第86話 愛とか恋とかの学祭プリクエル:モミジへの階段
「それで、サキモリ杯に参加することになったわけ?」
「そうなるね」
次の日、食堂で友人らと食事をしつつスノウはそう言った。
同席しているのは、秋人、ナンナ、そして雪。
ナンナはスノウの物言いに呆れる。
「相変わらず、他人事のように言うな……」
「もう決まったことだからね」
「けど、ホロン・オノクスって言ったか? そいつは信用できんのか?」
「………………」
スノウはホロン・オノクスと名乗った青年との会話を思い出す。
『楽しそうだろ? <シュネラ・レーヴェ>を救った英雄と、それに難癖付ける馬鹿どもの喧嘩に混ざるの』
『………………』
『ああ、そうだ。俺のことも教えておこう。俺だけそちらのことを知っているのは不平等だからな。
俺は操縦科4年のホロン・オノクス。連絡先も教えておくから、いつでも連絡してこい。反応するかどうかは用件が面白いかどうかで決めるけどな』
楽しそうだからという理由で人の諍いに首を突っ込んでくる人をはたして信用できようか。
だが、それでも参加する意義はあるとスノウは考えた。
(あのふたり組みたいに突っかかってくる人が出てこないとも限らない。なら、大勢の前で叩きのめすことでそういう人たちを抑止できればいい。
そういう機会を僕に与え、一方であのふたり組にも利益がある提案をした。少し言動に怪しいところはあるけど……)
「…………フェアな人だとは思う」
「なんじゃそりゃ」
「実際に会ったヌルにしかわからないこともあるだろう。
そちらはヌルの感覚を信じるしかないが、体の方はどうなんだ。まだ怪我は完治してなかったはずだが……」
「そうだよ! もし傷口が開いたりしたら……」
「ロマニー先輩に参加して大丈夫か聞いたけど、一応許可はもらった」
許可をもらえたはいいが数時間お説教されたことは黙っておいた。
「因縁をつけてきた彼らと決着が着けられればそれでいいんだ。仮に彼らが勝ち上がれなかったらその時は棄権するし、戦いが終わった後もすぐに棄権する。
どっちにしても必要以上に体に負担はかけるつもりはない」
「ホントかよ」
「疑うね」
「そりゃそうだろ。そう言って無茶すんのがお前なんだから」
そんな風に思われていたのか、と思って雪やナンナに否定してもらおうと視線を動かすと、そのふたりもうんうんと首が取れかねない勢いで頷いていた。
「…………今度こそ、ほどほどにするよ」
スノウはここにきてオオカミ少年の気持ちを理解した。
その後、学祭で何を見たいだとか、どう過ごすかなど話していると、誰かの電話の着信音が鳴る。
「秋人か?」
「いや、俺じゃないぜ」
「あたしでもないよ」
「…………僕だね。ちょっと行ってくる」
スノウが電話に出るために席を外す。
その姿が見えなくなったとたん、ナンナは雪に言う。
「…………で、雪はヌルを誘わないのか?」
「え? な、なにが?」
「言わなきゃいけないか?」
「…………学祭を一緒に回ろうって話でしょ」
「その通り。よくできました」
心がまるでこもっていない拍手をするナンナ。
「早くしないと他の人に取られるぞ、そんな消極的では」
「そうそう。アイツ、遠征から帰ってきていろんな女子たちにアプローチされてるんだぜ。…………俺にはひとりも来ないのに」
「秋人の場合は、脈もないのにやたら女子に話しかけていたからだろう。悪評がすっかり広まりきっているんだ。
まったく、雪は秋人ぐらい積極的になれ。それで、秋人は雪ぐらい奥ゆかしくなれ」
「あ、あたしはそんなに奥ゆかしくないもん。遠征の時だってちゃんと……」
「言ったのか?」
どんどん語気が弱くなっていき、ナンナに詰め寄られたことで完全に言葉がついえた。
「…………言えてないのか?」
「…………言おうとしたよ」
「宿題を忘れてきた小学生の言い訳か。それは言ってないのと同じだ。
とっとと告白して押し倒すつもりで接しろ。そうじゃないと君の恋は成就しない」
「そんな強引な……」
「それが無理ならまずはデートか何かしてそういう雰囲気にすることだ。ちょうど学祭もあることだし、誘ってみたらどうだ?
