第3話 ビッグ・ベン
再び目を開けると、レンガつくりの家や青い街灯が目に入る。赤茶色の建物、チョコレート色の屋根。わたしはファウストをきつく握った。
「すごい! レンガのお家がたくさんある」
「マリィは懐かしいじゃないのかい」
「懐かしい?」
「覚えている場所はないのかなってこと」
「わからない。だけどママの手に引かれてお花屋さんでたくさん花を買った」
わたしはママとの思い出にいつもパパはいない。パパが写真を撮るから、いつもパパは写真に写らない。ママのアルバムの中には、ママの思い出とパパが撮った写真しかなかった。だからわたしは、パパに会ったらパパの写真を撮りたい。
「それから思い出せない。でもそこにパパはいなかった」
「この町でなにかがあったんだね」
「ねぇ、ファウスト? パパ見つかるよね?」
「マリィはあきらめちゃうの?」
ファウストの質問にわたしはすこし不安になった。見つからなかったらどうしようっていう気持ちと、見つけて連れて帰ってもママとパパと一緒に暮らせるのかはわかっていない。
「マリィ?」
「あきらめないよ」
わたしは自分に言い聞かせる。わたしはわたしの願いを持って、パパを探す。不安が形になってしまう前に、わたしはパパを見つけたい。
「ねぇ、時計台に向かうよ。なにかわかるかも知れない」
「うん」
できることはしたい。わたしはファウストの提案に返事をした。曇り空のなかでわたしとファウストはレンガの街をとぼとぼ歩く。ぼんやりと明りのつく街灯の下、わたしとファウストはふたりぼっちだ。
「ファウストはさぁ、この国にきたことがあるの?」
「あるよ。前のご主人様は旅が好きな人だったから」
「へぇ、じゃあわたしよりもっともっといろんなところに行っているのね」
「でも僕はマリィのいるところが好きかな」
「ふふ、ありがとう」
雨の降りそうな灰色の空にぬいぐるみとわたしのふたりだけの街。ここで雨が降ったらわたしの気持ちを空がかわりになってくれているのかって思えてしまう。
「……きっと、ママもパパのいるところが好きなのかな」
「だから、マリィが探してるんでしょ」
「そうだね」
優しいファウストの言葉に涙が出そうになる。上を向いて、涙を我慢する。わたしだって成長したのだ。上を向くと、大きな時計の文字盤が見えた。いつのまにか時計台の下に来ていた。いつか見た写真とは違い大きくレトロなつくりをした文字盤と茶色い塔に目を見張った。
「ねぇ、ファウスト。パパからもらったアルバムには時計台が見えるんだけど、写真は時計台の下じゃないよ」
「たしかに、時計台の真下からだと、時計台は映らないね」
「ここはどこかな」
わたしはあたりを見渡す。ファウストも黒いボタンの目を輝かせている。きっとすぐ近くなんだ。
「橋の縁が見えるよ」
ファウストが声を上げる。目線を横に動かすと、大きなレンガの橋が見える。
「そこだ」
街頭が照らす小さな橋。わたしは橋の手すりに手をかけ、時計台と川を見渡した。曇り空とうっすらかかる霧。大きなのっぽの時計台とお菓子色の建物。
『俺がパパになるなんて今でも信じられないよ』
隣から声がした。振り返るとパパとママが時計台を見つめながら話をしていた。やっぱり半透明の今にも消えそうな姿で、キラキラをまとっていた。
『あら、わたしはずいぶん前からあなたと一緒になれることを夢見ていたわ』
ママがほほを染めて笑う。
『あなたの告白、覚えているわ』
『恥ずかしいなぁ』
やわらかい空気の中、急にパパは怖い顔をして静かになった。そんなパパを見て、ママは不思議そうな、でも悲しそうな顔をした。わたしもママのように不安な気持ちになった。
『もうひとつ、告白することがあるんだ』
『なぁに?』
ママは静かに尋ねる。無理に作った微笑みが、ぬるい霧が張り付いている。わたしはママの後ろにしがみつきたくなった。けれど形の無い映像のような思い出は、私の手をすり抜けてしまう。
『俺、どうしても叶えたい夢があるんだ』
パパの言葉が冷たく走った。一瞬だけ、ママは顔をゆがめたけれど、優しい笑顔をパパに向ける。それは笑っているのに泣きそうに見える。
