第14話 男子より花?:ブッドレアは突然に

 『サンクトルム』に存在する施設群の中で最大の繁華街と言える『カコリカ』のメインストリートはGWの最終日とだけあって学生でごった返している。

 ある学生は今のスノウや雪と同じようにデートをしに、ある学生は明日からまた始まる日々のために買い出しに、ある学生は連休が終わりということを認めたくない現実逃避のために。

 そんな中、次なる目的地へ向けてスノウと雪は歩いていた。


「いやー、スノウ君、よくあんなお店知っていたねぇ」

「まあね」

「となると、次も期待していいんだよね?」

「どうだろうね」

「…………あっ~雪だ」

「おおっ、エルちゃん! それにみんなも!」


 他愛無い会話をしていると、ふたりの前方から歩いてきた女子グループのひとりが雪に気が付き話しかけてきた。


「雪~どうしてたの~GW中~。何度も遊びに行こうって連絡したのに~」

「あはは、ごめんごめん。あたしはあたしで忙しかったんだよ!」

「今日はデートで忙しいってわけ~?」

「そんなところかな!」


 エルと呼ばれたどこか知性が足りてなさそうな女子はスノウを見て言う。


「操縦科のヌル君か~。君のせいで~わたしたちは雪と遊べないよ~」

「そういう君は……」

「あ、紹介するよ。あたしの友達で整備科のエル・グレーちゃん。こんな半開きの目と口をしたちょっと間抜けそうな娘だけど、頭はいいんだよ」

「あん~まり~な紹介だねぇ~。じじ~つだけど~」


 エルの抗議しているんだかしていないんだかよくわからない言葉を無視して雪はグループのほかの女子たちを指しながら言う。


「本当はほかのみんなも紹介したいけどデート中だからまた今度ね」

「デートの邪魔して~ごめんね~」

「いえいえ」

「じゃあ、行こうか! みんなまたね!」


 スノウの手を取りながら早歩きで女子グループの隣を通り過ぎる雪。

 そんな雪の様子を見て、スノウは(おや)と少し疑問を覚えた。


(なんだか行き急ぐなぁ、まるで逃げるようだ。友達にぼくと一緒にいるのを見られて恥ずかしいのだろうか。だとしたらデートと大っぴらに言うだろうか。だとすると、あるいは……)


 そんなふうに考えを巡らせていると、雪がある建物の前で足を止めて言う。


「あ、スノウ君! 映画館だよ! やっぱりデートと言えば映画だよね!」

「確かに、そうみたいだね」


 ふたりが足を止めたのは映画館。いわゆるシネコンと呼ばれる形態のもので、『カコリカ』に存在するとだけあって結構大きな映画館だ。休日には多くの来場者でにぎわい、やはりデートスポットとして人気だ。今もカップルと思しき男女たちが次々と映画館の中へと入っていく。


(でも、映画ってふたりでいる貴重な時間の数時間を、お互い会話を交わすことなく過ごすからあまりデートと相性良くないような……)

「よぉーし、何を見ようかなー!」


 スノウがデートと映画の相性について考えていると、その間に雪は映画館の中へ入っていく。そして、人ごみをかき分けながら早歩きでチケット売り場の列へ。

 雪は溺れてしまって水中でもがくスイマーのような境地に立たされていた。

 あせる、もがく、沈む、息ができない、苦しい、死ぬ―――。

 ようやく待機列にたどり着き後ろを向けば、見えてくるのは顔も知らぬ群衆。

 丘にたどり着いたことを知り、雪はそこでようやく息を深く吐く。胸の中で満たされていた不安と恐怖を絞り出すように、目をつぶって息を吐いた。すると、友人らとの予期せぬ遭遇により追い詰められていた雪の心はいくばくか救われた。

 楽になった心で瞳を開く。その景色は、直前に見えていた場所と同じなのにも関わらずどこか色鮮やかに見えた。


「…………うん、大丈夫。あたしはまだ―――」

「まだ、なんだって?」

「ひゃん!」


 慌てて後ろを向くと、そこにはいつの間にやら追いついたスノウがいた。服がどこかよれているところを見ると、人ごみの中を無理やり突破してきたのだとわかる。


「す、スノウ君! いつからそこに!?」

「…………たった今、追いついたんだ。はぐれるとこの人数の中面倒だから急いだんだけどね、途中見失ってしまったよ」

「あはは、ごめんね。ちょっと見たい映画があって待ちきれなくてねぇ」

「………………」


 見たい映画がある、という発言はとっさについた嘘である。雪としてはメインストリートから外れ、スノウとふたりきり、あるいは精神的に孤立した環境にいられればなんだってよかった。そもそも、映画館に入る直前に「何を見ようか」といった発言をしているため、今の発言と明らかに矛盾していることがわかる。

