第87話 過去がやってくる:バイカウツギは他人の手で

 学祭本番はウェグザイムが打ち上げる花火を合図に始まった。

 花火があがる時だけサンクトルムの空は暗くなっており、開会と同時に青空が広がる。あくまでスクリーンに空を映している宇宙ステーションだからできる演出だ。

 ここから3日間、サンクトルムは学び舎としての顔を少し忘れ、祭典を通して人々を楽しませる場所へと変わる。

 2、3日目は一般開放されるが、1日目は学生などの関係者のみの参加なので、混雑しない今日中に学祭を楽しんでしまおうと考える学生たちは多い。

 だから、スノウは1日目に学祭デートをするものだと考えていたが、雪は3日目を指定してきた。

 そのため、1日目と2日目は図書室にこもって本を読んだり、屋台を手伝ったりと自分なりに学祭を楽しんでいた。

 あっという間に時間は過ぎ、3日目。スノウが指定された時間通りに待ち合わせ場所の学生寮『アリサ』の前で待っていると、明るい声で呼びかけられた。


「や、おはようスノウ」

「おはよう」


 上はブラウンのリブニット、下はベージュのスティックパンツで身を包んでいる雪がその場でターンすると、たすき掛けしている小さめのバッグがふわりと揺れる。


「どうかなー? 秋服を新調してみたんだけど」

「秋らしい色合いでよく似合っていると思う」

「えへへ、ありがと」


 軽い挨拶の後、ふたりは校舎へ向かう。


「サキモリ杯って何時からだっけ?」

「15時から。開会式やってから、シミュレーターに移動して試合する……って感じだね」

「そっかー。あんまり無茶しちゃ駄目だよ」

「早めにマッチングして決着がつけばいいんだけどね。対戦表は開会式で発表されるからそればかりは何とも言えない」

「途中で辛くなったら棄権も考えてね?」

「決着に拘って体を壊す方が馬鹿馬鹿しいから、それは大丈夫」


 そんな話をしているうちに、キャンパス内へ入場するふたり。

 校内は老若男女問わず人でごった返しており、ちょっとはぐれると合流するのが厳しくなりそうに雪には感じられた。

 はぐれるのやだなーと渋面をしていると、突然右手にひんやりした感触がした。

 びっくりして右手を見ると、スノウの手が握っていたのがわかった。


「な、なに!?」

「人が多いから、こうした方がいいと思って」

「そ、それはいいんだけど……」


 雪は周りの視線を感じて、少し顔を赤くする。手をつないでくれるのは嬉しい。だけど、気恥ずかしい気持ちもあった。

 恥ずかしさから顔を伏せる雪に、スノウは言う。


「嫌なら離すけど、こうしたらはぐれないよ」

「わかった! このまま歩こう」

(スノウの手、冷たいな……。もともと体温低いみたいだけど、いきなり握られたらそりゃびっくりするよ……)


 でも、その冷たさが雪にはとても嬉しく思える。スノウと一緒にいるということを自覚させてくれる。


「あたし、行きたいところあるんだ。エルちゃんが参加している出し物なんだけど」


 雪がスノウの手を引っ張って大講堂の方へ連れていく。


「やっほ、エルちゃん」

「お~来たね~」


 ハイタッチする二人。

 スノウは首をかしげる。


「ここでは何を出しているの」

「ん~? エグザイムの歴史をまとめてる~」

「エグザイムの歴史か……」

「毎年~恒例~。今年の最新版~」

「映像媒体なんだね」

「見ようよスノウ」


 スノウは黙ってうなずく。雪に付き合うと決めているので、断る理由はない。それに、スノウ個人としてもエグザイムの歴史には興味があった。


(サンクトルムに入学してから少しはエグザイムのことを勉強したけど、まだまだ知らないことばかりだから……こういう機会に歴史について学ぶのもいいかもしれない)


 二人は入場者の署名だけして、大講堂の中に入った。



 エグザイムの歴史の映像は、小学生ぐらいでもわかるような構成でできていた。だからといって内容が薄いかと言われればそんなことはなく、スノウや雪のような現役学生にも学びがあるものだった。


「けっこー面白かったねぇ」

「たくさん学びがあった」


 映像を見終わって、エルに別れを告げてふたりは中庭に出た。


(現行のセグザイムは<オカリナ>だけど、僕たちが生きている間に次のセグザイムができるだろう。僕が統合軍にいる間にそれに乗る機会があるはずだ。

 そして、そのセグザイムで出た欠点を克服したさらに未来のエグザイムができ……そうやって歴史が作られていく。僕はその礎になるというわけか)