ほら、ちょうどいいタイミングでヌルが戻って来た。言ってみろ」
ナンナが指をさした方向から、確かに席を外していたスノウが戻ってきていた。
雪は狼狽してそこから逃げ出そうとしたが、ナンナが服の裾をつかんだものだから、つんのめって倒れそうになった。
「…………どうかした?」
「気にしなくていいぜ。それより雪ちゃんがスノウに言いたいことがあるらしいぞ」
(勝手に決めるなー!)
アイコンタクトで抗議するものの、秋人はどこ吹く風。
こうなればもう流れに任せて言ってしまえば楽なのだが、なかなか覚悟を決めきれずしどろもどろになってしまう。
「あ、あのね、スノウ。もしよければだけど……」
「ああ、ごめん。行かないといけないところができたから、急ぎの用じゃなければ後でにしてほしい」
「え? あ、うん。なら後にするけど……」
「ごめんね」
スノウはひと言謝って荷物をまとめ始める。
「待てスノウ、お前どこ行くつもりだ? 飯終わったら地球時代のサブカルチャー展示の手伝いをしにいく予定だっただろ!」
「用事が終わったらすぐに合流する。遅くなったら謝っておいてほしい」
それだけ言ってスノウは早歩きで食堂から出て行った。
それを突っ立って見送っている雪にナンナが言う。
「何ボケッと突っ立っている。早く追え!」
「え、でも大事な用事みたいだよ? そんな尾行みたいなこと……」
「ヌルが先約を投げうってでも行くなんて異常だと思わないか。何かまた危険なことを企んでいるに違いない」
「…………!」
遠征中の出来事を思い出して息を飲んでナンナを見る。ナンナはいたって真面目な顔をしていた。
「その時、止めるべき人間が必要だ。そして、それができるのは君だけだ」
「…………あたしが?」
「ヌルは君に甘いところがある。だから君なら説得できるかもしれない」
ナンナのその言葉を、雪は信じ切ることができない。
(でも、あの時あたしが泣きついてもスノウは躊躇わなかった。あたしで本当に大丈夫なのかな……)
だが、その一方でスノウがまた危険なことに首を突っ込もうと言うなら、それを止めたいという気持ちもある。
(傷ついてほしくない。1か月ずっとずっと戦ってきたんだから、しばらく平和でもいいじゃない)
その気持ちを確かめたから雪は覚悟を決められた。
「わかった。スノウの後を追って、危ないことしそうだったら止める」
「ああ。吉報を待っている」
雪はうなずいてスノウの後を追っていった。
ふたりきりになって、秋人はナンナに言う。
「わざわざ雪ちゃんだけ行かせる必要はなかったんじゃねえか? 俺たちも一緒に行った方が……」
「体よくここからいなくなってもらうために言っただけだ。まあ、私も雪も望みの相手とふたりきりになれるのだから文句もないだろう」
「望みの相手って……」
秋人が、その言葉の意味がわからず周りを見渡していると、いつものテンションでナンナが言う。
「秋人、私とふたりで学祭回ってみないか?」
「…………は?」
スノウがやって来たのは本館と隣接している旧館だった。サンクトルムができた時に最初に建てられた建物のひとつで、今でもここの教室で講義が行われている。しかし、やはり古い建物なため人気はいまいちといったところだ。
さて、そんな旧館の奥へと足を進めていると、スノウは先ほど電話で聞いた声で呼び留められた。
「こっちだこっち」
手を上げて壁に寄りかかっていたのはホロン・オノクスだった。昨日会ったばかりだというのに親し気な笑みを浮かべている。
「よく来たな」
「急ぎの用事だと聞きましたけど、サキモリ杯のことですか?」
「いや、それは関係ない。ちゃんと受理されたから後は当日時間通りに行くだけだ。
ま、黙ってついて来いよ」
そう言うとホロンがさらに奥へと歩き始めたので、スノウもその後ろをついていく。
やって来たのはただでさえ人気のない旧館の最奥にある教室。ホロンは躊躇なくドアを開けて中へ入っていく。
次いで中に入ると、ホロンは教室の隅にしゃがみこんでいた。
「何をしているんですか?」
「ここを見てみろ」
床を指さすホロン。
「ここら一帯、おおよそ2平方メートルの範囲の床が新しいものになっている。怪しいと思わないか?」
