第85話 死に場所 1
厳しい検問をしいたイズラヘイム軍と、早急に進行の準備を固める大国連合軍のいがみ合いが、日に日に増していた最中に本国から撤退の命令が来ると、一枚岩ではない連合軍は、我先に帰国しようとする部隊や、やる事の無くなった兵士たちが溢れ、さらに混乱を極めた。
しかし、その様な中でも、イズラヘイム軍によるメルトロウの捜索は続けられていた。
当然、犯罪者の隠れ潜みそうな貧民街を徹底的に捜索したイズラヘイム軍であったが、不法に建築された建物は入り組み、強引に壁た建物を打ち壊して捜索しても、人員と時間を無駄に浪費するだけで、メルトロウの手掛かり一つ見つからなかった。
それもそのはず、メルトロウは、イズラヘイムでも最も裕福な層が住む邸宅が立ち並ぶ地区に身を潜めていたのだ。
「軍の追跡からはうまく逃げられましたが……」
「代わりに、我々も身動きが取れなくなった、か」
メルトロウは、テーブルの上で、敵味方が複雑に入り乱れたチェス盤のビショップの尖った頭を指で押さえた。ゲームに興じている訳ではない、右端で戦うキングにナイト、中央に位置するクイーン、左側から敵陣深く入り込んでいるビショップ。その様な駒の配置はゲームとしては成り立たないだろう。
富裕層エリアは、捜索部隊が押し入ってくる可能性のない邸宅に身を潜めている分には申し分なかったが、一歩外に出れば、豪邸の並ぶ広い道に人通りも少なく、外国人である彼らの姿はこの上なく目立つ。
「しかし、保守派の代表格ともいえる、カラル・ミシャドーラ大臣が、我々をかくまってくれたものです。宰相の人脈には驚かされるばかりです」
「宰相はよしたまえ。単純な話だよ、我々が捕まらなければ、軍の力を使って、発言力を強めているイグル・ミャカッド将軍の勢力を叩ける。また、我々を手元に置く事によって、標的にされる心配もない。いざとなれば、自らの手で捕らえる事も出来る訳だしね。彼にとって、我々が必要な駒である限りは、手の届く所に置いておきたい物なのだよ」
「なるほど、しばらくは安泰という事ですね」
「うむ、しばらくは……ね。しかし、彼に手柄をあげさせて、首相になる手助けをするつもりはないよ。そろそろ、こちらから動かねば……」
盤上から目を話すと、メルトロウは唇に指を当てて、話を遮った。
その意味を察した護衛の兵士が、足音も立てずに、そっと、扉の側に立つ。
扉から入って来る者を、すかさず取り押さえるためであったが、扉を開けた手が若い女のものであったのには、驚きを隠せない様子だった。
メルトロウは、軽く手で兵士に合図を送りながら、ゆったりと答えた。
「これは、これは、この様な所に足をお運びいただくとは、ご婦人、どういったご用件でしょうか?」
「私は、カラル・ミシャドーラの娘、ミャラムーナと申します」
メルトロウは、訝(いぶか)しんだ。
ミャラムーナとは面識があるとは言っても、かくまってもらうために訪れた時、たまたま居合わせた娘を紹介されて、軽く会釈をかわしたに過ぎない。その大臣の娘が、邸宅内にかくまわれていると言っても、捕虜にも等しい客人の元へ一人で来るだろうか?
「父は、メルトロウ様を捕らえて、軍へ突き出すつもりです。どうか、早くお逃げください」
「ご忠告ありがとうございます。しかし、我々は御父上の客人の身、勝手に出て行くような振る舞いは……」
「これを、お使いください」
とても大事そうに抱えていた、軽く丸めた紙をメルトロウの前に差し出した。
証書らしい上質な紙に、紙の小さな帯でカラル家の家紋の入った蝋封がしてあった。簡単に抜けてしまう帯に封をしたところで意味はないのだが、この娘なりの敬意の表したラッピングとでもいうものだろうか。
「父の名のはいった通行証明書です。これがあれば、検問も通してもらえるはずです」
「御心使いありがとうございます。しかし、ご婦人がこのような所に長居されてはなりますまい。衛兵に部屋まで遅らせましょう」
「いえ、一人で戻れますので……。メルトロウ様、どうかお気をつけて」
ミャラムーナは、護衛を断ると、恭しく頭を下げて部屋から出て行った。
メルトロウは、手元に残された証書をするりと帯から引き抜いた。
ざっと目を通してみるが、どこにも怪しい所は無い、大臣の直筆のサインもある。本物の証書の様だ。
次に、蝋封された帯を手に取った。
封に使われた蝋の中に細工をする事も出来るが、ここに発信器を仕込むには、何とも心もとない代物であると言えよう。
確かに喉から手が出るほど欲しいものであったが、こうも簡単に、手に入ってしまえば、怪しまずにはいられなかった。
(これは、誰の差し金か……)
しかし、盤上に目を配ったところで、それを意図する駒など何処にもない。
全ての事象が、原因と結果でしかない彼にとって、降って湧いた幸運など在りはしないのだから。それには必ず、誰かの意思が係わっている。
「メルトロウ様も、隅に置けませんな」
兵士が口の端に笑いを浮かべるのを視界にとらえると、もう一度、証書を丹念に調べ始めた。見落としが無いか隅々まで目を配っていたが、何かに気づいたのか、素早く動いた眼が急に止まった。
「……なにを馬鹿な」
聞き取れないほどの声で呟いたが、証書を元に戻し顔を上げると、普段通りの穏やかな無表情が彼の顔を占めていた。
「ともかく、これで準備は整いました。我々も行動に移りますよ」
テーブルに残されたゲーム盤の上のビショップが、キングの正面へと移動していた。
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