 父と違って歴史の教科書に載ることはないだろうが、と思っていると、雪が顔を覗き込む。


「どうしたのスノウ?」

「…………なんでもないよ」

「また、隠し事? もう、スノウはいっつもそう」


 雪は頬を膨らませる。とはいえ、スノウがあまり自分のことを話さないのは今に始まったことではない。必要なことはちゃんと話してくれる、ということを雪は知っているので、すぐに不機嫌な態度はやめた。


「ま、いいや。スノウ、次どこ行く? 行きたいところとかある?」

「…………行きたいところか」


 学祭のパンフレットを開いて案内を見る。

 スノウは案内に書かれたひとつの場所を指さす。


「ここがいいかな」

「なになに……。地球時代のサブカルチャー展……ってこれスノウが設営を手伝っていたんだよね? じゅうぶん見たんじゃないの?」

「手伝ったのはごく一部。全部は見てないし、昨日見に行こうと思ったけど混んでて見られなかったから行きたいんだ」

「そんなに人気なんだ?」

「みたいだね。それでも見に行きたいんだけど……」


 雪にはサブカルチャー展が人気な理由がいまいちわからないが、スノウたっての希望なので雪は素直にスノウの意見を尊重することにした。


「じゃあ、行こうよ。早くいかないとまた混んじゃうよ」

「了解」


 展示が行われている本館目指して歩き始める。人が多い中、はぐれないように手をつなぎながら。


「…………ん?」


 歩き続けて数分。本館内で雪は見知った顔を見かけた。


「ナンナ、次はどこに行くんだよ?」

「黙ってついてこい」


 ナンナと、それに引っ張られる秋人だ。人混みのためかあちらは雪とスノウに気が付いていないようで、そのまま雪たちとは違う方へ去っていく。


(秋人くんとデートとは、ナっちゃんもうまくやってるなぁ。あたしも頑張らないと)

「よし……」


 ひそかに、心の中で気合を入れる雪。

 そうと決まればやることはひとつ。雪はそっとスノウの腕を取る。


「…………どうしたの」

「デートなんだからこのぐらいするでしょ?」

「そうかもね」


 以前のデートからは考えられない距離感で、ふたりはサブカルチャー展までやって来た。

 大型の教室をまるまるひとつ使って、漫画雑誌やゲーム機、アニメやアイドルのライブの映像媒体など、色々な実物を展示している。また、それぞれのサブカルについて学生たち独自の解釈で解説されている。

 スノウは展示物の運搬・設置を担当していたが、その時から自分が運搬していた展示物が一体どういったものなのか気になっていたのだ。

 昨日よりは幾分か空いている教室内をスノウと雪はゆっくりと歩く。


「…………奇妙な絵柄だ」

「スノウ、こういうの好きなの?」

「いや、そういうわけじゃないよ」


 展示物は触れられないので、極力近づいて観察する。


「まだ化石燃料を使っていた時代に描かれたと思われる漫画だって」

「そんな昔から、か」


 雪の解説を聞きながらスノウは呟く。

 化石燃料を使っていた時代はこの時代の人間には想像もできないほど昔だ。その時代の人々がどういった暮らしをしていたのか、どういった文化が生まれていったのか。知っているのは学者と物好きぐらいだ。

 スノウは文化に詳しくはなかったが、その物好きのひとりではあった。


「この時代でもこんな作画ができているってことは、今の漫画家たちよりも腕が優れていたか、それとも技術が大きく劣っていたわけではない、ということだね」

「…………? そうなんだ?」

「今の漫画に詳しいわけじゃないから僕もちゃんと説明できないけど」

「なんか意外だね。スノウにしては結構……積極的」

「そうでもないわ。スノウは昔から、こういうの興味あったものね」

「?」


 何者かから話しかけられた気がして、雪はその声がした方を振り返る。

 そこには、ひとりの少女が立っていた。明るいブラウンのロングヘアーにちょこんと小さな帽子を乗っけて、オレンジ色のワンピースを着た勝ち気な雰囲気の少女。少なくとも美人と言える顔にはナチュラルメイクが施されており、より美人さを引き立てていた。

 しかし、雪にはこの少女に見覚えがない。


(すっごく美人だ。だけど、サンクトルムにこんな人いたかな……?)