「他の床や、他の教室の同じ場所が古い床だったら怪しいですね」
「もちろんそれも調べた。だが、新しいのはここだけなんだ。
それが怪しいと思ったから……」
ホロンはバッグからバールのような機具を取り出し、新しいタイルと古いタイルの境目にそれを突き刺して、てこの原理で引っぺがす。
「この間ちょいとくり貫いたんだ」
「…………よくそんなことしてバレませんね」
「もうほとんど使われていない教室だし、今は人払いもしている。こんなところ人に見られたくないからな」
「人目を気にするならやらなければいいのでは」
「そうはいかない。引っぺがしたら階段があるなんて怪しすぎて見過ごせねえぜ」
ホロンの言う通り床材をはがしたその場所には階段があった。続いている先は深い闇が支配しており、どうなっているかわからない。
そんなRPGにありそうな謎の地下階段はスノウの目にも怪しく思えた。
ホロンはバッグから出したヘッドライトをスノウにも手渡す。
「お前に連絡したのは、この謎の階段を調べるのに一緒についてきてもらうためだ。
何があるかわからないからな。気を付けろよ」
「何かあった時の為にどちらかが連絡係として残った方がいいのではないですか」
「それは大丈夫だ。ある程度時間が経っても俺が戻らなかったら仲間がここに来ることになっている」
「なら、その人と一緒に入ればいいのでは?」
「こんないかにも危険そうなところ、連れて行けるわけないだろ」
さも当然のようにそう言うホロン。逆に言えば、スノウのことはそんな危険な場所に連れて行ってもいい人間と思っているということだ。
しかし、スノウは反論しない。危険なところに連れて行っても大丈夫と信頼されているのだろうとそう思うことにした。
(この人は、昨日僕が抵抗をしようと思ったのを見破った。殴られたら反撃しようと、そういう考えで殴られるまでは手を出さないようにしようとしていたのにも関わらず。
そういう危険なことに敏感な人だから、きっとこの件も僕が必要だと考えたんだろう)
スノウはヘッドライトを装着し、ライトをつけた。
すると、ホロンはフッと笑う。
「じゃあ、行くとするか」
「はい」
ふたりは警戒をしながら階段を降り始めた。
「ライトがないとやっぱ暗いな……」
「このぶんだと、外からの明かりも届かなくなるほど深くなりそうですね」
「だろうな……。こんなところに階段を作るってことは、それだけ何か隠したいものとかあるんだろうからな」
「やはり、何かを隠すためにこの階段を作ったと考えているんですか」
「他の理由があれば教えてほしいもんだな」
「緊急時の避難経路の可能性も考えられなくないですが」
「だったらライトが必要なくらい暗くは作らないだろう。安全に避難するには暗すぎる。
…………む?」
そんな話をしていると、階段の終わりが見えてきた。振り返って来た道を見ると、もうとっくに外の明かりが見えなくなっていた。
「降りるのはここまでみたいだな。その先は……」
最後の段差を降りてライトの明かりを強くすると、真っ直ぐ前に伸びる通路が見えた。どこに続いているかは、先が暗くなっていてわからない。
「随分とじらすじゃねえか。ま、あまり簡単に見つかっても面白くねえが」
「そういう意図じゃないと思いますが」
「人生ってのはなんでも過程が楽しいんだよ」
そう言いつつ先を進む。
高さ4m、幅が3mほどの通路の足元は埃が積もっていて、歩くたびに足跡がついていく。さながら新雪に足を踏み入れるが如し。
もう何分歩いただろうか。ホロンが足を止めてスノウを手で制す。
「終点ですか」
「いや、始発だな」
ホロンがヘッドライトで照らしたのは、その先に行くことを拒むかのように通路をふさぐ電子錠付きの扉だった。
扉に近づきホロンは電子錠をよく観察する。
「パスワードを入れるタイプの電子錠と生体認証……たぶん、静脈と指紋認証だなこりゃ。それに見たことのない機器もくっついてんな。
どれかひとつならなんとかなりそうだが、下手に手を出すとまずいな。専用の道具がいる」
「見たことのない機器……」
ホロンの後ろから覗き込んでみると、静脈認証のために指を入れるスペースの上に確かに普通の電子錠にはついていない謎の機器があった。