 スノウはその矛盾点に気が付いているものの、何も言わない。

 そして、スノウの方も雪に嘘をついていることがある。それは、いつからそこにいたか聞かれた時の返答「途中見失った」のところである。実際のところ、スノウは雪が映画館に入った直後にすでに追いかけ始め、常に雪が視界に入るようにしていた。そこでしっかり見てしまった。溺れた人のようにもがき、辛そうに深くため息を吐く雪の姿を。あまりにも普段の違うその姿にスノウはこれまで感じていた疑問の答え、その一端を見たような気がした。

 だから、スノウはそのことについて何も言わない。口にして有耶無耶にならないように。

 代わりに今の状況に即した話題を、スノウは投げかけることにした。


「どの映画を見るんだい?」

「えっ? えーと、その……。あ、あれだよ!」


 うろたえる雪。そもそも見る映画を決めてないので当然である。

 しかし、意を決して上映中作品の一覧が示されたパネルを指さす。


「…………『サキモリ・エイジ、その生涯 ~ディソードの剣のもとに~』」

「…………そ、そうなんだよ! 前々から見たかったんだ~」


 やってしまった……、という気持ちを雪は笑顔で隠す。

 この映画はいわゆる歴史映画で、英雄であるサキモリ・エイジの第一次デッドリー戦役の活躍を描いたものである。エンターテイメントを極力排し、資料に残された事実を忠実に映像化したものとしてその方面では評価が高い。

 しかし、どう考えてもデートの時に見るようなもの、しかもうら若き女性が好んで見るようなものではないのも事実であった。


「ど、どうかな……? 勉強になるかなーって思ったんだけど……」

「いいんじゃないかな。こういうのも」

「あー、そう? じゃあこれ見よっか」


 だが、スノウには思ったより好感触だったので、そのまま『サキモリ・エイジ、その生涯 ~ディソードの剣のもとに~』を見ることになった。

 チケットを買って劇場の中に入ると、スノウと雪以外の客は誰もいなかった。公開してからしばらく経っているうえに歴史映画なのでほかのポピュラーな映画よりは人気がないのだ。


「せっかくだから、真ん中に座ろうよ」

「了解」


 実質貸し切り状態になった劇場のど真ん中に座り、雪は言う。


「んー、貸し切り状態は楽だねぇ」

「…………そうだね」

「あ、そろそろ始まるよ」


 劇場全体がスゥッと暗くなる。これから2時間弱、別の世界への旅をするための儀式だ。

 そして、いくつかのCMと注意事項が流れた後、映画は始まる。



『行くぞ、<ディソード>。俺とお前で全部ひっくり返してやろうぜ!』


 スクリーンの中でサキモリ・エイジ役の役者が緑色のエグザイムに乗り込む。

 このエグザイムは<ディソード>。サキモリ・エイジが第一次デッドリー戦役の途中から乗りはじめ、終戦まで愛用したとされる伝説のマシンである。

 現在その所在は不明であるが、一説には地球統合軍に厳重に保管されているとも、サキモリ家が秘匿しているとも言われている。また、実は第一次デッドリー戦役の最終局面で大破して現存していないという珍説もある。

 ともあれ、エグザイムのパイロットでその存在を知らない者はいないと断言していいほどの名機であることは間違いない。

 スクリーンの中の<ディソード>に限らず、スクリーンの中のエグザイムはすべて撮影用のそれにCG加工を施したものだが、戦闘シーンはなかなか派手でこの映画の数少ないエンターテイメント要素として人気だ。


(ちょっと演出過剰な気がするなぁ)


 とはいえ、本物を知るスノウからすればその映像はただ派手なだけで面白みはなく感じられた。

 その後、第一次デッドリー戦役がサキモリ・エイジと<ディソード>の手によって終結し、サキモリ・エイジがヒロインに愛の告白をする場面になった。


(雪ちゃんは楽しめているのだろうか)


