第131話 エルル族 2
突然の怒号に、二人は慌てて抱き合おうと額を激しくぶつけて、その場に尻もちをついた。
一瞬の事だった、ほんの一瞬で日常というガラス玉が割れるように脳裏にファティマの声が響く、「邪悪な瞳を持つ民・エルル族」彼女の目的、エルシャムヘイムの遺跡も、イズラヘイムも、たった一つの使命を果たす通過点でしかない、「エルル族をこの地上から殲滅する」手のひらを向けたファティマの言葉が響いた。
(アスラマが小さな子供を、二人を傷つける筈が無い。)
そう念じるように心の中で唱えたが、ファティマから発せられる強い意志の前では、脆く薄っぺらい言葉だった。彼女はファティマの目的のためなら手段を択ばない、ファティマの手だった。
「やめろ、アスラマ!」
ローブの上からでも分かるくらい、腰を落として身構えているアスラマに向かって叫んだ。
そこに、ゴルドニップで初めて出会った頃の彼女の姿が重なる。
(まさか、砂の国までついて来たのは、このために?……)
その時、突然渦巻く風が湧き上がった。
撒き上がる砂から腕で視界を庇いつつアスラマに向かって叫んだが、砂の切れ間から覗く彼女は、恐怖に後ずさろうとしているように見えた。
(何かを恐れて?……)
風は確かに、二人の少女を包み込むように湧き上がった。そう思った瞬間、吹きつける砂が首筋を撫でる柔らかい指先の感触に変わった。
「エルル族の瞳は、イブリースの眷属を従わせる力を持っている……」
耳元で囁く声に、滑るように張った指先に、弾丸がかすめたような熱く冷たい恐怖を感じずにはいられなかった。
(この声は……ファティマの?)
聞こえる筈のない声と吹きつける砂を振り払おうと夢中で腕を振るう。だが、撒き上がった風など幻覚であったかのように視界が晴れ、目の前には頭を押さえてしり餅をついた二人に手を差し伸べる来夏の姿があった。
「大丈夫? 立てる?」
「イルイルは、平気なのです」
「ノルノルは、痛くないなのです」
転んだ子供に手を差し伸べる、ごく普通な日常の風景がそこにあった。
起き上がるとスカートに顔を埋める二人の頭にそっと手を置いて、優しく語りかける彼女の声は、いつもと変わらない。
「おねえさんに、ご挨拶は出来る?」
「イルイルは、出来るなのです」
「ノルノルは、挨拶なのです」
スカートから顔を離すと、二人は小さな頭を下げた。
「はじめまして、イルイルなのです」
「こんにちわ、ノルノルなのです」
「挨拶は、はじめましてなのです」
「挨拶は、こんにちわなのです」
来夏の周りをくるくる回って場所を入れ替えると、二人はもう一度頭を下げた。
「こんにちは、イルイルなのです」
「はじめまして、ノルノルなのです」
「ちがうなのです」
「ちがわないなのです」
「あの……、すいません……。初めて、見たもので…………」
二人のやり取りにたどたどしく答えるアスラマの声が聞こえ、夢から引き戻された気がして慌てて二人の紹介を始めた。
「こっちは、バロシャムのアスラマだ。彼女は、ラーイカ……」
名前しか伝える事の出来ない紹介を前にも繰り返したと思い出した。そして、あの時は深く考えなかったがイズラヘイムでの彼女たちの反応のおかしさが言葉を詰まらせる。
それを来夏は何事もなく引き継いで。
「はじめまして、来夏と申します」
恭しく頭を下げた。
目の前の光景こそが、現実なのだ。アスラマが子供たちに襲い掛かるなど、ノルノルとイルイルがイブリースの眷属を呼び出すなど、全ては妄想、悪い夢だ。
(夢? どちらが?……)
穏やかに談笑する少女たちの姿こそ、都合の良い夢ではないのか、それとも彼女たちを隔てる壁など無かったのか?
いや、確かにそこに壁はあった。絶対越えられぬ壁が。しかし、その壁を造り出したのは、彼女たちではない。他の誰かの価値観によって、造り出された壁なのだ。壁の高さを見上げて立ち止まる必要など無かったのだ。壁の向こうにあるものを知れば、歩みを止める必要もないのだ。
(これが、手を伸ばした結果なのか?……本当に?)
どこにでもある様な日常の風景が、奇跡のようなバランスで成り立っている。よく知っている、見慣れた日常の風景でありながら、超常の力を持つ彼女たちの世界は、ガラスで隔てられた夢の中の風景を見ているような信じられぬものである気がしていた。
(それでも……、手を伸ばした先にあるものがどれほど不確かなものであっても……)
その先にあるものを掴まねばならない。足を踏み出さねばならない。
「アリード、どうしたの?」
目の前の少女たちの笑顔がアリードに向けられていた。
「あ……あぁ……、いや、それじゃあ行って来る」
夢から覚めたように頭を振った。
その先にあるものが夢でも奇跡でも、自分に出来る事をするだけだと、硬く心に誓って。
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