『そう、止めても無駄ね』
霧の作る白いぼんやりとした世界。静かにママはパパの手を取り握る。
『わたしが好きになったのは、真っ直ぐな瞳をしたあなただもの』
指を絡めて、わたしの目線で体温を確かめ合うような二人にわたしは立ち尽くした。
『ごめん』
『いいのよ、そういうあなたが好き』
キラキラの光になって消えた思い出。キラキラの前でうつむいて、腕の中のファウストに聞いてしまった。どうしても抑えられなかった。
「……どういうことなの」
「マリィ」
悪いのはファウストではない。でも、わたしは、わたしは。
「ファウスト、パパはなんでママのところからいなくなったの?」
「夢はそんなに大切なの?」
「マリィだって夢を叶えるために僕と一緒にここまできたじゃん」
「夢は大事だよ」
「ファウスト、わたし、わからないよ」
涙がぽろぽろと落ちる。雨と違いわたしの涙は温かい。あったかくて、しょっぱい。
「わからないよ」
ファウストも静かにしている。霧の中でぼんやりとした不安が襲い掛かる。怖い気持ちの理由が言葉に表せないけれど、胸の奥が熱く苦しかった。
「ねぇ、ファウスト。わたし、帰る」
「えっ」
重たい唇を無理やり開く。こんな気持ちになるのなら知りたくなった。夢など持たなければよかった。ママがいつも言う、夢なんて叶わないものだっていうことが分かった。わたしはママの言うことを聞けばよかった。
「こんなこと、知りたくなかった。パパはパパの夢を叶えるために行ってしまったのに、わたしはわたしの夢のために、パパの夢を奪うことはいけない……と、思う」
涙でぼろぼろになった顔で笑う。あぁ、さっきのママ見たいな顔なのかな。でも、ママはわたしよりもずっときれいに笑えていた。
「マリィ。夢をあきらめるのはいけないよ」
ファウストはぽつりと言う。さっきと違う、ちょっと強い口調。
「マリィの元気が出るように、僕から少しはやいクリスマスプレゼントをあげる」
腕の中でファウストは「ふむ」と少し考え込む。ゴーン、ゴンと時計台が三時を告げる鐘が鳴る。頭の遠くに鐘の音の残響を残して、ファウストは明るい声で言った。
「目を閉じて、マリィとママの好きな花を思い浮かべて」
わたしは目を閉じて、チューリップの花を思い浮かべた。アルバムの一番初めの写真。そしてママの一番好きな花。わたしの一番大切にしている景色。
花の香りに目を覚ます。
乾いた空気がふんわりと風となって耳の横を通り抜ける。やわらかい日差しが差し込む。大きな風車がゴトンゴトンと翼を広げて回っていた。その下で緑が見えないほどの、丸い形や尖ったもの、フリル状の様々な花びらをしたチューリップが咲き乱れていた。
「きれい」
鮮やかなお花畑の前で流した涙の後など気にしていられなくなった。
「でしょ? 僕、ここのチューリップが一番好きなんだ」
「ファウストの好きな景色?」
「うん」
「ふふ、奇遇ね。わたしも一番好きな景色なんだ」
「それはよかった」
大きく深呼吸をする。風車の回る静かな丘で、わたしとファウストはくるくるワルツを踊った。チューリップの花畑の中でくるくるくるくる回る。目が回って疲れたら、ごろんと花の中に倒れてクスクス笑いあった。
「僕の夢はこれで叶った」
ファウストの言葉にわたしは「えっ」と声を上げてしまった。
「僕の夢はマリィと一緒に旅をすることだった」
チューリップの葉っぱが風に揺れる。花びらが頭についたファウストは嬉しそうな顔をして、わたしに夢を語っていたのだ。
「でも今日で、叶った。それも一緒に行きたかった、この場所にも来られた。僕は満足だよ」
夢はかなわないもの。わたしは、さっきまで頭のなかを埋めていた不安がきれいさっぱりなくなっていることに気が付いた。ファウストは自分の夢を叶えて、わたしに夢はかなうものっていう証明をしたのだ。
「ありがとうファウスト」
わたしの目には再び涙があふれる。けれどそれは悲しいというわけではない。ただただ嬉しかったのだ。
(続く)
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