 自分はあまり楽しめていないので、そう思って左に座る雪を横目で見ると……


「………………」


 その大きくつぶらな瞳に涙を今にも決壊しかねないほどいっぱいためて黙っていた。

 普通なら、泣くところなんてあった? とか つまらなすぎて悔しいのかな? とかいろいろ考えるところだが、スノウはただ雪が泣いているという事実だけを受け止め、ポケットからハンカチを取り出して雪に手渡した。


「あ……。ありがとう……」


 小声で雪はそう言って手渡されたハンカチで目元をぬぐう。

 サキモリ・エイジとヒロインが結婚式を挙げた場面で映画はエンディングを迎え、スタッフロールが流れ始めた。




「いやー、見苦しいところをお見せしてしまったねぇ」

「気にしなくていいよ」


 ふたりが今いるのは『カコリカ』の路地裏でひっそりと経営されている喫茶店。そこでミルクティーを口にしながら、配管が丸出しの景色を見て雪が言う。


「それにしても雑貨屋といい、ここといい、センスのあるお店を知っているんだねぇ」

「昨日の朝、ランニングしているときにたまたま見つけたんだ。あの雑貨屋で扱っている商品はほかの場所ではあまり見ないものばかりだから面白いかなって」

「珍しくて楽しかったよ。あたしはアジア人だからさ、ああいうのが血筋的に好きなのかも」

「それなら選んだ甲斐があった」


 スノウはそう言ってホットブレンドコーヒーを喉に流し込む。


「本当は、もうあといくつか行きたいところがあったんだけどね」

「そうなの?」

「うん。映画を見終わったらちょうどいい時間だったから予定を変更してここに来たんだ」

「う……。ごめん……。あたしの勝手で……」

「気にしていないよ」

「そ、そう……」

「………………」

「………………」


 店内で流れている大昔のジャズの音量がやけに大きく聞こえてくる。ただ、お互い注文した飲み物を胃の中に流し込むだけの時間が訪れる。

 ふたりはお互いの目をみようとしない。スノウは顎に手を当ててテーブルを、雪はカップの中で揺れるミルクティーをただじっと眺めている。

 流れているジャズの曲目が変わり始めたころ、雪が突然立ち上がる。


「ちょ、ちょっとごめん! 席外すね」

「どうぞ」


 雪がレストルームへと早歩きで消えていく姿をスノウは見送った。このタイミングで立ち上がる理由がふたつ考えられるため、特に驚きもしない。ひとつは用を足しにいくこと、もうひとつは沈黙に耐えかねてその場からいなくなること。


「………………」


 スノウは残っていたコーヒーを飲み干し、領収書を手に取って立ち上がった。

 十数分経って、雪が席に戻ってくる。座って落ち着いたところでスノウは言う。


「飲み終わったら行こうか。最後に行きたいところがあるんだ」

「おっけー。いい感じの時間だしね」


 現在時刻は17時00分。『サンクトルム』では基本的に北半球のタイムスケジュールで動いているため、5月上旬のこの時間からは徐々に暗くなっていく。



 これは余談であるが、この時代では人類が地球にいたころの感覚を忘れないようにするために、宇宙ステーション内でも昼夜が存在し、人口の雨や雪によって天候を再現している。だから、基本的に夏は暑く冬は寒いようになっている。

 とはいえ、もともと温帯以外の地域に住んでいた者たちの子孫もいるため、そういった者たちのために専用の住居も存在するのだが、その話は本筋に関係しないためここでは割愛する。本編に出てくる地域は特に断りがない限り北半球・温帯の気候や時間を基準に物事が動いていると考えてよい。



 5分も経たないうちに半分も残っていなかったミルクティーが空になる。


「飲み終えたよ」

「なら行こうか。会計は済んでいるから」

「う、うん」


 ありがとうございましたー、という若い店員の声をバックにふたりは店を出る。扉のカランコロンという昔ながらの音が心地よい。

 人口の日が傾き『カコリカ』の街は夕焼けのオレンジに照らされている。連休の最終日ということもあって、その光景はどこか寂しく終わりを感じさせる。

 夕日のまぶしさに目を細め、スノウは日の傾く方へと歩き始める。雪はその少し後ろをついていく。


「最後はどこに行くの?」

「お互いよく知っているところだよ。この方角をまっすぐだから想像できると思うけど」

「…………うん」


 この方角とは日が傾いている方で、つまりは西の方角を示している。そして、その方向には『サンクトルム』のキャンパスと学生寮がある。

 そして、ふたりが辿り着いたのは『ルウラ』の庭であった。


「はい、到着。ここが目的地だよ」

「なんで……、なんでここなの?」


 雪が困惑しながらそう言った。世の中には公園デートというものもあるので、こうした植物でにぎわう場所に来ることはそう変なことでもないが、時間帯的にはもう夕方であるし、ましてやわざわざ「行きたいところ」と明言してまで来るところではないように雪には感じられた。