 雪が首をかしげていると、その少女は口の端を上げる。


「久しぶりね、スノウ。元気にしてた?」


 自分に見覚えがないとすれば、スノウの知り合いだ―――雪はスノウを見る。スノウは笑うでも悲しむでも怒るでもない、つまりは余所行きの顔をしていた。


「元気にしてたよ」

「どうだか。顔に傷が増えているじゃない」

「ああ、これか」


 スノウは右瞼を指でなぞる。そこには、縦一文字に傷が刻まれていた。<シュネラ・レーヴェ>で戦っていたときに刻まれた名もなき勲章だ。


「だとしても、君に話すことでもないよ」

「あら、冷たいわ。せっかく昔の恋人が会いに来たのに……」

「こ、恋人!?」

「どうしたの大声出して。

 前に話さなかったっけ、ハイスクール時代にいたって」

「…………この人が、そうなんだ」


 スノウの昔の恋人の話は覚えている。しかし、それが目の前に立っている美人だったことに冷静ではいられなかった。


(うぐぐ、スノウ意外と面食いなのか。しかも、こういうタイプが好みなのかな?)


 雪の疑問をよそに、かつての恋人同士は言葉を交わす。


「あら、別れたんだからもうスノウと私になんの関係もないわ」

「別れたと言うか、君が一方的に僕と距離を置いたんだけどね」

「あら、怒っているの? 怒れないくせに」

「理由がわからないだけだよ。わかったところで、もう終わった話」

「ドライね。私のこと嫌い?」

「そんな話をするために僕に話しかけたわけではないと考えているけど、違うかな」


 決して穏やかではない雰囲気はそばで聞いているだけの雪ですらいたたまれない気持ちにさせた。


「あ、あの……」

「ああ、自己紹介もまだだったわね。申し訳ないわ。

 あなたのことを知りたいし、そうね、どこか落ち着ける場所にでも行きましょう」

「う、うん。あたしとしてもそれでいいけど……」

(あたしもこの人のことを知りたいし……)


 チラリとスノウの顔をうかがうと、彼はやはり余所行きの顔をしていた。だが、提案を拒んでいるわけではないだろう。


「行こ、スノウ」

「…………了解」


 雪はスノウの手を取って歩き出したスノウの元恋人の後ろについて行った。




「私はシエラ=ナーヴャ。説明した通り、スノウの元恋人ね。ハイスクールではずっと同じクラスだったの」

「は、はぁ。

 あ、あたしは北山雪。スノウとはこのサンクトルムで出会ったんだ」


 三人は食堂にやって来ていた。食堂は休憩スペースとして開放されていて、モニターにメインステージが映っているので休憩する人のみならず長時間居座っている人も多い。


『両手に花か……うらやましい身分なもんだ』

『もう少し小さな声で言わないと聞こえるぞ……』


 周りのヒソヒした話を極力聞かないように食堂の端の方に座る雪、それとシエラはそれぞれ自己紹介を終えて、食堂で無料提供されているお茶を飲む。


「無料の割にはおいしいわね、このお茶。さすがは最高学府ね」

「か、関係あるかな……?」

「たくさんの税金使ってるんだから関係あるわよ」

「お茶にはそんなにかけてないでしょ」

「冷たいわね。その名の如く」


 よよよ、と泣くフリをしつつお茶をすするシエラ。

 意に介さずスノウは言う。


「住んでいるところからそれなりに遠いのに、わざわざよくここまで来たね」

「そりゃあサンクトルムの学祭ですもの、一度は来てみたくなるわ」

「そんなミーハーな人だったっけ」

「…………あなたが知らなかっただけで、そうよ」

「………………」

「………………」


 再び穏やかではない雰囲気が流れるのに、雪はのまれないよう笑顔を作って話題を振る。


「ね、ねえ。スノウとシエラさんはどうやって出会ったの?」


 この空気を打破したかったのと、純粋に興味があったのと、ふたつの理由から出た質問はシエラには好意的に受け止められた。


「あら、気になる? じゃあお話ししましょうか……」


 スノウとシエラの出会いはハイスクールの入学式後のホームルームだった。

 隣の席だったシエラがスノウに挨拶がてら自己紹介したのだが、スノウはこれに返答することなく、ただ無表情で見つめるだけだった。それを受けてシエラは『なんだこいつ、返事もしないで』と不愉快に思った。


「最悪の出会いでしょ?」

「なんか、大変だったね……。

 なんでスノウは返事しなかったの?」

「なんて言うべきかわからなかったから」

「なんて言うべきかって……自己紹介されたら、自己紹介で返せばいいんじゃないの?」

「それがわかってるような人じゃなかったのよ。常識ってものをきっと生まれる前に置いてきたんだわ。挨拶は返さない、ノートは取らない……」


 言葉こそ責めるようだったが、懐かしんだ口調でそう話して、シエラは笑う。


「でも、だからこそ気になっちゃったのよ。あまりにも常識がないものだから、私がなんとかしてあげなきゃって。まー色々教えてあげたわ」

「社会の常識について教えてもらったことについては、感謝しているよ」

「そうね、もっと感謝しなさい。あなたが人の社会で生きていけているのは私のお陰なんだから」

「………………」


 毒のあるシエラの物言いに、雪はわずかに顔をしかめる。

 スノウは変わった人だ、それは雪も思っている。だが、そうまで悪し様に言う必要はあるだろうか。まるでスノウが人間じゃないかのような言い方は、いくらスノウの元恋人からされたものだとしても簡単に許容できはしなかった。

 何かフォローしようと雪が言葉を考えていると、スノウがおもむろに立ち上がる。


「ど、どうしたの?」

「トイレに行ってくる。帰りに必要だったら飲み物を持ってくるけど……」

「じゃ、私は今飲んでるのと同じの、お願いね?」

「了解。…………雪ちゃんは?」

「あ、あたしは大丈夫」


 飲み物なんていいからこの場にいてほしい、と思った。今の心境でシエラとふたりきりになるのはちょっと避けたいのだ。

 しかし、無常にもスノウは席を立ってしまった。


「ああいう気配りできるようになったのねぇ。昔は気遣いなんて一切できない朴念仁だったのに」

「…………結構きついこと言うんだね」

「きつい? 褒めてるわ、昔よりずっと人間らしくなっているもの」

「人間、らしく」

「結構モテてるんじゃない? 見た目が良くて、あんな気配りもできるようになったんだから」

「………………」


 先日、スノウが告白された現場の光景が雪の脳裏に浮かぶ。思い出すだけで胸が痛い。

 雪が苦しんでいることなんてつゆ知らず、シエラが言う。


「あんないい男になったんだったら、ずっと手元に置いておけばよかったかしらねぇ。いや、それはないか。スノウだもの」

「………………」

「ああ、今の恋人の前で言うことじゃなかったわね、申し訳ないわ」

「あ、あたしとスノウは付き合ってないよ」

「ふうん、そうなの。でも、好きなんでしょう?」

「それは……そうだけど」


 雪が小さな声で肯定すると、シエラは優しい表情で言う。


「なら、あなたに託すわ、スノウのことは」

「託すって?」

「私は逃げたのよ。スノウ・ヌルという男のもとから。

 …………最初は、さっき言った通り普通に隣の席の友人として一般常識を教えたわ。ノートを取ること、学校というのは何か、クラスメイトとの接し方。先生との接し方。未開の文明があったとして、彼らに学校とは何かを教えようと思ったら同じことをするでしょう。

 勉強だって教えたわ。まさか分数の計算みたいな初等教育レベルから教えないといけないとは思わなかったけどね」

「えっ……な、なんで? そんなに勉強できなかったの?」

「よくそんなんでハイスクールに入れたって思うでしょ? 本人の話ではそもそも学校に行ってなかったらしいのよ。何していたかは教えてくれなかったけどね」

「学校に行ってない……」


 この時代、生まれた子供はすぐに戸籍が登録され、生家の所得に関わらずハイスクールまでは補助金が出るため、よほどのことがない限り学校に通うことができる。

 しかし、スノウの出自は一般のそれとは異なる。『よほどのこと』があって学校に通えなかったとしても不思議ではない。


「ま、そんな風に教えていくうちに情が移って、なんか可愛いって思えてきちゃったのよね。素直だし、飲み込みは早いし、私を頼ってくれるし。顔もいいしね。

 勉強と称していろんなところ連れまわしたわ」

「それで付き合うことにしたんだ」

「自然とそうなったってだけよ。だけど、付き合ってからしばらくしてスノウは変わっているんじゃなくて、『異常』なんだと気が付いた」

「………………」

「いじめを受けても平然としている。怪我しても痛がらない。教師のパラハラめいた指示には一切反抗せず、一時の気の迷いで私が浮気をしたって顔色ひとつ変えない。

 極めつけは、私をストーキングしていたキモ男に対する仕打ちね。ナイフを持って私と心中しようとしたそいつの前に立って身代わりに刺されたのに全く動じず、反撃して拘束したのよ。ナイフが腹に刺さったまま、半殺しにしてそのまま警察に突き出した時は恐怖を覚えたわ」