なんのためにあるのか、これも扉のロックを解除するためのものなのか、用途は一切わからなかったが、スノウはこの機器にどこか見覚えがあるような気がした。
それがなんだったか記憶をたどっていると、ホロンのスマートフォンが鳴る。
「むっ」
ホロンはそれに出ず、着信を拒否してそのままスノウに言う。
「どうやら時間切れみたいだ」
「時間切れ」
「人払いしていた仲間からの連絡だ。あまり長い時間人払いをしていると怪しまれるからな、制限時間を設けてそれを過ぎたら連絡するように言ってあったんだ。
急いで戻るぞ、じゃないと心配をかけるからな」
「了解」
ふたりは急いで地上へと戻り始めた。
「あっ、戻って来た! ほら、急いで!」
外に出てきたふたりを出迎えたのは、サイドテールが特徴的な10代半ばに見える美少女だった。
ホロンはヘッドライトを脱ぎ捨てて言う。
「ああ、わかっている。
ヌル、床を閉じるのを手伝ってくれ」
「了解」
ふたりは床材を引きずるように運んで元の位置にはめ込んだ。そして、それが動かないか確認した後一息つく。
「よし、これで大丈夫だろう。来た時と同じ状態になったはずだ」
「お疲れ様」
「そちらの方は異常はなかったか?」
「大丈夫。ホロンの方は?」
「特に罠はなかったが、意味ありげな扉があった。開くには相当の準備が必要だな。今度は……いや、この話はあとだな」
スノウを放って話し始めてしまったことに気が付いて、ホロンはスノウに言う。
「この女がさっき言った仲間のレンヌ・ベランだ。外で人払いをしてもらっていた」
「そうですか」
「ハイスクールを卒業していないガキに見えるが、こう見えてもサンクトルム操縦科3年生でお前の先輩にあたる。立派に酒も飲める年齢だ」
「…………そうですか」
ずいぶんと若い人だな、と内心では思っていたが口に出さないで正解だった。
そんなことを考えていると、レンヌと呼ばれたその少女が口をとがらせる。
「ホ~ロ~ン~。ひとつ大事な事を言い忘れてない?」
「何がだ?」
「こういうことっ!」
レンヌが突然ホロンに抱き着く。そして、そのまま彼に口づけて笑う。
「ちゃーんと説明しなさいよ。ワタシがホロンの女だってこと」
「…………する必要あるか?」
「あるっ! 変に一目惚れされて迫られても困るでしょ」
「まあ、見た目だけは間違いなく最高だからな、お前」
「そんなこと言っちゃって~。中身も最高でしょ~?」
「どうだかな」
スノウにはレンヌがホロンの女だとか、自分より年上だとか、そんなことはどうでもいいので早く帰りたいのだが、惚気に阻まれ黙っているしかなかった。
「後輩の前だからって照れなくってもいいのに」
「そんなんじゃない。とりあえず、ヌルが何か言いたげだから少し静かにしていてくれ」
「うーん、どうしよっかなー。…………んっ」
ホロンは予告もせずにレンヌの唇を奪う。
数秒そうしていたかと思うと、ゆっくりと口を離して言う。
「いい子だから、静かにしていてくれ」
「はーい」
「これで落ち着いて話ができる。何か言いたいことはあるか?」
ふたりだけの空間から戻って来たホロンに対して、スノウは言う。
「この後、学祭の準備を手伝う約束になっているので帰っていいですか?」
「ああ、問題ない。来てくれて助かった。
サキモリ杯を忘れんなよ」
「はい。では、失礼します」
回れ右をして教室を去るスノウの背中に聞こえないように、レンヌがホロンの耳元で言う。
「それで……どうだったの、あの子」
「愛想はないが、頭は悪くない。警戒心はあるものの決して憶病ではなく、度胸がある……。
エグザイムの腕はこの目で見たわけじゃないが、今度サキモリ杯で見られるしな。それが噂通りなら言うことないんだが」
「ふーん、ホロンのお眼鏡にかなったってわけね」
「妬いてるのか?」
「いーえ、ホロンの1番は常にワタシだからねー。
銀メダルを誰が取ろうが関係ないわ」
「金メダル取りすぎて出禁だお前は」
「そういう嬉しいこと言ってくれる人には私の金メダルをあげちゃいます」
密着した状態のまま体重を預ける。
レンヌが何をしたいのか察したホロンは苦笑する。
「お前が俺にくれるというよりは、俺がお前にあげる方じゃないか?
