童子、大蛇の調伏に立ち会う
翌日、
「童子様、苦しくはありませぬか」
「う……うむ。苦しくはないのだが、どうにも落ち着きませぬ」
「しばらくは
2人が富士山方面へと歩きだそうとすると、どこからともなく、すすっと一人の僧が道を塞ぐように出てきた。
「これはこれは、おあじ殿。いずこへお出かけかな」
「
「さようか。――よもや、逃げ出すつもりではあるまいな」
宗源はにこやかに笑いながらも、探るような低い声で言った。
「いえ、そのような事はいたしません」
おあじは声を強め、きっぱりと否定する。
「これは失礼。ならば結構。姉巫女の方々も安堵するであろう。ではまた、後ほど」
宗源は軽く会釈をすると、去っていった。おあじは悔しそうにその背中を睨んでいる。胸元で一部始終を見ていた童子は、おあじに尋ねた。
「彼の僧が、徳川殿から使わされたという法師ですかな?」
「はい。宗源様とおっしゃいます」
「ふむ。"後ほど"と申しておったが、何か約束でもおありか」
「ええ。実は人身御供の儀式に先んじて、本日、宗源様が三股淵にて大蛇の
「成る程成る程。宗源殿の調伏が成功すれば、おあじどのも晴れて自由の身というわけですな」
「はい。そうなれば嬉しいのですが……」
おあじは、不安そうに言葉を濁した。
「おあじ殿としては、あの宗源とやらがあまり信用できぬ、と」
おあじは、こくりと頷いた。
「やはり。ふむ、おあじ殿、事情が変わりました。信ずるに足りるかはともかく、本日、宗源殿が調伏をするのであれば、私もその場を見てみたい。ねぐらに帰るのはそれからで構いませぬ。どうか、同行をさせてくれぬでしょうか」
「え……ええ。私は構いませぬが」
「何、どうせ宗源殿にも村の者にも、私の姿は見えますまい。ひとつ特等席でお手並み拝見といきましょうぞ」
童子は不安げなおあじを励ますかのように
***
さて、午の刻を
「いやはや神輿とは大仰な事を。よほど村の皆に、調伏に向かう事を知らしめたいようですな」
「私がどこかへ逃げ出すと思っているのでしょう」
「それもあるやもしれませんな」
おあじと懐の中の童子は、神輿の上でこそこそと話をしていた。そうこうしているうちに、田子の浦までたどり着く。暗く、深く、滔々と水を湛える三股淵の傍らには、何やら出来合いの祭壇のような物が用意されている。
おあじは神輿から降りると、祭壇の前に連れて行かれ、その場に敷かれていた
宗源が馬から下り、手にした
「始まったか。どうれ、かぶりつきで拝見させて貰おうぞ」
皆が目を閉じ、神妙に頭を垂れている中、ひとり童子は、すたすたと僧の足下へと歩いていき、後ろ手を組んでその様子を眺めている。
宗源の声が大きくなるにつれ、川面で跳ねる白波、すなわち
宗源が一際大きな声で真言を唱え、錫杖で地を突く。すると、三匹の蛟が淵の底へとすぅ……と吸い込まれるように消えていった。かと思うと、淵の水が渦巻き始め、地鳴りのような響きと共に
「なんと!」
「お……大蛇じゃ!」
「ひぃっ……」
村人達は、目の前の巨大な大蛇に恐れ
「騒がしいと思えば人間どもめか。約束の期日にはまだ日があるようだが、何事だ」
大蛇は低く、しゃがれた声で問うてくる。
「よく聞け大蛇。我こそは徳川様の命により、貴様を調伏しに参った宗源なり! 田畑を荒らし、街道を荒らし、生贄を捧げねば厄災を
宗源は錫杖を地に突き立て、何やら印を結んで真言を唱える。しかし、大蛇は苦しみもせずに、平然としている。宗源はその様子を見て2、3歩後ずさりしたが、真言を唱え続ける。
「先程から何をしておる。わけのわからぬ坊主めが」
大蛇はそう言い捨てるや否や、一本の首をすう、と持ち上げ水面を叩いた。
「ひぃっ……これは手に負えぬ! これまでだ」
すっかり気力を挫かれた様子の宗源は、錫杖をその場において脱兎のごとく逃げ出した。馬の横腹にしがみ付くようにすると、蔵に座るのも待てぬといった様子でそのまま馬を駆けさせ、逃げ去って行った。
「そ……宗源様!」
「もう駄目じゃ。逃げろ!」
その様子を見て、村人たちも我先にと逃げ出して行った。残ったのは、おあじと童子のみ。大蛇はおあじに気が付くと、三つの鎌首をそちらへと向ける。
「ほう、隻眼の乙女とな。これは麗しい。そなたが人身御供か。期日にはまだ間があるが、まあ良い。我に呑まれて我が一族の糧となるがよい」
三つ首の大蛇はその巨体をざばりと岸へと寄せ、おあじを囲むように
「これ、三つ首の。待たれよ」
大蛇が声のする方向を見やると、誰もいない。
「ここじゃ。もそっと下を見よ」
さらに声がする。言われたとおりに注意深く地の辺りを見ると、五寸ほどの童子が腕を組んでうんうんと頷いている。
「なんじゃ、
大蛇は
「追い掃うとな。馬鹿を申すな! この身体を見ればわかるであろう。私にそんな余力なぞ無い! そもそも、
元よりそなたは憑き物なぞではなく、この地の河川。切っても切れぬ腐れ縁ゆえ、この地より祓うことなぞ土台無理な話だ。その上で、そなたが猛り狂うのであれば、我々がどうにかしようと思っても無駄な事よ。お主も力の差くらいは心得ていよう。抑えつけることなどできぬわ。
