生たちはそのまま打ち上げに移行し、たいてい朝までそれは続いていく。
スノウはというと、ホロンと別れた後に連絡を取った雪に言いつけられ、自室に帰ってきていた。もともと注目されていたことに加え、サキモリ杯に優勝したことで男女同輩先輩問わず色々な人たちに打ち上げに誘われたが、怪我を建前に断っていた。
シャワーを浴びて椅子に座って体を休めていると、呼び鈴が鳴った。備え付けのモニターを確認すると、そこにいたのは想像通りの人物だった。
玄関まで行って扉を開ける。そこにいたのは緊張した面持ちの雪だった。服装はベージュのニット系のトップスと黒いチェックのプリーツスカート、オーバーニーソックスと昼間の格好とかなり趣が異なっている。
「いらっしゃい」
「お、お邪魔します……」
雪はかなり遠慮がちにスノウの部屋にお邪魔する。中に入ってまず、きょろきょろと洋間を見渡す。
「何も面白いものはないと思うけど……」
「え、いや全然……。…………ごめん、やっぱり殺風景だって思っちゃった」
スノウの部屋は他の学生たちと同じ1Kの部屋だが、ベッドやテーブルや椅子といった一般的な家具しか置いてない。
雪の感想はごもっともだったので、スノウは特に反論はしない。
「適当に座って。…………と言ってもその椅子しかないけど」
「あ、はい」
雪はやはり遠慮がちに普段スノウが使っている椅子に腰を掛ける。
スノウは冷蔵庫からついさっき買ったウーロン茶を取り出し、コップをふたつ用意して注ぐ。
「こんなものしかないけど」
「お構いなく……」
「…………普通に考えたら肌寒い季節なんだから温かいものの方がよかったね」
「だ、大丈夫だよ。そんな気にしないで……」
自分の分のコップを手に持ってスノウはベッドに座り、少しだけ口をつけて言う。
「それにしても、僕の部屋でよかったの? もっと出かけるところはありそうだけど」
「…………ここが良かったの。今日はたくさんの人が街へ繰り出すから」
「それならいいけど」
「…………あ、そうだ。スノウ、優勝おめでとう」
「ありがとう。見ていたんだね」
「うん、会場にはいなかったけど」
雪はコップを傾けてウーロン茶で喉を潤す。
「かっこよかったよ。ぎゅぎゅん! って感じで。
また一躍有名になっちゃって、言いよる人が増えるんじゃない?」
「…………そうかもね」
スノウの脳裏に浮かんできたのは、学祭の前日に自分に告白してきたシミラの姿だった。そして、それは雪も同様で……。
「…………ねえ、スノウ。スノウは今色んな人からアプローチされてるんでしょ? 誰かの誘いを受けたりしないの?」
「受けるつもりはない。ほとんど断っているし」
「どうして?」
「見知らぬ人たちが僕の評判を聞きつけてやってきただけだから。受けるも何もまずはお互い知り合うことから始めないと判断のしようがない」
「………………」
雪はテーブルの上の茶色い水面を見つめる。決してスノウと目は合わさず、ボソッと言う。
「じゃあ、シミラちゃんは?」
「シミラちゃん? …………ああ、ミラさんか。彼女はシミラ・ミラだったね」
「シミラちゃんのことはスノウも知っているでしょ。シミラちゃんだって、遠征でスノウのことを少し知ったはず。
だったら、シミラちゃんの告白は受けるの? 知っている仲だからシミラちゃんとお付き合いするの? シミラちゃんはスノウのこと本当は何も知らないのに」
どんどん早口になっていく雪の言葉にただならぬものを感じて、スノウはなぜシミラから告白されたことを知っているのかという出かかった疑問を一旦引っ込める。
引っ込めた代わりに質問に答えた。
「知り合いだからってすぐさま受けるつもりはない。まだどうするか、答えは出ていない状態だから考えないといけないけど」
「そんな状態なのに、あたしと今日デートしたんだ」
「君に誘われたからね」
「じゃあ、シミラちゃんじゃなくてあたしを選んだってこと?」
「…………そういうわけでもないけど」
「そういうのはよくないよ。あっちにいい顔して、こっちにもいい顔して、そんなんじゃ誰も納得できない」
「………………」
怒気をはらんだ言葉を矢継ぎ早に放たれ、スノウは雪の言いたいことが整理できないでいた。
そんな彼の様子を見て、雪ははっとした。
「あ……。ご、ごめん、いきなり色々言われても困るよね……」
「いや、いい。僕に対して不満があるということはわかった」
「違うの、スノウに不満なんて……その、ちょっとはあるけど……」
「ちょっとはあるんだ」
「…………うん。だって気付いてくれないし」
「何に?」
「…………スノウ、コップを置いて腕を広げてくれない?」
顔を伏せた雪にそう言われて、首を傾げながらもスノウは言われたとおりにする。
すると胸に軽い衝撃と鼻腔をくすぐる柔らかな香りを感じた。腕の中には数秒前まで椅子に座っていたはずの雪がいる。その雪が腕の中から言う。
「やっぱり、ベッドに押し倒されてはくれないんだ」