「…………そっか」


 スノウならやっててもおかしくはないと、<シュネラ・レーヴェ>での出来事を思い浮かべて雪は思った。

 当然、その出来事を知らないシエラからしたら、雪の淡泊な反応に引っかかった。


「そっかって、もっとあるでしょう」

「だって、同じようなことあったし……」

「…………マジ?」

「マジマジ」

「…………はあ、その辺は変わってないのね。

 その時、どんなこと言ってた? 自分がやらないといけなかったとか、敵意を感じた時点で無力化するべきだったとか……」

「言った言った! 同じこと言ってた!」

「やっぱり? あいつ、ストーカーから過剰防衛だって訴えられたときに、弁護士には『恐怖で記憶が混乱していた』とか証言して弁護してもらえばいいのに、半殺しにしなきゃいけなかった理由を理路整然と並べて、弁護士の人困らせてたわ」

「すごく想像できる……。この間だって―――」

「ホント? 2年の体育祭の時―――」


 ふたりはひとしきりお互いのスノウがどれだけおかしいかのエピソードを話して笑いあった。

 笑いあった後、コップの中を飲み干して、シエラは言う。


「―――ま、そんなことがあって、私はスノウについていけなくなったの。この人は私と違う世界で、理で生きている。この人と一緒にはいられない。…………そう思って、距離を置くことにした」

「それは……」

「間違いじゃなかったとは思うわ。だって、今のスノウは私と一緒にいた頃よりずっと魅力的だもの。私があいつを導いてやる必要はなかったのよ。

 それに、私は私で今も幸せ。だから……」


 シエラは雪の手を取って、目をしっかり合わせる。


「だから、スノウのことはあなたに託すの。私ができなかったことをやって頂戴」

「あ、あたしが?」

「うん、あなたならできる。スノウが心を開いているあなたになら」

「………………」


 シエラの目は真剣そのものだった。握る手も力強い。本心で頼んでいることは雪に伝わっていた。同じ者を愛する女同士、頭ではなく心でその願いを聞き入れることができた。

 雪は神妙にうなずく。


「…………うん。スノウのことは、任せて」

「良かった。スノウを愛してくれる人があなたで」


 シエラは手を放して安心したように大きく息を吐く。雪はそれを見て微笑んだ。

 話がついたところで、シエラは周りを見渡す。


「それにしても、スノウ遅いわね。道に迷ったなんてことはないでしょうに」

「うーん、どうしたんだろう?」

「大きい方にしたって長いし……っと、いたいた」


 スノウがコップを片手に戻ってきた。そのコップをシエラの前に差し出す。


「遅かったわね」

「混んでいた。それと、知り合いがいたから、少し立ち話をね」

「あらそう。立ち話ができるような友達もできたのね」

「そうだね。交友関係には、恵まれていると思う」

「………………」


 スノウの言葉に微笑んで、シエラはふたりに聞こえないよう呟く。


「そう……それなら、私の役割は終わりね」

「…………なんて言った?」

「なんでもないわよ。さて、と」


 シエラは立ち上がる。


「あなたの元気そうな顔を見られたし、私はお暇するわ。そのお茶は飲んでおいて」

「もう帰るのか」

「ここまで来たんだから折角だから楽しんで帰るわ。だけど、これ以上デートの邪魔をしちゃ悪いでしょ?」

「僕は気にしないよ」

「私が気にするの。だから、ここでお別れ。

 雪さん、頼んだこと、お願いね」

「…………うん」


 雪は力強くうなずいた。


「またいつか会いましょ、じゃあね」


 シエラは颯爽と立ち去って行く。雪はその背中が見えなくなるまで手を振っていたが、スノウは過ぎ去った背中を見ることはなかった。

                                  (続く)

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