まあ、それでもいいが」
ホロンはそのままレンヌを抱きかかえて、教卓に寝かせた。
(少し時間がかかってしまった。先方に迷惑がかかってないといいけど)
遅れてしまっていたら先方と秋人に謝らないといけないと考え、旧館から本館への道を急ぐスノウの前に現れたのは、<シュネラ・レーヴェ>のブリッジで通信関連を担当していたシミラ・ミラだった。
「ヌルくーん、やーっと見つけたー」
「ミラさんか。見つけたってことは僕を探していたんだ」
「うんー。あのね、あのね、ちょーっとお話があるんだけどー」
うつむきがちにそう言うシミラの様子が少し普通ではないことを、先を急いでいるスノウは気が付かない。
「少し先を急いでいるから、手短にしてほしい」
そのため、スノウの発した言葉は言外に会話を拒絶しているものと言えたが、それでもシミラはめげなかった。
「じゃあ、短めにー」
「うん?」
体が温かく柔らかいもので包まれる。それはシミラが自分に抱き着いてきたからだと理解するのに時間はいらなかった。
(緊張、あるいは興奮しているのかな)
柔らかい香りや激しい脈拍すら伝わるほど密着した状態は、先ほどのホロンとレンヌのやり取りを想起させた。
それらのやり取りをするのためにシミラがこれから何をするのか、さすがにわからないわけがなかった。
抱き着いた状態のまま、シミラはぎこちない笑みを浮かべる。
「ヌルくんが好きです、私とお付き合いしてください」
予想とほとんど変わらない言葉が耳朶を打つ。
(最近似た状況にはなっていたけど、ここまで直球なのは初めてだな……)
遊びに行こうだとか、飲み会に来てくれだとか、ここ数日女学生たちからそんな誘いはたくさん受けてきた。それらは丁重にお断りしてきたのだが、シミラのように実直な愛の言葉をかけてくる者はこれまでいなかった。
経験のないストレートな好意にどう返事するか言いあぐねていると、シミラはそっとスノウの傍から離れて小さく首を横に振る。
「今返事はいーからー。また今度聞かせてー」
「…………了解」
「じゃー、またねー」
シミラは逃げるように去っていく。それはとてもではないが何かをやり切った人間の後ろ姿ではなかった。
とはいえ、彼女の複雑な気持ちを推し量ってやれるほどスノウに余裕はない。今は学祭の展示物の手伝いに急がねばならないと考えているからだ。
それは乙女が勇気を振り絞った一世一代の告白の返事より優先すべきことかどうかは疑問が残るが、秋人の元へ走り出したのだった。
日がどっぷり沈んでからナンナは雪に電話をかけていた。食堂で別れてから一切会ってなかったので、どうなったのか聞きたかったのだ。
しかし、ナンナの耳元ではコール音が鳴り続けていた。
(席を外しているのか、気が付いていないのか。―――あるいは心情的な理由か)
理由はいくつか考えられたが、それらがわかってもこちらからは出来ることはない。また時間を改めようと思って指が『切』ボタンに伸びようとしたその時。
『はい?』
「ようやく出たか。危うく切ってしまうところだった」
『…………ごめん、ちょっとね』
「ちょっと心配しただけだ、気にしなくていい。
さて、本題なんだが……」
「あの後ヌルとどうなった?」と聞くだけなのに、ナンナは言いよどむ。電話に出た雪の声がいつもより暗かったからだ。
声の感じからうまくいったとは到底思えない。だから、有耶無耶にして他愛のない世間話に切り替えるべきかとも考えたが、言いよどんだ間に雪が言う。
『スノウのこと……だよね?』
「…………まあ、そうなる」
『…………やっぱりそうだよね』
明らかに気落ちした声。雪が自分で切り出してくれたこと自体はありがたかったが、地雷を踏んでしまった感は否めない。
電話しないことが最適解だっただろうか、いや違うまずは世間話で場を温めるべきだったか、などと反省会を頭の中で始めていると、雪がポツリポツリと話し始める。
『ナッちゃんに言われてスノウを追いかけたんだけど、途中で見失ちゃったんだ』
「そうなのか。それで結局会えずじまいと?」
『ううん、そうじゃないの。見失なった後も探して……』
「見つかったのか?」
『…………うん。見つかった。だけど、でも……』
だんだん雪の声が嗚咽混じりになっていく。
雪の行動がただ事ではない結末を迎えたのだ、と理解したナンナは思わず叫んでいた。
「少し待っていろ、今からそっちに行く!」
返事を待たず電話を切りナンナは部屋を飛び出して、雪の部屋の門戸を叩いた。
扉が開く音がして赤い目をした雪が顔をのぞかせる。
「ナッちゃん……。それに、佳那ちゃんまで」
「こ、こんばんは」
「ここに来る途中に連れてきた。とりあえず中に入れろ」
「…………うん」
開かれた扉の中へ遠慮もなしに、あるいは遠慮がちに入っていく。
勝手知ったる他人の家で、適当なところに座るふたりに、雪は言う。
「…………なんか飲む?」
「あ、平気です」
「私もいい。それより話を聞かせてくれ。
ヌルを見つけた時、何があった」
「………………」
「そう簡単には言えないことだろう。だが、言いたいから私の電話に出たんじゃないのか? なら、話してくれれば私も、佳那も何か言えることがあるかもしれない」
「………………」
雪はしばらく黙っていたものの、覚悟を決めて話し始めた
「…………スノウを見つけたのは、旧館だった。なんで旧館にいたかわからないけど、とにかく危ないことををするなら止めようと思って少し離れたところで姿を隠して様子を見ていたら、シミラさんがやってきて……」
「シミラと言うと、シミラ・ミラさんですか」
「彼女がやってきて、どうなった?」
「ひと言ふた言交わした後……シミラさんがスノウに……」
再び嗚咽混じりになる雪の声に、ふたりは何も言えず黙って続きを待つだけ。
少し時間がかかって、雪は言う。
「シミラさんが、スノウを抱きしめて……ごめん、その後は……よく覚えてない……」
「それは大変でしたね……」
「秋人の言っていた通りだったな……。ヌルは今やただのいち学生ではなく、色々な人からアプローチをかけられる人気者だというわけだ」
「…………うん。
あたし馬鹿だよね。秋人くんに聞いていたのに、実際その場面を見たら頭の中がぐしゃぐしゃになっちゃって……」
「それで、帰ってきてひとりで寂しく泣いていたわけか」
雪はコクリと頷いた。
「ヌルにその後話しかけることもできずに、か。情けないな」
「ナンナさん、そんな言い方は……」
「いいんだ、ここまで言わないと雪はいつまでもうずくまったままになりかねない。
これでわかっただろう、雪。お前は心の底からヌルという人間を欲しているし、それを受け入れないままであれば他の人に取られかねないということだ」
「…………そんなことないよ」
「では、ヌルが他の女と一緒にいていいのか? 他の女とデートしたり、キスしたり、セックスしたりすることが受け入れられるのか?
仮にそこまでの気持ちがないなら、他の女が自分と仲のいい男子にハグした程度で落ち込んだり泣いたりしない。
どうなんだ、君の気持ちは?」
スノウが自分以外の女性と交際している姿を、雪は想像できなかった。というより、想像したくなかった。そして、それが自分の嘘偽らざる本当の気持ちだと理解するのに時間は必要なかった。
「…………やだよ。スノウが他の子と付き合うなんて」
「そうだろう。その気持ちがあるから、君の脳はミラがヌルをハグした光景にパニックを起こしたんだ。
佳那も、ロンドが他の女と一緒にいるのは嫌だろう?」
「嫌ですね」
佳那にしては珍しくきっぱりとそう断定する。
「そう、だよね。誰だって好きな人が自分以外の人と一緒にいるのは辛いよね」
「はい。相手を想っているなら、そのはずです」
「…………でも、あたしちゃんと言えるかな」
「言えるか、じゃなくて言うんだ。あるいは言える状況を作れ。
昼にも言ったが、学祭なんてちょうどいい機会だろう」
「そっか、まだあたし誘えてなかったんだ」
「なら、善は急げで今すぐ誘え」
「…………えっと、もう夜だしメッセージでいいかな?」
「いいわけあるか!」
上京し初めて新宿駅に来た大学生のような顔をする雪。
そんな態度にナンナは憤慨するが、それを佳那はなだめて助け舟を出す。
「まあまあ、落ち着いてください。
聞くところによるとヌルくんは今日忙しかったみたいですし、ミラさんとのことで砕心しているでしょうから、電話ではかえって心証を損なうかもしれません。
事前に要件を伝えておけば直接会って誘いやすいでしょうし、今晩はメッセージを送って待ってもいいんじゃないですか」
その言葉を聞いてナンナはなおも何か言いたそうにしていたが、佳那の言うことも一理あると思って何も言わなかった。
そして、雪はホッとした顔でメッセージの文面を考え始めたのだった。
次の日の早朝。まだ夢の中にいる雪の枕元でスマートフォンがかすかに振動する。
スマートフォンの通知には『サキモリ杯の時間以外だったら大丈夫』という返信が来たことが示されていた。
(続く)
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