「雪ちゃんは軽いから」
「ありがと。
…………ねえ、スノウ。女子が男の子の部屋にひとりで来たんだよ。しかも、夜に。だから……」
「…………そういうことか」
スノウは雪をゆっくりと抱き上げてベッドに寝かせる。
「やっと、わかった気がする」
「じゃあ、答え合わせして」
「了解」
スノウはそう言って雪の頭を優しくなでた。
アリサの反対側にある学生寮『アニルダ』。その屋上に伏せた状態でレンヌは双眼鏡を構えていた。
「うう……寒……」
寒空の下、冷たいコンクリートの上に伏せていると体温がみるみる奪われていく。
「なーんでワタシがこんなことしないといけないんだー……」
「女のお前に冷えは大敵だろう、悪いことしたな」
ボヤくレンヌの隣にホロンがやってきて片膝を立ててしゃがむ。
「べっつにー。冷えてればホロンが温めてくれるでしょ?」
「まあな」
コートの前を開けて手招きをするホロン。すると、レンヌは嬉しそうにその中に入る。
「うー、ぬくぬく。ホロンの中は温かいのう……」
「で、北山雪の様子はどうだったんだ」
「もう、いけずぅ。
屈強な軍人に学長のところへ連れていかれて、そこから出てきた後はずっと部屋にいたわ。
で、今はあそこってわけ」
レンヌは双眼鏡を手渡してアリサの一室を指をさす。
「…………何の変哲もない寮の部屋だが?」
「スノウ・ヌルの部屋よ。ざっと1時間ほど前に入ってそれっきり」
「そういうことか。あと1時間様子見て、出てこないようだったら今日は終わりでいいだろう。
学長のところへはなぜ呼ばれたか、そっちはわかるか?」
「いーえ、全然。盗聴器なんて忍ばせる余裕なかったし、部屋の前には見張りが常にいたし、詳しいことはまったく」
肩をすくめるレンヌの頭をなでながら、ホロンは笑う。
「いや、よくやってくれた。わざわざそんな状態の学長室に呼び出したってことは表に出したくない話があったってことだ。
統合軍がぼちぼち大きく動きそうって話と、<ディソード>が
「ワタシには見えてこないけど?」
「今は知らなくていい。上に報告してどう動くか決まってからでも遅くはない」
「へーい、オノクス
「というわけで、報告書を書かないといけないから今晩はお預けだ」
「えー、そのために寒空の下で凍えていたのにー!
じゃあ今から! どうせ1時間はここにいるんでしょ!」
「ほとんど問題なさそうったって仕事中だぞ。それにこんな場所じゃ寒いし目につくだろ」
「動けば温まるし、お星様しか見てないもん!」
「お月様だって見てるんだぜ。ま、かまやしないか」
そう言ってホロンはぐっとレンヌを抱き寄せる。それから、どちらからともなくキスをした。
スノウの前に現れた1組の謎の男女、そのふたりの夜もゆっくりと更けていく……。
「…………ねえ、スノウ」
薄暗い部屋の中、スノウの耳元でささやく雪。
「………………」
「寝ちゃった?」
「…………起きてるよ」
「もう、さっきから何も言わないから寝ちゃったのかと思ったよ。
…………ここまでしておいてなんだけど、改めて言わなきゃいけないことあるの」
雪の声がシリアスなものだったので、スノウは寝返りを打って彼女の方を向く。
「…………なんだい」
「あたしね、スノウのこと好きだよ。大好き」
「………………」
スノウは何も言わない……というより言えない。どう答えるべきなのか考えて、決めあぐねてしまっている。
そうなるだろうと予想していたので、雪は聞く。
「スノウは、あたしのことどう思ってる?」
「………………」
「スノウの口から聴かせて。いつもみたいに黙り込むのはナシ」
「…………どう、か」
スノウは目を閉じて簡単なようで難しい問題の答えを考える。
キュートな見た目で、表面上明るそうだがその実、人との関わりがそう得意ではなく、草花を相手している方がずっと好きな少女。
地球統合軍のトップである防人王我の姪で、亡くなった両親の代わりに弟を大事に想っている優しい少女。
そして、サキモリ・エイジの実子である自分から見て遠い親戚にあたる少女。
だが、それらの答えは雪が望んでいるものではないとスノウにもわかっている。好き嫌いで言えば間違いなく好きだが、ただそれだけの話でもないはず。
雪が求めているのは、パートナーとしてこれから一緒に生きていってくれるかどうかその答え。
「…………わからない」
ポツリとつぶやかれた言葉に雪は目を丸くする。
「わからない?」
「…………雪ちゃんのことは、好きだと思う。可愛い娘だと思うし、こうしていられることは幸運なことだとも。
だけど、今の質問は……ただそう思っているかというより、恋人として付き合う、さらに深く言うなら一生の伴侶として共に生きていけるかということを聞いているんだと考えている」
「…………うん。いずれは、スノウとそうなりたい」
雪は少しだけ考えて、しっかりとうなずく。
「世間一般で言うところの、結婚を前提にお付き合いしてくださいってやつ」
「…………そこまでいくと、わからない。
僕には、共に生きていくことがどういうことかわからない。だから、どう思っているのかわからない」
「結婚して、できれば子供を授かって―――」
「それらが家庭を築くということになるのはわかる。だけど、言葉でだけ」
「…………それは、生い立ちのせい?」
遠慮がちな雪の言葉。
雪は知っている。スノウが試験管ベビーで、両親の顔を見ずにこの世に生を受けたことを。それがスノウが家庭というものを実感できない理由だと思った。
しかし、スノウはかすかに首を横に振る。
「それは本質的な原因じゃない」
「だったら、どうして……」
「僕はハイスクールに入るまでずっと施設で育ったから。僕を生み出した施設があって、そこでずっと暮らしてきたんだ」
「それって孤児院ってこと? でも、生み出したってことは研究施設とか……?」
「一番近いのは病院だね。フェアルメディカル事件って知ってるでしょ」
「…………!」
雪ははっと息をのんだ。
雪だってその事件のことは知っている。両親が亡くなった時期の話だったので、今でもかなり鮮明に覚えている。
「じゃ、じゃあ15になるまでずっと……」
「フェアルメディカルの研究スタッフの管理下で生活していたよ」
「………………」
フェアルメディカル事件の被害者であるスノウが生まれたときから解放されるまで何をされていたか想像した雪。その想像を口にしてしまえば、あっさりと肯定されてしまいそうな気がして、雪は言葉を紡ぐしかなかった。
しかし、スノウが語りだしたのはその想像を上回る体験だった。
後から知ったんだけど、フェアルメディカルは統合軍の指示で優秀な兵士を生み出す実験をしていたらしいんだよね。その実験の一環で生まれたのが僕をはじめとした試験管ベビーだった。
生まれて間もなくのことは覚えていないけど、物心ついたころにはすでに実験を受けていて、毎日注射で薬剤を投与されて、シミュレーターで戦わされた。
その薬剤というのは反射速度や判断力や筋力を増強させるものなどで、投与したことでどれだけ強くなったかテストしていたみたい。
…………いや、ストレスを認識しない僕の性質は薬剤の投与で培われたものじゃなくて、生まれつきのものだね。
それが判明してからは、殴打される刺されるといった肉体的苦痛はもちろん、グロテスクだったり性的だったりする映像を延々見せられたり、何もない部屋に水と排泄施設だけ与えられて何週間も監禁させられたりする精神的苦痛に僕がどれだけ耐えられるのかの実験も並行して行われた。
え? …………そうそう、僕の体の無数の傷跡はこの実験でついたんだ。
…………そんなことを毎日やっていたら、ある日突然大人たちがなだれ込んできて、研究員をみんなどこかへ連れて行った。その大人のひとりが僕を保護してくれて、その人の家で生活するようになった。
引き取られた1年後に保護してくれた人の協力があってなんとかハイスクールに入学して、後はシエラが話した通り。
「だから、僕は家庭というものを知らないんだ。ずっとそんな環境で育ったから」
生い立ちを話し終えたスノウの顔に悲壮感はなかった。ただ、知っていることと事実をいつも通り淡々と話しただけ。
雪にはそれがむしろ悲しく思えて、大きな瞳を揺らす。
「そんな辛い目に遭ってきたんだね。生まれてからずっと……」
手を伸ばしてスノウの胸に触れる。そこにはスノウの言葉が真実であることを示す大きな傷跡が刻まれている。
触れた途端、彼が施設でどれだけ酷いことをされてきたのか、言葉ではなく心で理解することができたので、雪の瞳からボロボロと涙がこぼれ落ちていく。
「こんな……こんなに……たくさんの傷が残るぐらい痛めつけられて、たくさん辛い思いをして……。なんで……こんな酷いこと……」
「その酷いことのお陰で今こうして君といられるわけだから、悪いことばかりでもなかったよ」
スノウも手を伸ばして雪の頬に触れる。
「この話をしたのは君にだけだ。シエラにはもちろん、秋人やアベール、ナンナ、谷井さんにスフィア君、ダイゴ君にも話していない。
最初に話したのが、そうやって泣いてくれる君で良かった」
「…………スノウ」
「君の望みへの答えをすぐに出すのは難しいけど、この話をできるぐらい君を信頼している。それは、わかってほしい」
「…………うん」
雪はスノウの手に自分の手を重ねた。ひんやりとしているけれど、ただ冷たいだけではなく、温かいものが感じられる。
涙が止まるまでそうしていたかと思うと、少し遠慮がちに言う。
「ね、スノウ……」
「なに?」
「…………そっち行っていい?」
「どうぞ」
スノウがうなずいたので雪は赤い顔で彼に抱き着いた。
ふたりの夜はもう少しだけ続きそうであった。
(続く)
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