 それに雪にとってはここは神聖な場所だ。この庭の植物は以前から植えられていたものが多いものの、一角にある花々は彼女が植えて育てているものだ。そんなテリトリーに入られていることが雪にとって不安でしかない。

 雪の言葉に対してスノウは庭の一角を指さす。


「あの花の名前を知りたかった。だからだね」


 スノウが指し示した先、そこには夕焼けによって強いオレンジ色になっている、あの黄色い花があった。その花に近づいてしゃがみこむ。


「前にもこの花を見たんだけどね、名前はわからなかった。とても綺麗だから名前を知りたいんだ」

「なんだ、そういうことかぁ」


 どんなことを言われるのかわからない恐怖と困惑によって強張っていた表情を緩めて雪はスノウの隣にしゃがむ。葉についた土を軽く払って微笑む。


「この子は『レケナウルティア』って名前の花。『レシュノルティア』とも言うんだけどね。秋から春にかけて小さな可愛い花をつけるんだ。品種もたくさんあって、赤やオレンジの花が咲くレケナウルティア・フォルモサ、青や紫の花が咲くレケナウルティア・ビローバ、リング状に花をつけるレケナウルティア・マクランサが代表的。本当はあまり庭で育てるの向いてないんだけどね」

「…………とても詳しいね」

「花だったらだいたい好きだよ。見るのも、育てるのも。

 特にレケナウルティアはあたしが一番好きな花だからいろんな品種を寮の自室でも育てているんだ」

「………………」


 嬉しそうに黄色い花弁をなでる雪。その姿は普段の明るい様子や今日のデート中に時折見せた焦燥した様子とはまるで違っていた。スノウは初めて見るはずの雪の振る舞いに既視感を覚えた。


(ああ……、そうか。アベールや谷井さんだ)


 スノウはその既視感が、GW中に訪れた友人由来のものだと理解した。

 アベールが料理をふるまった時。

 佳那がスノウに絵の講釈をしていた時。

 『なにか』に没頭している人間が放つもの。人が最も輝ける時の雰囲気。そういうものを今の雪からはありありと感じられた。


「…………雪ちゃん」

「ん? 何?」

「普段からそういう顔をしている方がずっと綺麗に感じる。人気者の明るい顔をするよりも、疲れきって苦しんで落ち込んだ顔をするよりも、ずっと。だから、無理なんてしないでいい」


 雪の顔をしっかりと見つめてスノウはそう言った。言い切った。

 今日一日でスノウは雪の行動の節々にどこか違和感を覚えていた。

 まずは、迎えに行ったとき。花の世話をする彼女と出会ったが、見慣れない恰好だったのことはともかく言動がどこか弱々しかったこと。

 次に雑貨屋。スノウが会計のために歩き出したときにため息を吐いたこと。

 第三に道端で友人と出会ったあと、逃げるように映画館に入ったこと。

 あるいは喫茶店で突然席を外したこと。

 最後に『ルウラ』に戻ってきて怯えるような表情をしたこと。

 そのどれもが普段の雪のイメージとはどこか違く、例えるなら湯呑の中にコーンポタージュが入っているかのような不一致さを感じた。

 だが、その不一致さは今日だけ感じたことではない。デートの約束を取り付けた時にも会話を不自然に打ち切る彼女の態度に違和感を覚え、それで今回のデートでその違和感の正体を見つけようと思ったのだ。そこに北山雪という人間の内面があると考えて。

 そして、スノウは今目の前で小さな花に向かって微笑みかける彼女の姿を見て、その答えを見つけることができた。

 それは、今こうしている彼女こそ本当の『北山雪』であり、人懐っこくみんなの人気者然とした雰囲気は本質ではないということ。本質ではないのに無理して明るく楽し気にしているため、時々耐えられなくなって逃げるようにその場から離れようとするのだ、と考えた。

 しかし、口下手なスノウにはそれらを上手く説明することができない。だから自分が感じたことをそのまま口にしたのだ。

 前後の考えを説明せず感情だけを述べた唐突な言葉に雪は何を思うのか。

 しばらくじぃっとその顔を見つめていると、雪はふいっと視線を逸らす。


「…………無理なんてしてないよ。あたしはあたしだよ」

「…………そう」

「…………でも、気遣ってくれて嬉しい。だから、ありがとう」

「どういたしまして」


 ふっ、と笑って立ち上がるスノウ。つられて雪も立ち上がる。


「雪ちゃん、今日は付き合ってくれてありがとう。とても楽しい時間だった」

「いいのいいの。あたしも楽しかったよ」

「部屋まで送っていかなくて大丈夫かな」

「そこまではいいよ。それはスノウ君があたしの彼氏になったらね」

「精進するよ」

「ふふ。…………じゃあ、また明日」

「うん。また、明日」


 別れの挨拶を終えて、雪は名残惜しそうに何度か振り向きながら『ルウラ』の中に入っていく。そして、スノウは彼女が完全に見えなくなるまでそこに立っていた。




「ああああああああああ!!! なーんーであんなこと言ったかなぁああああああ!!」


 その晩、雪は自室のベッドの上で頭を抱えて悶えていた。もうとっくにシャワーは浴びて今は薄い緑色のパジャマを着ている。そんなパジャマと対比するように顔は赤い。


「何があたしの彼氏になったら、なの! これじゃ彼氏になってくれって言っているみたいじゃん!」


 思い出すのはデートの別れ際。とっさに口にしてしまったことが今になって急に恥ずかしくなってきたのだ。


「しかも財布も、喫茶店でおごってもらったのも何一つちゃんとお礼言ってないし……。映画ももうちょっといい映画選べたはず……。スノウ君退屈に思わなかったかなぁ……」


 ひとつ何か良くなかったことを思い出すと、次々とあの時ああすればよかった、こうすればよかったと後悔があふれ出す。しかし、いくら後悔しても時は戻らないので、ため息をひとつついて布団の中に潜り込む。


「ダメな奴だね、あたし。きちんとお礼も言えないなんて。

 …………せめて文面だけでも言っておこ」


 布団の中でスマートフォンを操作し、スノウへのメッセージ画面を表示する。


『今日はいろいろありがとうございました。また一緒に出掛けましょう』


 そう書いて送信。10分ほどゴロゴロして反応を待つ。

 しかし、反応は来ない。


「あれ……来ない。すぐ返事する人なのに……」


 スノウは会話ではそうでもないが、文面的なメッセージのやりとりはすぐに返信する。そんなスノウから返事が10分も返ってこないことは珍しい。実はこの時スノウはすでに就寝していたので返事をできなかったのだが、そんなことを知らない雪はひとつの考えに至る。


「…………もしかして、嫌われちゃったかなぁ……」


 今度は顔色をブルーに変えて、スマートフォンを手放す。そのままうつぶせでふかふかのベッドに沈み、目をつぶって今日のことをもう一度振り返る。

 いろいろあった。スノウがいきなり迎えに来てガーデニングしているときの恰好を見られたこと。ちょっと気合を入れて着飾ってみたこと。雑貨屋で財布を選んだこと。エルやその他の友人にデートを目撃されたこと。恥ずかしさでいっぱいいっぱいになって逃げるように映画館に入ったこと。映画を見て思わず泣いてしまったこと。こじゃれた喫茶店にいたこと。そして―――


「無理なんてしないでいい……か」


 スノウの言葉を思い出して顔がほころぶ。嫌われたのではないかというネガティブな考えが一転、心が温かいもので満たされていく。


「ふふ……。スノウ君、あたし本気にしちゃうぞ?」


 答えが返ってくるはずもない問いを空へ投げかけそのまま瞳を閉じる。


(今夜はいい夢が見られそう……)


 そして、幸せな気持ちのままゆっくりと眠りへと落ちていくのであった。



 次の日の朝、その晩に見た少し恥ずかしい夢の内容に悶えて講義に遅刻しそうになるのだが、それはまた別の話である。

                                 (続く)

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