第5話 洗濯物と少女
何というかふわふわした浮ついた気持ちで、落ち着かない日々を過ごしていた。
体調の不良だろうかと、何度か自分の体をスキャンしてみても特に異常はない。当然と言えば当然の事、魔法の自己防衛機能が不具合でも起こさない限り、来夏の身体機能に異常が起こるはずもない。生命維持の根幹にかかわる機能の不具合何て、この数百年あったためしがなかったのだ。だとすると心の問題でしかなかったのだが、精神的なストレスレベルも決して高い数値を示している訳では無かった。
(この世界に居る事が不安なのだろうか? この世界から離れる事が不安なのだろうか?)
曖昧な葛藤が浮かんでは消える。この世界に来てまだ数日、日本に帰れるのはまだまだ先の事、ぼんやりとした想いが彼女を地に足のつかない風船のように風の流れに浮かべていた。
「ラーイカ、手伝って」
ふわふわと漂う彼女はたいそう暇そうに見えたのだろう、前が見えない位洗濯物を積み上げた大きな籠を抱えた少女が、洗濯場に向かいながら呼んでいる。
彼女の名はミャヒナ、孤児院の中では年長の方で、来夏とあまり変わらない年齢だと思う。明るい性格で、小さな子供たちの頼りがいのある元気なお姉さんと言った感じの少女だった。
駆け寄って大きな籠を半分持つと、二人は、ゆっくりと洗濯場までなだらかな坂を下って行く。
乾燥した町の廃墟からは思いもよらなかったが、そこには川の小さな支流が流れ込んできており、青々とした草の生い茂る小さなオアシスを作り出していた。水道が整備されて無いほど文明の発達していない世界ではないのだが、それも人の集まる都市部での話、孤児院の子供たちは洗濯や生活に必要な水は、すべてこの川に頼っている。
水温のあまり低くない川の水でも流れに触れるのは心地よく、洗濯は人気の仕事であったが、かなりの枚数を日に何度も洗う事になり重労働でもある。
二人はふざけてしぶきを掛け合いながらも、洗濯物の数を次々に減らして行ったが、幾つかはもう擦り切れてしまいそうなほど布地がくたびれている事が気になっていた。
「これも、穴が開きそう……。街に行けば新しい服が買えるかしら?」
ミャヒナは少し戸惑った表情を作ったが、手にした洗濯物を見つめながら、呟くように答えた。
「……そうね、そろそろ新しい服を用意しないと」
(やはり、あの街に何かあるのだろうか……)
普段、明るく元気なミャヒナからは、考えられない程、今の彼女の返事はおかしかった。イルイルたちの事もある、来夏は思い切って、彼女に聞いてみる事にした。
「ミャヒナ、あの街に何があるの? イルイルとノルノルもあの街を怖がっていたけれど……」
その質問に返ってきたのが意外な答えだった。
「私はね、ミューヒ族なんだ。今は西の端の小さな地域に住んで居る民族だけど、五十年ほど前は、この国の大半を支配していたんだって。でも、一度戦いに負けると、支配されていた他の民族が一斉に反旗を翻して、西の小さな土地へと追い出された。軍隊はあっという間に撤退しちゃって、私達みたいに取り残された人々は、支配する民族から、支配される民族になったの」
人間の歴史が始まって以来、いえ、きっとその前からも、繰り返されてきた民族同士の争い、その歴史が示すように、立場が入れ替わった時の人の行動は、時として抑えが効かなくなるものだ。
差別、偏見、逆恨み、来夏にとっては、取るに足らない事に思えても、彼らの中で育った軋轢は、洗い流す事も出来ないほど深く染みついてしまっているのだろう。
知らぬ間に、洗濯物をこする手に力が入っていた。
「私はね、いいの。布で顔を隠していれば分からないし、でも、イルイルとノルノルは、エルル族だから……エルル族の過激派が、二十年前に、アルシャザード大統領の弟を暗殺したの」
「そんな、それこそ、二人には何の関係もないじゃない。暗殺者とたまたま、同じ民族だったというだけじゃない」
来夏は思わず反論してしまったがミャヒナがそれを一番わかっているのだ、彼女にそんな事を言っても仕方がないのだと恥じ入るばかりであった。
唇をかんだ来夏に気を使ったのか、ミャヒナは静かに話を続けてくれた。
「過激派が暗殺の後、犯行声明を出したの、民族のための正義の裁きだと。そしたら、大統領は、エルル族を捕らえる法律を作って……エルル族は、瞳にエルルの星とよばれる紋様があるし、独特の言葉の発音があって、すぐに見つかってしまうから……」
(無意味な報復の応酬……)
来夏にとっては、そう考えるのは当然であったが、ライオンに仲間を食べられた動物は、ライオンと話し合えるのだろうか?
家族や友人を食べた相手を前にして、どこまで、冷静でいられるのだろうか。
捕まったエルル族がどうなるかは、想像に難くない。イルイルとノルノルの怯え方を見れば、二人の独特な話し方は、その発音を隠すためのものなのだろう。そうしなければならなかった、そうしなければ生きていけないと、幼い子供にまであれだけの恐怖を植え付けたのだ。
小さな笑顔の下の過酷な運命を垣間見ても、来夏にはどうする事も出来なかった。
魔法と言う軌跡にも等しい力の何とちっぽけで、儚い物なのかと。
「ラーイカ、洗濯するのです」
「ラーイカ、お手伝いなのです」
「きゃっ!」
坂を駆け下った勢いのまま、イルイルとノルノルが川に飛び込んで、大きなしぶきを上げた。
「もう、二人共、何てことするのよ!」
頭から水を被ったミャヒナが腰に手を当てて立ち上がったが、にーっと企んだ笑顔で口元を歪めると、両手で水をすくって大きく撒き散らす。それを二人に抱きつかれていた来夏が頭からかぶる事になった。
「もう、ミャヒナ、酷い!」
「ミャヒナはひどいのです」
「ミャヒナはもうもうなのです」
来夏に同調した二人は川の水を小さな手ですくってしぶきを上げると、負けじと応戦するミャヒナと激しい水かけ合戦を開始する。
参戦した来夏も彼女たちに並んでしぶきを巻き上げていたが、隣りで夢中になって水をすくっているイルイルの服の裾がほつれていたのを気づかれないように、そっと魔法で直して置いた。
(私にはこれくらいしか出来ない、から……)
出発前に朋美に言われた言葉を思い出していた。
『目の前にいる一人をすくえばいい』
その通りだった。
破れた服を直す、そんな僅かな事しか出来なくとも、それが例え、砂漠に水を撒くように、何の解決にもならないその場しのぎの自己満足であったとしても、明日も彼女が笑顔でいられるなら、それでいい。
私は喜んで水を撒こう。
何度でも水を撒こう。
高く、高く、水を撒こう。
いつかあの空に届き、皆に恵みの雨となるように。
手伝いも何のその洗濯物もそっちのけで、舞い上がる水しぶきと明るい笑い声が小さな川に響いていた。
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