さりとて、好き勝手に暴れられてはこちらも堪らぬ。生ける物は命を奪われ、怒りは他の河川や山々にまで連鎖する。そうなればもはや、手が付けられぬ。たとえこの地から逃げ出そうと、放置した怒りが呼び水となり、行く先々で同じ、いや、それ以上の惨劇が起きようぞ」
童子は悪びれるでもなく、腰に手を当て、胸を張って言い返す。
「ほう。自慢げに情けない事を申す小童よ。ならばどうする。追い出すことも逃げる事もできず、抑えつけることもできぬ。大人しく軍門に降るとでもいうか」
大蛇はおあじを囲んでいた蜷局を解き、ずるりと童子の方へとにじり寄って来た。
「見くびって貰っては困る。我々はそういった時、祓うのではない。鎮めるのだ」
「
「その通り。しばしそこで待つが良い」
童子は腰に刺していた笛を取り出し、おあじの下へ歩み寄る。
「おあじ殿、立てますかな。もう大丈夫でございます。これより私が笛を吹きますゆえ、おあじ殿はそれに合わせて踊って下され。
「神楽舞……巫女舞でございますか。ですが、童子様。私めは……」
「わかっております。巫女ではないというのでしょう。しかしおあじ殿、踊りに関しては巫女よりも余程達者でございましょう。ただ、舞ってくれれば良いのです」
「童子様……!! なぜそれを……」
「解りますとも。まあ、今はその話は止めておきましょう。しかし困りましたな。笛だけではちと寂しい。太鼓か鈴でもあれば良いのだが……」
すると、どこからともなく、しゃんしゃんと鈴の音が聞こえる。音のする方を見ると、曾良が何食わぬ顔で
「アオ」
おあじの足元に鈴をポトリと落とした曾良は、どうだと言わんばかりにおあじと童子の顔を交互に見る。
「曾良殿。かたじけない。ささ、おあじ殿、鈴をお取り下され。では、始めるとしますか。おい三つ首の、待たせたのう」
童子は笛を横ざまに咥え、吹き始めた。渦の逆巻く波音ばかりがごうごうと鳴り響いていた三股淵に、幽玄な調べが奏でられる。その音に合わせ、おあじも舞った。手にした神楽鈴の音色をしゃん、しゃんと響かせ、ゆったりと、そして時に力強く地を踏み鳴らす。
笛と舞の調は、時に優雅に、時に艶めかしく変化する。それに合わせ、三股淵の渦は治まり、暗く蒼かった淵の水も、澄んだ水色へと変化する。穏やかになった水面には、白波の代わりに太陽が反射するきらきらした光が踊り始めた。
童子とおあじが
「お見事。小童に巫女よ。儂の荒んだ心も洗われたかのようだ。これ程の舞を見せられては害を成すことなどできぬ。人身御供の件、忘れてくれ。怒りに駆られていたこととはいえ、余りな要求であったわ」
「なんのなんの。お粗末でした。時に怒りに駆られるのは、致し方の無い事。とはいえ、今後は互いにうまくやってゆこうではないか。我々は、人と共に歩むしかないのだからな」
「うむ。そうだな。良い物を見せて貰ったわ。それにしても、儂はなぜ急にあのような怒りを……、まあ良い。小童に巫女よ。さらばだ」
そう言うと、三つ首の大蛇は深い淵の底へと帰って行った。
***
「ときに、童子様、いつから私が巫女ではないとお気づきでしたか」
吉原の宿への道中、おあじは懐の中の童子に尋ねてみた。
「なに、巫女は自分の事を
「なるほど。つい、いつもの癖で……」
「おそらく、戦続きで客足の遠のいた
「まあ、童子様はそこまで……。お見逸れしました。」
「なんのなんの。それより、おあじ殿。宿に帰ったら、大蛇はおあじどのが鎮撫したと言うのですよ。なに、実際見事な舞で大蛇を鎮めたのです。その実績があれば、たとえ宗源めが芸者であるなどと言おうとも、誰も相手にしないでしょう」
「はい。ではお言葉に甘えて」
「うむ。では私はそろそろねぐらへと戻りますかな。いろいろとお世話になりました。曾良殿もな」
「こちらこそお世話になりました。童子様、この御恩はいつか必ずお返しします」
童子は吉原の宿の手前の分かれ道で、ひょいとおあじの胸から降りた。おあじは何度も振り返っては手を振っていたが、猫は当然のごとく振り返りもせず、尻尾を振る事すらもせずに帰って行った。
「それにしても、あの宗源とかいう坊主。白羽の矢に人身御供などという小細工まで弄して、いったい何をしたかったのやら。……まあ良い。美しい舞も見れたことであるし、帰って休むとするか」
童子はねぐらに帰り、その晩は芋の葉にくるまってぐっすりと休んだ。翌朝、目が覚めた童子がうーんとひとつ伸びをしようとすると、なにやら地が揺れている。しまったと思い、慌てて笛を取ろうと手で探ったが、宙を掴むばかり。そればかりか、体も宙に浮いている。これは何かがおかしいと、頭上を見上げた童子が眼にしたのは、猫の鼻だった。
かくて童子は、朝からキジトラ模様の暴君に連れられ、またしてもどこかへ連れ去られていくのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます